17.
2018
Language
17.
2018
Language
2018年
言語
あるとき、人から、あなたはどうして言語のことを追い続けるのですかと尋ねられ、その場ではすぐにはうまく答えられなかったことがあった。しかしその後もそのことはやはり気になり、しばらく考えているうちに、その問いは、あなたは何を学んできたのですかという問いと、ほとんど重なっていることに気づいた。私はこれまで、言語を中心とした本当に狭いことしか学んでこなかったからである。
私の青春は、別の面では、近代とはなにかと問うことからはじまったようにおもわれる。私がそのとき、そのことを 問うことができたのは、中国とフランスという場があったからであった。中国にあっては、私にとっての近代とは、清朝の精緻極まる文字学であった。フランスの近代は、ランボーやヴェルレーヌやラフォルグに代表される象徴詩であった。
しかし二つとも私にとっては、言語という大きな壁があった。中国の場合は、文字学・音韻学を含む古代漢語、いわゆる経学の膨大な遺産との格闘があった。フランスの場合は、語学も勿論であったが、根源的に私にとっては、詩そのものがよくわからなかった。
たとえばイギリスの詩については、高校時代から少しづつ親しんできていたが、その弱強の韻律の美しさはいくら音読してみても、私には心地よいなどとは感じられなかった。のちにシェイクスピアの戯曲、「ヘンリー4世」の冒頭を読んでいたときに、はじめてイギリスの詩の韻律の美しさを感ずることができた。このときは本当にうれしかった。
それに比して、フランスの詩はその音韻律が開母音の日本の古来からの韻律と近かったために、音数律による詩の美しさは、高校時代にフランス語を学びはじめたときから、実感することができた。しかし韻律と象徴の相関というようなフランスの象徴詩の根幹にいたっては、当然ながら私のレベルをはるかに超えるものであった。これものちに、鈴木信太郎先生の『フランス詩法 上』に接したとき、先生が「後記」で著作の完成に1924年から1950年まで26年を要したことを知り、みずからの無知がかなしいほどにおもわれた。
従って私はもう十分にみずからの非学を感じながらも、言語への別の経路を模索する日々が続くこととなった。私がその中で得た結論は極めて単純なものであった。言語の探究がいずれにしても困難であるなら、言語の本質とはなにかという最も根源となる問いこそが私の学びの中心となるのではないかということが、和光での研究生時代の後半、千野栄一先生の『構造言語学』を受講する中でほとんど確信に近いものとなっていった。
ある日講義が終了したあと、私は千野先生とドアの前で話したことを昨日のようにおぼえている。多分研究生の終了が間近となった1985年の秋頃ではなかっただろうか。先生は私に「今何を考えているのか」と尋ねられた。私はそのころ、Godel およびその盟友であった竹内外史の集合論に依拠しながら、言語、正確には単語の意味の内部構造を集合論をもととした数学で記述したいという、ほとんど夢に近いようなことを考えていたので、それを素直に述べると、先生は本当に怒ったように、「それはWittgenstein のようなものがやることで、私たちがやることではない」と私に話された。そのことが忘れられない。
しかし私は、結局その夢を追い続けた。そして現在も多分その位置の延長にいる。先生がおっしゃったように、それはたしかに夢であった。しかしその夢を私に紡いでくださったのも先生であった。プラハ言語学サークルの存在とカルツェヴスキイの一篇の論文「言語記号の二重性」。先生がそれらを私に提示してくださらなかったら、現在の私は存在しない。
だから、どうして言語のことを追い続けてきたのかと問われると、言語がそこにあったから、と答えるしかない。山がそこにあるように。そんなことを書いて、私は問うた人 Y に, ある日メールで送った。その全文を、References を除き、ほとんどの固有名詞を明瞭に表記して、以下に再掲する。
