Friday 11 June 2021

15 Silk Road and 16 Story. 2021

 


15.
2003
Silk Road
 

2002年の秋、私は肺炎となり、青梅市立総合病院に2週間ほど入院した。幸いに入院後の経過は順調で、1週間後には呼吸も体調もほぼ平常に戻ったが、体力の消耗があったのか主治医の先生は慎重で、退院まではもう1週間を必要とした。私は窓外に奥多摩の山々を見ながら、ようやく見いだした言語の主題について、まだ何も書き上げていないことを痛切に感じていた。退院したら、まず何よりもそのことを優先しなければならないとおもいながら、書かれるべき論文の片言や字句を繰り返し点検していた。

論考の骨子は、少しずつであったがまとまりつつあった。言語の本質とは何かを追求することが私の論考の主題であることに対しては揺るぎないものがあったが、言語そのものの深淵と広大を考える中で、私は今までの自己の集積を踏まえて、漢字を中心に置き、清代の精緻な言語学である小学を援用しながら、普遍的な文字論をめざし、そこからさらに言語そのものへと迫る方向を考えていた。

その結果、退院時までに、私は甲骨文として典型的な形態と意味を有するいくつかについて、それらの文字の中に時間が内包されていることを、王国維の論文等を参照しながら単語論としてまとめることを第一の論考とし、それを踏まえて、次に時間を内包する単語が連接することによって文が形成されることとなる統語論を第二の論考とする方向を考えた。しかしそれらを、言語哲学的な方向で進めるのではなく、あくまでも物理的な検証可能な方向で設定したいというのが、私の従来からの夢であった。高校時代から私の内に存在する理論物理学へのあこがれは、依然として私の思考の中核をなしていた。そして今はフランスのブルバキ集団 Nicolas Bourbaki が1960年代までに体系化した壮大な代数幾何の初歩を私は学んでいた。

研究生時代、プラハ言語学サークル Linguistic Circle of Prague のセルゲイ・カルツェヴスキイ Sergej Karcevskij の「言語記号の非対称的二重性」Du dualisme asymmetrique du linguistique 1929 という論文が、私の中で去来し続けていた。例えて言うならば、私はこの高峰のはるか下方の裾野にベースキャンプを設営したばかりであった。

「言語記号の非対称的二重性」については、かつて短くまとめた文を書いたことがあるので、以下に再掲する。

「対称性。それはかつて言語学のCと繰り返し話した内容だ。1920 年代のプラハ。雑誌 TCLP に載ったカルツェフスキイの論文、 「言語記号の非対称的二重性」。言語が保持し続けるところの、それによって言語が言語であり続けるところの、絶対的に矛盾する柔 構造と硬構造の共存。言語において二重に内在し続けるだろう永遠の矛盾。言語がかくも柔軟でかくも堅固でいられるのはなぜか、そ のほとんど絶対的に矛盾するかともおもわれる二重性をカルツェフスキイは提示した。Cがその最後の本の中でただ一人天才と称した 言語学者、セルゲイ・カルツェフスキイが残した白眉の論考。なぜこの共存が可能なのか、この二重性に対する整合的な理解は今もなお、たぶん提出されていない。」

カルツェフスキイの論考は、言語学において難攻とされ、ほとんど手を付けられないでいた意味についてそのマクロな構造を簡潔に二分して示した画期的なものであった。

2003年に入り、私は上述した二つの方向をほぼ並行してまとめ始めたが、単語論と統語論の二つを繋ぐ言語の論理を構築できないまま、春を迎えた。この年も近年続けてきた新潟県湯沢での春スキーに、二人の子供が学校が春休みになったので出かけ、子供と家内はそれぞれの力に応じたスキーを楽しんだが、私は一人ホテルに残り、私の論考にどうしても必要であった、単語から統語への連結部分構築のための見えない論理を追うことに集中した

結果的には、却って何も参考となる資料を持ってこなかったために、湯沢に到着した翌日、私はほとんど筆をおくことなく書き進め、単語論と統語論を結ぶ原理的な論理をまとめることができた。この文章は、走り書き的でありかつ未完であったために、二つの論考を書き終えた後も、Web 上に Upload することはなかったが、2015年、あらためて子細に読み直してみると、この文章の中に私の言語についてその後書き続けた主題のほとんどの萌芽を認めたため、あらためて短いまえがきを付し, Manuscript of Quantum Theory for Language 「言語の量子論のための草稿」と題して Upload することとした。

東京に戻ってからしばらくした四月ごろ、その頃時々見ていた国立情報学研究所のSite を開くと、研究所と文部省の共催で、Silk Road に関する国際シンポジウムが奈良で開催されることの予告とそこで発表する論文の募集が掲載されていた。私は湯沢で書いた草稿を元に二篇の論考を書き上げていたので、そのうちの統語論に関する論考を、応募論文として提出することを決め、国際シンポジウムであったため、論文は英文表記を原則とするとされていたので英語へ翻訳することとし、一部をより論理的に明瞭にするために添削し、5月の提出期限までに無事応募することができた。その論文はQuantum Theory for Language と題され、言語を物理的な量子とみなし、その結合によって文が形成されるというものであった。

