Saturday, 16 August 2025

2.1964 Faith and Freedom


2.1964
Faith and Freedom
1964年 
信仰と自由

1964年の冬頃、東京都立川市にある東京都立立川高等学校に通っていた私は、国鉄立川駅南口近くにあった五十嵐書店で、一冊のフランス語学習書を買った。朝倉季雄が著した白水社発行の『朝倉初級フランス語』であった。二年の冬休みの頃だったとおもう。当時立川市には、たしか五つの書店があった。商店街としてはより古くからあったと思われる南口に、五十嵐書店とオリオン書房があり、第二次大戦後、アメリカ軍の進駐などを契機として発展したとおもわれる北口には、伊勢丹、のちには高島屋となる立川銀座デパート、中武デパートの三つの百貨店があり、立川書房、マルカク堂、天馬堂があった。このうち天馬堂は駅の南北をつなぐ地下通路の入口付近にあった古書店であった。五十嵐書店は高校の通学路にあったので、必要があるときは、高校からの帰りに寄るのに便利だった。駅から高校までは徒歩で10分で、駅近くにあったこの書店は、高校生の私には十分な質と量の本が揃っていた。

たとえば入学後まもなくこの書店で初めて知った丸善発行の『理科年表』はその後ずっと私の座右にあることとなった。のち1969年に和光大学に編入学し、佐伯昭市先生の演習に参加したとき、先生が『理科年表』を書架に常備なさっていて、俳諧に出てくる月の位置と形が話題となったとき、先生が「理科年表を見れば間違えないのにね」とおっしゃったことを今もはっきりとおぼえている。その年の秋頃であったとおもう。このことについては、のちに佐伯先生との出会いのところで、もう一度触れたいとおもう。五十嵐書店でもう一つ鮮明におぼえているのは、入って左側奥の書架の最上段に置かれていた、ル・コルビュジエが著し岩波書店から1957年に発行された『伽藍が白かったとき』の表題の「伽藍が白かった」という部分が当時の私にはその意味がつかめず、奇異に感じられたことであった。訳者は、生田勉と樋口清であった。生田についてはのちに、詩人立原道造の友人であったことを知った。

1967年に東京外国語大学中国語科に入学した私は、土曜日の陳東海先生の会話の授業を終えて友人と別れたあと上野で時折降り、特に国立西洋美術館に行くことがあった。建物は近年世界遺産に登録されて有名になったが、その頃の私はル・コルビュジエの設計であることも知らなかった。1959年に開館したこの美術館への入場者は1967年当時、通常展のみのときは土曜日であっても来館者が少なくいつも静かだった。前庭に置かれたロダンの彫刻も現在とはその配置が異なっていて、有名なカレーの市民が中央にあったとおもう。

朝倉季雄の『朝倉初級フランス語』に戻ろう。高校二年の私が、この時期になぜこの本を買ってフランス語を学ぼうとしたか、その当初の目的については今でははっきりとは憶い出せないが、多分フランス近代の象徴詩を何かで知って、原文で音読してみたかったのかもしれない。のちに私が河上徹太郎や吉田健一に惹かれて、ランボーやヴェルレーヌの訳詩を丁寧に読むようになり、原文も訳と並行して何とかたどれるようになったが、それは大学入学以降、1967年以後のことであった。

私はこのテキストを文法的に細かく学んだのではなかった。ただフランス語をできるだけきれいに発音することを中心にして、各課の例文を何度も音読した。幸いにこのテキストにはIPA 国際音声協会の音声表記が丁寧に例文に添えられていた。あとはアクセントやリエゾンに注意しながら、繰り返しフランス語の韻律に習熟することが私の課題であった。文法としては、主要な動詞の活用表を繰り返し読むことぐらいであった。しかしこの簡単な繰り返しが、和光大学に編入学し華埜井先生のフランス語初級の教室で私が音読をしたとき、先生に褒めていただいたことを友人から教えてもらったことへと、繋がっていったのではなかったか。このことが先生と私との唯一の直接的なつながりとなったことをおもうと、不思議な気持になる。