「 Letter to Y. Of Broad Language 4th Edition
Dear Y.,
1. 言語の定義から言語研究の方向決定へ
1.1
私は日本語の「研究」ということばはあまり使わないのですが、ここでは言語について考えることを簡単に言語研究ということばで示しますと、質問は、言語研究の目的 aim と言語研究の応用 application ということになるかと思います。
ここで言語とは何か、ということになりますと、一般的には、言語は、人間がその心の状態をかなり精密に伝達する一方法、というようなことになるかと思います。ここでは通常、人間が話し聞くことばが想定されています。いわゆる自然言語 natural language です。しかし私は、みずからの言語研究 research on language において、こうしたいわゆる言語の定義を行っていません。私の研究はもちろん、自然言語を含みますが、もっと広範囲なものです。しかも私の考えでは、言語を自然言語で定義しても、あいまいなものにしかならないと、思います。数学基礎論で超言語などが提唱される所以です。
1.2
私はですから、自らの研究を、言語学とは呼ばず、英語でも linguistics, philology などの用語を用いていません。これらの用語は、自然言語を中心にしているからです。私の場合、もっと広範囲となりますので、ただ、research on language などと書いています。この広い言語、私の用語ではBroad Languageとなりますが、これについては後述します。
それで、そうした未定義なままで、混乱などは起こらないかということですが、私の場合、書かれた内容で、私が言う言語の状況が(多分)わかりますので、それ以上の、あいまいな定義は用いないことにしています。用いるのは主に、数学ですから、その公理、定理などによって、築かれている世界が私が示す言語ということになります。数学はギリシャ以来、しばしば5000年の歴史などと書かれますが、長い歴史の中で、洗練されてきた結果を有しています。よく確率や統計の分野で、この結果は1億回検証したから、多分大丈夫だなどと使われますが、それでは1億1回目に検証したしたとき、不具合が出るかどうかは、保証されません。
1.3
数学は絶対的な保証がなければ成り立ちません。それが証明 proof ということになります。しかし「完全な」ということばは普通用いられません。Kruto Godel が「数学に内在する方法を用いて数学の完全性を証明することはできない」という不完全性定理 Incompleteness theorem を1928年に証明してしまっているからです。今では岩波文庫でその翻訳も出ていますが、私もその全容は今もよく理解はしていません。証明も幾種類かで読みましたが。外部から見ると不安のようにも見えますが、数学自身は、別にこうした定理があっても揺るぎません。
1.4
次にたとえば、言語において、私が距離ということばを使うとします。距離ということばそのものを、自然言語で厳密に定義することはかなり難しいでしょう。
言語空間などということばも使われたりしますが、空間を定義するのは、自然言語ではやはりかなり困難でしょう。
言語の変化などということばもよく使われますが、どこからどこへどのように変化するのか、変化するとしたらその実体はなにか、実体がなければ、その変化ということそのものが無意味になります。またそもそも変化とはなにかなどと考え始めると、もはや収拾が着かなくなります。Wittgenstein の有名な言葉に、「哲学は誤解の歴史だ」というのがありますが、言語の曖昧性の上に、砂上の楼閣のようなものを築いてきたようにも思えます。
基本的に言語を言語で定義しようとしても、困難が生じます。委細は省略しますが、特に1970年代以降、数学基礎論の分野で進展があります。2017年夏 に、竹内外史という数学基礎論の日本の Pioneer が死去しました。私も彼から多くを学びました。『数学セミナー』2018年2月号が彼を特集しています。私にはすごくおもしろかったです。
