世界の量子化 quantization については着実な進展があった。 深谷によれば、コンツェヴィッチは1997年の論文で形式性予想を提示し、2003年の論文に至って、みずからその予想を証明 した。「ポアッソン多様体の変形量子化」。深谷は彼の本の中でその証明の概略をnRの場合に限って述べている。証明の全容は計り 知れない。
量子による空間、それももう夢ではないかもしれない。 その果てにある、有限と無限。無限を有限に閉じ込めること。 ヤーノシュ・コラールと森重文は伝える。三次元標準フロップの任意の列は有限である、と。今フロップを一種の写像と考え、意味 を有限の列と仮定し、立体と時間で作られたこの四次元世界を平面と時間で作られた三次元世界に射影すれば、無限に生起するとおも われた四次元世界の出来事のすべてが、三次元の有限の世界に閉じこめられることになる。 そこでは、時間を含む意味を体現した平面 上の文字が、この私たちの時間を含む4次元世界を射影し閉じ込めたものとなる。
―それで私はどうするのか。
立って東の窓を見ると、外はこごえるような空の下に、行く人もまばらだ。さっきより一段と濃くなった厚い霧の中を、ライトを点 けた路面電車が音もなく過ぎて行く。街灯が一斉にあかりを灯している。 遠く忘れられていた祝祭がはじまる。
台所にかけられた版画から、冷えきった暗い室内に向かって、光の帯が音もなくのぼり、大輪の花火がゆらめきを残してつぎつぎに 開花してゆく。花火はガラスに映り、やがてガラスを超えて霧がながれる街路の上へとひろがってゆく。 暗く霧におおわれた空一杯に、今、花火が大きく開き、その下方を乗客も絶えた路面電車が音もなく過ぎて行く。
―なぜこんなにさびしいのか。
ガルシン。ロシアの帝政末期を光芒のように生きて逝った魂。 「赤い花」は必死に、どうでもよい一輪の赤い花をもとめて、遂にそれを得る。 フセヴォロド・ミハイロヴィッチ・ガルシン、ああ、あなたの名まえの中にもミハイルがいる。
天使ミカエルが起ちあがる。旧約聖書ダニエル書終章のことば。
汝終りに進み行け、汝は安息に入り、日の終りに至り、起て汝の分を享ん。
暗い室内にあかりを灯す。ヒヨドリが私に与えてくれた生きるというあかり。 どうしようか。すこしものを食べないといけない。ありあわせでごはんを食べようか。パンはたしかきのうの朝、みんな食べてし まった。あとなにが残っていただろう。
染み入ってくるような寒さの中で、ソファの脇のカーディガンに手を通す。ヒヨドリよ、おまえも丘陵で暖かにしているか。
ふりかえると版画は、すべての流動を終えて、もとのしずけさに返っていた。 窓の外はいつか霙になった。
ドアが小さくノックされる。 立て付けのわるいドアを開くと、白いビニールバッグを重そうに持って、片手にフランスパン の包みを抱えて、Iが不安そうに立っ ていた。 その短い髪に、霙が淡く光っていた。
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