Tuesday 17 May 2022

Chapter 4. 1967 ​ Not so great. On Poet ANDO Tsuguo. From Encounter 1969-1986.

 Memory

 
Encounter 
1969-1986 
Dedicated to 
a small university on the hill
  
 
TANAKA Akio
Sekinan Library
Tokyo 
 
2021
The 2 Edition 2022 
 
 

4.
1967 
Not so great
 
4.
1967
Not so great
1967年
偉大ではない
昭和42年1967年4月、私は外語の中国語科に入学した。家は確かに東京であったが、
ぐ西は埼玉に接した丘陵と林と畑の小さな町から、都心の北部に通うようになって、
の生活は大きく変わった。土曜日は陳東海先生の中国語会話の授業があり、私は先生
どこか清代の余韻を残すお人柄が好きで、毎週決して休むことはなかった。午後は新宿
で下車して、しばしば紀伊国屋書店に寄った。逆に上野に向かい、国立西洋美術館に
ることもあったし、ときには神田に出て古書店街を回ることもあった。
水道橋の改札を出て、左に売店があり、右に曲がり橋の欄干から神田川の水面を見る
が好きになった。駅舎の方角に、ボクシングジムの看板があり、南北に通ずる白山通
の東側には都立工芸高校の校舎の窓がいつも光っていた。水面をゆっくりと進む、あ
平たい船はなんという名前なのか知らなかったが、私はそこに懐かしい東京の景色を
じた。私はいつか、まぎれもなく東京の一部になっていた。 
私はことに夕暮れの神田が好きだった。一日中神田を歩きまわり、幾冊かの収穫を得
疲れて帰るとき、救世軍が歳末の社会鍋を置き、音楽が奏でられていても、私は当
まったく献金しなかった。後年、新宿駅西口で、同じ光景に出会ったとき、このとき
家内と一緒だったので、初めてなんだよと言って献金し、救世軍のパンフレットをい
だいた。 
白山通りの一つ裏側に並行して通ずる道路に面して、神田カトリック教会があった。
はその静かなたたずまいが好きで、ときおり道路から夕暮れになると灯る教会入口の
かりを眺めたが、現在に至るまで遂に一度も教会に入ったことはなかった。後年私は
田の夕暮れを追憶をこめて、小さな物語の中に綴った。そう、1960年代末には、白
通りを茶褐色の都電がゆっくりと走っていた。あの巣鴨の終点からまっすぐに南下す
と神田につく。半世紀は遠い。
私はそれらの懐かしい風景を、のちに『冬へ』という私的な物語に綴った。 
 
 
「 背の高い建物群が青緑色に見える。都市線の高架の下を南北に広い道路が走り、
こをゆっくりと路面電車が進んで行く。駅を降りて歩道をすこし南に行くと、Aの住
いに着く。 
一階はブリキ屋で外付けの階段を上った二階に住んでいる。物置のように使われてい 
たところを住まいにかえただけの殺風景な部屋だが、窓が道路に面した東と、駅の方
北に取ってあって明るい。 
彼が初めてこの駅で降りたとき、曇り空の下にくすんだ高い建物が背景となった風景
なんとなく惹かれて、歩き始めてすぐに目についた貸家の張り紙のままに、「トタン
ブリキ製造」と看板があるガラス戸を開けて、その場で部屋を借りることにした。 
駅からここまで来る途中の路面電車の中継基地とでも言うのか、そこから道路に向か
て電車が出て行く光景が今も初めて見たとき のように好きだ。線路は赤く錆びて
て、車輪の当たるところだけが、銀色に光っている。電車はいつも道路に向かってカ
ブしてい くときにギシギシときしんだ音を立てた。」
『冬へ』第Ⅰ章、To Winter 1, 2015 