しかし私は哲学を否定しているわけではありません。逆に私の根幹は哲学から派生しているとも考えるからです。
1.5
このようなわけで、私は言語の Basic なものを、言語で記述することはしなくなりました。こう言うと簡単ですが、私の場合、ここにたどり着くのに、20代から40代までかかりました。
1970年代の終わり、多分1978年の夏休み(教員でしたから)31歳のとき、今も東京にありますが、東京言語研究所の研究応募論文に取り掛かったことがありました。別に賞を得たいとかということではなく、そういうことをきっかけに、自分の課題を確認したかったからです。内容は言語における文とは何か、ということで、現在考えていることの準備段階のようなものを自分なりにまとめようとしたわけです。方法は、数学の集合論と数学基礎論を用いようとしました。結論的には、書き始めるとすぐに自分の中の当時の集積では全く自分が目指すものが書けないことを納得し、この計画は放棄されました。ちなみに欧米では数学基礎論は数学の一部門よりも、論理学の一部門に位置づけられています。私もその方がよいと思います。
1.6
この時中止したのはなぜか。私の言語と数学に関する知見が少なく、能力も低いということは当然ですから、それ以外を挙げます。
#1数学の集合論を主に用いようとしたが、当時のその分野の数学の成果だけでは(多分)複雑な言語の状況を処理できない。
#2数学基礎論は論理の展開を追うものであって、言語そのものの根源に迫ることは(当時の成果では)できない。
#3言語全体は広大で、私の中で言語のどこに焦点を当てて論を進めるのかが、確定していない。
などがおもな中止の理由でした。
1.7
私は1979年32歳で大学に戻り、言語学の千野栄一と再会し(初めて会ったのは1969年、ロシア語の先生としてでした)、そこでおもに1920年代のプラハ言語学サークルの状況を詳しく教えてもらいました。その中でも Sergej Karcevskij の存在が圧倒的に私の中に入ってきました。千野が、最晩年の著書『言語学への開かれた扉』の中でただ一人天才と呼んだ彼は、言語の二重性を指摘しました。言語はやわらかく柔軟に外界のものを吸収するが、同時に強固で頑丈な構造を持っているというのです。この矛盾するような二重性の中に、言語の本質があるとしたのです。これは大きく言えば、意味論の一部をなすのですが、この意味という言語において最も重要なものを、当時の研究は、そして今もなお、難しすぎるとして、棚上げし、もっと簡単な音韻等の精緻な構築に向かいました。例えば1950年代以降の、アメリカ構造言語学などがその代表でしょう。それ以降の Chomsky の生成文法も意味はほぼ除外し、文法の構造を中心として探りました。こうした歴史進行の中ではやや一人、突出的であった Edward Sapir から、しかし私は多くを示唆されました。Drift という概念です。彼によって言語と運動、すなわち言語の時間的要素が浮かび上がるのです。これはのちに私の中で Perelman の存在と結びついていきます。
結局いつまで経っても、ロシア語は上達しませんでしたが、ロシア語へ愛着は今も深く、昨年久しぶりにロシア語文法の小冊子を読みました。むかし、白水社のクセジュ文庫にあった文法もよかったですが、今回のDover Publications の Brian Kemple の本は簡潔で重要部分は詳細であり素晴らしいものでした。著者はまたP.94で次のように述べているのが印象的でした。
"the definitions do not pretend to be complete, or to settle points of interpretation that grammarians have been disputing for the past several hundred years."
