フィールドワークについて、山本先生は次のように語っている。
「廣末さんはフィールドワークはやらないのですよ。旅をするのですよ。そういう感じ
でした。旅行に関しては。(中略)なぜかといったら、われわれ自身の中に、昔から伝
わってきた伝承的なものが即時的にあったわけですよ。だから近代主義をもう一度批判
できるようなもう一つの核が他方にあった、という気がしますね、昔のことを言えば
ね。」
山本先生は、口頭文化については講演「もう一つの物語」の末尾で、次のように述べら
れている。
「口頭文化がまだいきいきと機能していた時代には、語りは、今日いうところの文芸で
も芸能でもなく、過去の霊と密接にかかわりながら、過去を知ることのできるひとつの
回路であった。そして、それらが語られる場も特有の意味をもっていた。中世の時間や
空間は、今日のように均質ではなくて、それぞれが固有の意味をもっていたのであ
る。」
川崎庸之先生の歴史著作選集全3巻が刊行されたあとの1982年の秋か冬近くであったと
おもうが、ある日和光坂を上る手前で、私は坂を下りていらした山本先生と出会った。
先生に挨拶をすると、先生は「田中君、少しお茶を飲んでいかないか」と私を誘ってく
ださった。そんなふうに下校前に突然和光の先生からお茶を誘われたりしたのは、多分
初めてであったとおもう。今もあるかどうかわからないが、1982年にはまだ、和光大
学が開学したころからあった喫茶店とも呼べないような小さなお店があった。坂を下り
てくると右側で、2、3段の石段を上るとドアがあって中は2,3人でいっぱいとなる小
さなやや暗いお店だった。先生が奥に坐られ、私が手前に坐った。
先生がなにを語られ、私がどのようにお答えしたか、今はもうなにひとつ憶い出すこと
ができない。先生がなにか質問をなさったのでもない。向かい合って、私は、静かに
コーヒーを飲まれる先生に相対していた。あるいは日々の日常に触れたお話だけであっ
たのかもしれない。ただ先生の静かなたたずまいが今も私の内に残る。先生の安堵のひ
とときであったのかもしれない。研究生であった当時の私は、先生の講座をまったく受
講していなかった。川崎先生の著作選集についてか、あるいは推薦文を書かれた西郷信
綱先生のことが先生の内にあったのかもしれない。あるいは、田中君ご苦労さまという
ことであったのかもしれない。
そのときの優しい先生の姿が今も忘れられない。私は1986年3月で研究生を辞し、その
のち先生とお会いすることはもうなかった。先生は退官されてまもなく、2007年に逝
去された。72歳であった。若き日の盟友、華埜井先生が1976年37歳で逝去されてか
ら、31年が過ぎていた。
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