「 岡潔が言っていたように、決定的なものはながい余韻を残す。Aは無性に町なか
歩いてみたくなった。かつて歩いたところを、い つもさまよってばかりいたとこ
を、もう一度ゆっくりと歩いてみたくなった。   
古本屋街のあるD駅へ都市線で向かった。古ぼけたホームから階段を下りる。低い梁
ながい間の埃にすすけ、階段は黒く縁が磨り減っている。製図学校や簿記学校の活字
多い広告が変わることなく貼られていて、ああまたここに来たと彼はおもう。 
改札を出ると夕ぐれの町が若者たちの姿をなかばシルエットにして、行き来させる。
側に売店がある。その前方のガード下に幹線道路が走り、道路を路面電車がきしみな
ら過ぎて行く。右へ行けば古本屋街。中央のガードの下に、つまり都市線の下に、運
がな がれている。駅名と同じ古ぼけたD橋が架かり、よどんだ水面をときおり平た
荷舟が通って行く。 
むかしとなにも変わらない。 橋の向こうは大きな交差点で、その向こうに灰色の高
学校がある。夕ぐれの中に点々と、まだ学んでいるのか灯りがともっている 。 これ
むかしのままだ。橋に立って川面をながめていると、人々が絶え間なくながれて行く
橋はそういうところだ。とどまるところではない。 
Aはそこから運河をながめているのが好きだった。荷舟はどこまで行くのだろう。い
れ海辺近い港か集積場で荷を降ろす のだろうか。荷舟は時のながれを二重にするか
ように、よどんだ運河の上をゆっくりと下方へと移動して行く。 運河の左手は駅
で、右手は建物群の裏側になる。いくつもの看板が駅の方に向いている。東洋王者が
える姿を描いたボクシン グ・ジムのややゆがんだゴシックの看板はまだ健在だ。 
橋はもうところどころコンクリートが剥げ落ちている。古ぼけた町にふさわしい。錆
た鉄の欄干にもたれていると、今日は多いの かもしれない荷舟がまた橋をくぐって
く。   
もはや本屋街をさまようことはない。対象は私のうちにある。私はただこの運河をな
めていればいい。遍歴は終わった。たぶん永遠にマイスターにはなれないだろうが、
ずからの小さな仕事場で、日が落ちるまで作業をすればいい。すると仕事場の窓辺を
者が通って行く。かつてそんなロシアの民話を読んだ。   
秋の日ぐれは早い。路面電車のヘッドランプがまぶしいくらいだ。黄褐色の窓に少な
乗客が照らし出され、古本屋街の方へ消えて 行った。駅の売店がにぎやかな橙の光
包まれている。」
『冬へ』第8章、To Winter 8, 2015 
 
 
 
そうした東京へのおもいと重なるような、私の深奥と響き合うようなまったくおもい
けない出会いが、外語で私を待っていた。詩人でフランス文学者であった安東次男先
との出会いだった。 
一年次の一般教育科目の人文科学分野で、私は迷うことなく「文学」を選んだ。安東
男先生のお名前はまったく知らなかった。しかし、その講義を聴き始めてすぐに、ま
れもなくここに私が求める文学がある、とおもうようになった。講義はまもなくして
大教室から中教室へと移った。先生の講義はノートに取るようなものではなかった。
たがって今もその講義の大きな流れを自分の中で再現することはできない。しかし、
義の断面が、まるで詩句の一片のように、今も記憶に刻まれている。 
今の日本の文学で、批評において見るものは少ない、先生ははっきりとそう述べられ
あと、「ただ吉田健一の『文学の楽しみ』河出書房 1967年 、がある。これは読むべ
数少ない本だ」と述べられた。私はここで初めて、吉田健一というまったく未知の文
者の名を知った。そこから吉田健一のイギリスからの帰国後の師となる、河上徹太郎
はまっすぐに延びていく。 
1967年夏、大学が夏休みになると、私は神田に行き古書店街を回り、吉田健一の本
探した。するといくつかの古書店で、垂水書房版の吉田健一著作集が店頭でゾッキ本
近い形で売られていることを知った。この著作集は大変丁寧に作られていて、麻のよ
な布で覆った固い表紙で天金が押され、紙質はやや薄く活字のきれいな装丁であった
値段は一律で、確か一冊280円だったとおもう。吉田健一の存在は、まだ神田で、あ
いは文学市場で充分な認知がなされていないことは明白であった。私は著作集の異な
冊はすべて購入した。新書版の『乞食王子』の本もゾッキ本で売られていたのであわ
て購入した。その裏表紙の折り返し部分には、吉田健一がコンロを前にしてドテラ姿
いる写真が載せられていた。私は文学の本質とはなにかと、幾度も自分に問いかけな
ら、そのなめらかで独特な文体に心惹かれながら読み続けた。 
ここでふたたび外語の、夏休み前の初夏のまぶしいような日差しの一日に戻りたいと
もう。外語の正門を入った芝生の広場の前で、私は安東先生の姿に接し、おもわず近
いて先生が講義の中で紹介してくださった先生ご自身の著書『現代詩の展開 増補版
思潮社 1967年、を購入し読んでいることをお伝えした。先生は見知らぬ新入生の突
のことばに別段驚くこともなく、少しだけ相好を崩して、「あれは良い本でしょう」
たのしそうに私に応じてくださった。私はそのときすでに先生の詩集も読んでいたと
もうが、そのことにはこのとき触れなかった。『六月の緑の夜は』『CALENDRIER
『ひとそれを呼んで反歌という』。私は生まれて初めて詩人と話すことができた、そ
おもった。 
『現代詩の展開 増補版』によって、私は私が求める文学がどこにあるかを少しだけ
解することができた。それは吉田健一、河上徹太郎に至ることによって決定的なもの
なった。安東先生は、まさしく私の文学の師であった。 
『現代詩の展開 増補版』は1967年4月15日発行であり、私は外語に入ると同時に
この年に文学にも導かれたことになる。当時私が繰り返して読んだ部分は、『増補版
において挿入された、「詩時評」(1965・2ー1967・3 読売新聞)であった。376
から431頁に及ぶ、時評としては長編となっていた。そこには私の青春を鼓舞するよ
な文章が、まさしく散文の詩句となってきらめいていた。 
 