1.8
意味は言語の最も重要なものの一つであるにも関わらず、この100年余りの言語学において、常に除外されてきました。第二次世界大戦後、アメリカなどで一般意味論という分野が一時拡がりますが、これは言語が社会の中でどのような役割を果たすかというような、Macro なもので、やがて社会学や人類学の中に吸収されていきます。依然として意味そのものは未開拓の分野でした。私の場合、哲学的なものは、Wittgenstein の鋭い哲学批判(検証)をすでに踏まえていますので、これに Karcevskij が加わることによって、ほぼ準備が整ってきました。すでに対象は漢字および漢字を中心とした中国近代のきわめて厳密な言語学(小学)で進めることを考えていましたので、あとは書記方法としての数学の自分なりの洗練が課題となりました。
1.9
幸いに1980年代ごろから、数学が飛躍的に発展し、幅広い分野に応用される時代がやってきました。岩波書店はほほ30年近くをかけて、数学の叢書を、入門、基礎、発展という順に整備してきました。共立出版も伝統的に叢書を持っていましたので、やはり様々な数学の現代的な成果を出版し続けて、現在も進行中です。私は今、「数学の輝き」シリーズを愛読しています。
或る数学者が、対談の中で、「今はやっと数学が様々な分野の問題を記述する蓄積ができましたね」と話していることに象徴されますが、私が1970年代に中止したことを、今度は豊潤な数学の方法を自由に選びながら、自分の問題を表記できるようになりました。ここに哲学-Wittgenstein、対象-王国維などの小学、目的-Karcevskij、方法-Algebraic Geometry 代数幾何学,とすべてがそろいました。1980年代の中ごろです。
1.10
1986年、大学の研究生を終え、教員をやめ、文庫をつくり、ほぼ言語研究に専念できることとなりました。周囲の理解があったことがもちろん一番大きかったのですが。私の所得は激減しましたが、中国語教授、歴史講座、仏教講座、日本語講師等々で、最低限の所得を確保しながら、現在に至ります。1985年にA 先生から K 大学への講師の話がありましたが、この時、私にとって大学は、限りなく感謝はしていますが、すでに私が進む main の field ではなくなっていました。
1.11
1986年以降、中国文献、仏教文献等を中心に読みながら、Karcevskij の方向を目指しましたが、2002年肺炎で青梅市立総合病院に入院したとき、偶然にも集中的に考えることができましたので、王国維の論文をもとに、言語、私の場合、漢字ですが、その中に内在する時間の問題をまとめたのが、On Time Property Inherent in Characters, 言語に内在する時間という性質について、というものでした。この時期に、Macro な観点から私の言語研究の方向を探ったのが、のちにManuscript of Quantum Theory for Language と題してuploadされたものです。ともに、2003年3月、長野県白馬にスキーに行ったホテルで、皆がスキーをしているときに一人で集中して最後のまとめをしました。懐かしいです。
1.12
話は飛びますが、仏教文献の奥深さを知ったのもこのころです。大正新脩大蔵経・日本仏教全書などで読み進めていましたが、インドにおける仏教終末期の文献は、特におもしろく、例えば、世界の螺旋構造などが紀元4,5世紀ごろまでに明瞭に示されています。DNAなどの現代生物学の状況と対比すると興味深いのですが、安易な類比は避けるべきでしょう。物理学から派生する分子生物学の黎明期に私は深い愛着を持っていますが。
日本では最澄・空海を中心に読みました。最澄は読みにくく、空海は読みやすいというのが印象です。私が敬愛する日本文学の近藤忠義先生は旧ソ連の学者から空海の『文鏡秘府論』の送付をお願いされ、約束を果たすのですが、近藤先生ご自身は未読だとエッセイで書いておられました。この本は同時代の類書がなく、唐代の音韻論として高く評価されていますが、現代の音韻論としても読み応えがあります。ただ句読が打たれていないと読みにくいでしょう。今は中国で良い刊本が出ています。私はその一冊を購入し、通読しました。近藤先生への遙かに遠いレポートであったかもしれません。
1.13
無著・世親の仏教論は大正新脩大蔵経で読みましたが、東洋における哲学の高峰として、信仰の有無を超えて、思わず襟を正させるものがあります。今も時間があれば繰り返し読みたいものです。大学に入った時からの、東洋から歩み始めようという私の信念はここに至って一つの実を結んだ気がします。