言語を量子として扱うということに、常識的な不安を感じながらも、その方向に私は未来的な展望を感覚的に確信していたので、ほとんどためらうことはなかった。幸いにこの論文はシンポジウムの言語文学部門の4編の口頭発表論文の一つに採用され、私はその年2003年の12月23日と24日 に奈良東大寺の向かって右奥にある奈良県立公会堂で行われたシンポジウムで 23日に発表することとなった。同部門の発表者は、北海道大学教授と東洋文庫員および企業の研究者と私の4名であった。

23日午後の口頭発表を終えるとさすがに安堵した。二日目の24日の午後、メイン会場となるホールに行くと各国の研究者が集い、さまざまな言語が話されていた。シンポジウムの主題からか、中央アジアから出席された方々が特に多いようであった。招待講演から始まり、部門別の講演があり、口頭発表、パネル発表、関連情報の掲示等が公会堂全体で行われていて、延べ参加数は400名近くと伝えられた。私にはこの会場そのものが、現代のSilk Road の終着のようにおもわれた。

私の論考の中心となる量子は物理学の概念であるが、数学から見ても非常に魅力的なものであったため、数学における群論に取り込み量子群とみなして定義することが、1980年代にグリンフェルト V. G. Grinfeld によって提唱された。
Hopf algebra and the quantum Yang-Baxter equation. 1985 がその嚆矢となる論文である。同年、日本の神保道夫も論文 A q-difference analogue of U(g)and the Yang-Baxter equation. 1985 を発表し、この二者によって、物理学と数学が架橋されることとなった。

量子を数学で厳密に用いることが可能となってきたことが私にも明瞭となってきたのは、さらに後年となる2000年代後半であった。私の量子に対する感覚的な方向はこうして完全に厳密な数学的定義によって確定されたものとして、使用することができるようになった。

私はこの量子をさらに幾何学的に変形し、物理学の熱量等を数学に導入したペレルマン Perelman 等の業績を援用して自然言語から信号、さらにその元となるエネルギー要素へと拡張させた言語表象とその応用へと進み、人間の神経を量子的に変形させて応用科学へと導こうとする、Quantum-Nerve Theory を2018年から2019年にその準備的考察をほぼ終了して、現在はその数学的構造を代数幾何的に進展させる方向に至っている。あわせて神経理論の骨格を作った1980年に35歳で逝去されたDavid Marr の著作 Vision、副題として「視覚の計算理論と脳内表現」等の重要な方向も学び続けたいとおもっている。

2004年に戻ろう。
2004年1月に情報学研究所から、口頭発表論文等を冊子として刊行するので完成原稿を送られたし、とのメールがあり、私は口頭発表原稿をさらに添削して送付した。5月には論文等が掲載された厚い冊子が関係者に届けられた。従来の原稿と区別するために、冊子上の表題は、Quantum Theory for Language Synopsis とした。

1967年に、私はアジアの言語からヨーロッパの言語へ向かう大きな方向を考えていた。それから40年近くを経て、私が初めてみずからの主題をまとめた論文を掲載した冊子が日本から中央アジア、そして西欧へと送られることとなった。それは現代 のSilk Road で届けられる叡知の一つとなったのかもしれない。 


 

16 .
2015 
Story

2003年から書き続けてきたLanguage Universals 言語の普遍性に関するPaper 論考が、みずからの中で一段落したと感じた2012年冬、65歳となった私は、言語を公理と定理から導く、青春の日々から求め続けてきたものではあるが、ある点では非情な数学の世界そのものから一歩離れて、そこに生きる人間をあたたかく描いてみたいというおもいが強くなり、自伝的な要素を含んだ一つの青春の可能性を、ともに孤独ではあるが決して孤立してはいない二人として描いてみたくなった。

主人公の A も再会した I も、羽を痛めたヒヨドリも、みなある意味では作者そのものの分身であった。物語として完成しているかどうかは素人の私には判断できないが、私はこの物語を書きすすめるうちに、いつか、青春の日々にさまよう中での、救済とも呼ぶべきものを表現したいとおもうようになった。

人はみな生涯で、多くの人に出会い、おもいがけない支えを受け、不意の別れに接しながら、みずからの生の主題をいつかは見い出そうとする旅を続けてきたのだろう。私もまたその一人であった。

人は決して強いときばかりを続けることはできないだろう。だからそこでは、気づかないうちにどこかで救済とも呼ばれうる何かに出会うのではないだろうか。それは決して弱いからではなく、あるいは弱いから求めるのでもなく、生きることそのもののうちに、多分必然として、救済は見知らぬうちにもたらされるものとして、きっと存在していたのではなかったか。私はいつか自然にそんなふうにおもうようになっていた。

物語は、風に寒さをおもう秋の日々からはじまり、冬のおとずれを感じさせる二人の、光あふれる一日で終わる。
すべての人が、この日の二人であるかのようにと、私はねがう。

「二人に今、恩寵のように冬が来る。」

私はこの物語を、そう結んだ。

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