高校の頃、私はほとんど文学とは無縁であった。すべてを憶い出せるくらいに少なかった。中央公論社から赤い表紙の『世界の文学』が出ていて、私はその中のゲーテの『若きウェルテルの悩み』とカフカの『城』を読み、特にカフカの『城』には深い感銘を受けた。挿入されていた点描画風の挿絵も素晴らしかった。訳者は辻瑆((つじ・ひかる)で、この私の論考の主題となる華埜井香澄(はなのい・かずみ)先生が東京恐育大学の仏文専攻修士・博士課程で指導を受けたとおもわれる辻昶(つじ・とおる)先生の実弟である。日本文学では、中島敦の『光と風と夢』、川端康成の『古都』を読んだくらいしか憶い出せない。『古都』を読んだのは、京大にあこがれていたこともあったとおもう。サッカー部は通常は確か月水金の三日が練習日だったので、それ以外の日に、高校の二階の古い図書室の窓際に沿った木製の棚のような長い読書机が私のお気に入りで、そこから時折校庭を見渡しながら、読み終えた記憶がある。私が図書室あるいは図書館が好きになった始まりでもあった。

さらに数少なかった文学書の単行本購入の中で、忘れられないフランス文学の小説があった。私はその本を高校二年の多分秋に、立川駅北口の駅前の立川通りを左に数分行ったところにあった立川書房で目にして購入し、めずらしくほとんど一気に読み上げた。白水社から出ていた函入り赤い背表紙のルイ・エモン著、山内義雄訳の『白き処女地』である。フランス領カナダの開拓地に生きる人々の信仰深き日々を描いたこの小説は、私の中で高校入学以来、不即不離の状態で継続していた、哲学と理学の相克の中に、さらに新しく信仰と自由という、新たな領域を加えることとなった。

高校二年では「倫理社会」を学んだが、その学年末試験は倫理社会に係わる自由作文のレポート提出であった。私はためらうことなく、このレポートの主題に『白き処女地』の中の見られる信仰について書くことを選び、私が読書中また読後に考えざるを得なかった、信仰による安息の生活と厳しい選択を常に強いられるが自由に生きる生活との二者を、決定論と自由意志論との相克という、未熟ながら当時の私としては最も大切な課題を、可能な限り分析しようと試みた。

私の中では、信仰は決定論に属し、自由意志論 としては理学、もっと正確には私の場合は、理論物理学による自然探究が置かれていた。私のレポートの結論は、小説に描かれたカトリック信仰は確かに心打たれるものであり、私にもそうした世界は親しく感じられ、もしかしたらのちに加わってゆくこともあるかもしれないが、今は、本当に自由かと問われればよくわからないが、厳しいけれどその都度自らの方向を考えながら生きて行く、より大きな自由を有すると思われる方を選びたいというようにして、書き終えたとおもう。
そのようにレポートとして結論を提示しても、信仰の中にこそ本当の自由があるのではないか、ただ自由に生きるというだけでは何からの自由であり、どこにいることが自由であるのか、そして何に向かっての自由なのかが不明ではないかと反問されると、答えられなかったとおもう。カトリック信仰が私に近づいた初めての日々であった。

この私自身に向けた真摯な問いは、のちに河上徹太郎の批評を読む中で、大きなひろがりをもって私の心に入ってきた。氏が訳された、ヴェルレーヌの詩集『叡知』は、氏自身がその「跋」において、「 今ここにこの一巻を出して世に問うには、それだけの理由がなくてはならない。これは今から約二十年前、 私の青春の最も決定的な時期に、私が如何なる読書によっても救われなかった魂の寂寥をただこの一巻によって医すことが出来た時の記念なのである。」と述べ、「これは、私の救われた稀有の体験の実録に過ぎないのである。」と万感のおもいで振り返っているのに接し、私ははたしてそのような体験をすることができるのであろうかと、幾度となく考えていた。この跋文は「昭和二一年秋 郷里岩国にて」としるされて終わる。

この訳詩集の中で、私がもっともよく服膺した詩句は以下であった。

「希望は厩の藁の一筋のごとく輝く。」 

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