昨年2017年秋、東京国立博物館で、鎌倉時代の彫刻家、運慶のの特別展があり、久しぶりに無著と世親の彫像に再会しました。奈良の興福寺で見たのは、私の30代でした。そこではまた東大寺再建の勧進を行った重源の座像にも再会しました。この像の初見は京都国立博物館で、私が参観したとき、フロアには私以外誰もいませんでした。その時の高僧の座像はいかにも勧進を終えた安らかな老僧でありましたが、昨秋再会したときには、むしろ老師は私よりはるかに若々しい充実した気力を感じさせました。私の老いと年月の流れを感じました。
また鎌倉時代の東大寺の学僧、凝然の『三国仏法伝通縁起』を、かつて恩師であった川崎庸之先生から勧められ、友人二人とともに読み合わせしたころがなつかしく思い出されます。私はこうして漢文に親しむことができるようになりました。
中国近代の小学については今は省略します。
2.言語研究になぜそこまで魅力があるか、そこからの発展や応用があるのか
2.1
Baseには私の理論好きがあります。高校時代に最も惹かれたのは理論物理学です。私の場合、湯川秀樹の中間子発見の方向ではなく、朝永振一郎の超多時間理論の方でした。その全容はかなり難解ですが、微積分、微分方程式の知識があれば、何とかなります。私はのちに自分なりに整理して、言語の時間性についてまとめたものがあります。王国維とSapirに示唆されています。今考えれば、ですから、理論物理から言語への転換はかなりの必然性があったようにも思われます。この間にDirac という明晰な物理学者の存在に気付いたのは大きな収穫でした。このイギリス人のすばらしさについては先年ノーベル物理学賞を受賞し、亡くなられた南部陽一郎もエッセイの中で書いています。
2.2
この理論好きとともに、私は根源的なものを求める、哲学の方向も好きでした。高校時代には曖昧でしたが、のち1970年代に、私の20代後半、Wittgenstein の翻訳が次々に出て、それらを読む中で、哲学という遺産の根本的な検証を行った彼の方向を考慮する中で、哲学の曖昧性は避けるべきで、別の方向を求めるようになりました。その結果最も有効と思われたのが数学でした。数学は高校時代から好きで、3年のとき、物理の運動についてその解を求めようとしたとき、最も有効なのが微分方程式でしたが、高3の微積分のレベルでは解くことができず、これは大学以降になるなと思ったことが印象的でした。
2.3
20代は教員をしながら、少しずつ数学を勉強していました。このとき神田で、フランスの数学グループ、Bourbaki に出会います。これがその後の私の数学の方向を決定しました。Bourbaki は、その趣旨は誰でも、明瞭で簡潔な出発点から複雑な現代数学の頂点まで行けるというものでしたが、精密な代わりに膨大で、私はその存在を横目で眺めながら、細々と勉強を続けました。
2.4
1.7で述べたように、1986年から2003年までで、Wittgenstein, 王国維、Karcevskij、Algebraic Geometry とそろいましたので、やっと動き始めることができるようになりました。この研究の魅力は、a.まずどんなことをしても完成などないこと、要するに無限であることが最大です。私は有限のものにはあまり興味を持ちません。内容的には、b.言語は人間の大きな用具ですが、精緻であるとともにしばしば誤解をも生む厄介なものでもあります。嘘つきパラドックス Liar's paradox ,または自己言及 self-referenceなどもその一例でしょう。そうした状況は Wittgenstein が精細に述べています。しかも c.言語の意味は、ほぼ100年以上攻めることもあきらめられてきた、難攻不落の孤城です。
つまり、無限、精緻, 難攻不落と三つそろえば、未踏峰を目指す登山家とほとんど同じでしょう。誰かが言った、なぜ山に登るのか、そこに山があるからだ、というのは永遠の名言です。
2.5
私の立場は以上のようなものですが、そこから何か現実の社会における発展または応用があるかということについては、ふだんほとんど考えませんが、強いてあげれば現在一つのことが考えられます。
それは医学への応用です。別にそこまで私が行なう訳ではありませんが、その理論的な方向だけは数学的に可能だと現在の段階でも思っていますし、そのための準備も応用を主に目指しているわけではありませんが、現在進行中です。私のSite, Geometrization Language の中の右側の Preliminary(準備的)というジャンルがそれです。 Geometrization Language とは「幾何化された言語」というような意味です。
2.6