 
「詩は所詮同心の者のあいだに成り立つ心の交流であるなら、作品の数を必要とする
い。」 
「ランボーのほんやくなど私には興味がない。」 
「自分が必要なときのみ、詩を作るのだ。」 
安東先生は蔵原伸二郎の詩集『岩魚』から一節を引用する。 
「風は村の方角から吹いている
 狐は一本のほそい
 あるかないかの影になって
 村の方に走った
 かくて
 狐はまた一羽白い鶏を襲った」 
「そもそも日本の戦後詩には何らこれときまった形式の約束などないではないか、」
「だから何をやってもいい、ただ自分の作品に最もふさわしい形式をまず発見するこ
だ。現代詩など、私にとってどこにも始まってはいないのだ。」 
「行分けの詩は、こと日本に関する限り、金子、西脇あたりの世代でその必然性を失
た、と見るのが私の見方である。若い現代詩は、そのことをよく考えて、まずおのれ
形式を見いだすことに冒険をかけたらよい。」 
先生の次のようなことばが、ほとんど無意識のうちに、私の生きる方向を決定づけて
たと、今になると、とまどうことなく確言できる。 
「われわれは、のこされた文化の高さと並びうるところまでは、何を措いても学問に
ちこむ必要がある。それをおこたる口実に、愚にもつかぬ詩や小説の一つや二つ書か
ことだ。」
「どんなにたどたどしい語学力でもよいから(といえば語弊がある。むしろいうなら
たった一行の詩句を読むために一つの語学を習得して)詩は原語で読め、」 
「詩時評」は以下の文章をもって終わる。 
「木下夕爾が、戦争もなくまたかれの命とりとなった病気もなく、終生ひばりのよう
明るく歌いつづけたということは、たぶんあやまりである。かれのような資質の詩人
戦中戦後を生き抜くためには、俳句という極微な詩型が必要となったことを、そのこ
のよしあしは今は問わぬとしても、私ははっきりさせておく必要があると思う。」 
 
 
安東先生の俳句の師は、加藤楸邨先生であった。後年、大岡信、丸谷才一とともに、
仙を巻いておられた。新潮社の雑誌『波』に載った先生の竹林の発句が素晴らしか
た。今正確におもい出せないのが惜しい。 
これらの日々が私における文学との決定的な出会いであった。私の文学的生き方を決
したといってもいい。私は先生のことばをなぞるようにして生きてきたといっても、
れほど違わない。詩は未来を示す。それが詩人の定義であった。私は先生を見てそう
もう。 
かつて私は、詩人と近代について書いたことがある。 
 
PAPA WONDERFUL 19 MODERN TIMES 
 
私は昭和43年1968年の外語一年の終わり近くにの早春に、先生のご自宅を訪問した
なんの連絡もしないままであったが、先生はあたたかく迎えてくださった。ほんとう
きっと迷惑であったとおもうが、しょうがない若者だとおもっていらっしゃったのか
しれない。先生は庭先で、なにか紙を乾かす仕草をなさっていた。先生は、ほほえみ
がら、「駒井(哲郎)君との詩画集に石油をつけちゃったんで、乾かしているんだ」
おっしゃった。詩集『ひとそれを呼んで反歌という』エスパース画廊 1966年、だっ
だろうか。私はこのとき初めて、この高名な銅版画作家であった駒井哲郎の版画を
た。先生は私を囲炉裏のある和室に招じ入れてくださり、そこでにこやかに話してく
さった。しかし話された内容は、いずれも厳しいものであった。先生の生きる姿勢を
は目の当たりにした。先生は「詩時評」とまったく同じに生きておられた。
私は先生の詩集『CALENDRIER』ユリイカ社・昭和35年1960年、を当時から繰り返
読み、その一部は今もそらんじている。私の最も好きな詩は、一年の暦となったこの
集の八月 Aout の詩である「碑銘」であった。その全文をここに引用する。 


「   碑銘
 建てられたこんな塔ほど  
 死者たちは偉大ではない  
 ぼくは死にたくなんぞないから
 ぼくにはそれがわかる 
 ところでなぜぼくは 
 こんなところに汗を垂らしてうつむいて 
 いるのだ一篇の詩がのこしたいためか 
 似たりよつたりの連中のなかで 
 生まれもつかぬ片輪の子を生んで俺の 
 子ではないとなすりつけ  
 あいためかぼくにはそれがわかる 
 建てられたこんな塔ほど 
 死者たちは偉大ではない 」 
 

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