まず幾何化とは何かを、簡単に示すことが必要でしょう。1980年に Thurston が3次元閉多様体が8種類の幾何構造に分解されるという予想 conjecture を提出しました。1980年代前半に Hamilton がこの予想をある種の方程式として定式化させ、2002年から2003年にかけて Perelman が最終的に解決しました。さらに簡潔にすれば、3次元の図形は8種類に分類でき、その定式化も可能だ、というようなものです。
2.7
ここからは私の推論となります。医学の分野では、今は様々な図像解析 image analysis がなされ、病気の特定や病気の進行段階などを特定するのに用いられています。この解析の判断は、医師の目視に依るわけですが、画像が多様化し、その量も膨大になる中で、現在では統計的処理を施して分類し、いくつかの類型に分けて、細かな判断が行われるところまで来ているようです。もしこの統計的集積を幾何化によって分類することが可能となれば、その図像は数学的に定式化され、定式は自然言語に変換されることとなることによって、図像解析は精密であるとともに正確に共有されうるものとなるでしょう。
2.8
すでに述べていますが、私はそうした応用を目指して、言語研究を行っているわけではありません。2.4 で示したように、私は未踏峰へのあこがれを持ち続ける一人の登山家に過ぎません。高峰のはるか下方に小さな Base Camp を単独で作っただけです。こうした登山家は世界に無数いることでしょう。しかしこうしたすべての比較や逡巡は、碧空に聳える未踏峰を見たときにすべて消えるのです。そこに山があるからです。
2.9
当面の結論を急ぎましょう。2.6, 2.7 等で示した図像などを、私は言語の領域に組み入れて考えています。絵文字Emojiも入り、LATEXも入ります。私はこうした言語の領域を、自分では広い言語、Broad Language と呼んでいます。この中にはエジプトの象形文字 hieroglyph、中国古代の象形文字、すなわち甲骨文 Jaguwenも入ります。しかし私の field は一時期流行した記号論 semiotics ではありません。Semiotics は豊饒な広野だとは思いますが、その方法が明瞭ではありません。今は詳述を控えます。
こうして考えてくると、BC1400年以降の古代中国の甲骨文がいかに重要であるかが想像できるでしょう。漢字は古代からの象形を現在まで途絶えることなく発展的に継承してきた現存の文字体系であり、言語の重要な一分野となるものです。私はこの漢字を最初に研究の対象としました。
2.10
私の言語研究の発展も以上で大体見えてくるでしょうか。言語の意味は時間的変化を含めて幾何学的な図形として数学で明確に表記される。しかし私は別にこうした発展などほとんど考えたことはありません。私はただ次のBase Campを築くために、荷物をより少なくして歩き始めるだけです。高いところにのぼるには、荷物は少ない方がいいでしょう。わたしの荷物は、漢字と数学があれば十分です。酸欠を防ぐために、中国の小学と漢訳仏典、段玉裁・王国維・章炳麟や大正新脩大蔵経・日本大蔵経がときに必要でしょう。エネルギーの補填のために、1920年代のLinguistic Circle of Prague が依然として大きなよりどころとなります。未踏峰にどこまで近づくことができるかはわかりませんが。それはもう私が問うものではありません。
このエッセイは、記憶を中心に書きましたので、細かい年次などにもしかしたら、記憶違いがあるかもしれません。また質問の答えになっているかどうかも、よくわかりません。その点はどうかお許しください。
こんなことを記していましたら、むかし、京都の仏教学の先生がその著書で書かれていたことばを、憶い出しました。先生がチベットで夜、野外で焚火を囲みながら仏教談義をなさったとき、仏教僧らは記憶に基づいて、縷々と経文を声(しょう)するのに、先生は机上で文献をもとに研究しているために、それに素早く応ずることができなかったと述べておられました。それはまた両者の仏教に対する真摯な姿勢を示し、信仰と学問の奥深さに打たれました。
どうかお元気でお過ごしください。
Cordially,
5 February 2018
TANAKA Akio 」
Read more: https://srfl-collection.webnode.com/news/biography-hananoi-kazumi-and-small-university-on-the-hill-2021/
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