Friday, 23 April 2021

Persian so far

 2004年に戻ろう。

2004年1月に情報学研究所から、口頭発表論文等を冊子として刊行するので完成原稿を送られたし、とのメールがあり、私は口頭発表原稿をもう一度見直し増補して送付した。5月には論文が掲載された厚い冊子が届けられた。従来の発表原稿と区別するために、冊子上の表題は、Quantum Theory for Language Synopsis とした。しかしここに至るまでの私は失敗と失意の日々を経ていた。それを乗り越えてきたとまではとても言えないが、その経過を略述したい。

1967年に外語に入学したときから、私はみずからの勉強を、アジアの言語からヨーロッパの言語へと向かう大きな方向を考えていた。それまで英語とフランス語の初歩を学んだだけであった当時の私には、実現の有無を超えた未熟な青年の、それでもあふれるような希望に満ちたおもいであったことは事実だった。


ひとりの尊大な青年は、その後折りにふれて、アジアのいくつかの言語を、まず文字だけでも習得すれば、そしてその言語を文字を通して発音することができれば、あとはなんらかの方法があるだろうなどと単純におもいながら、書き綴り練習した日々があった。


どうしても学びたかったチベット語、古典語としてのサンスクリット語。そこから南アジアへ向かいヒンドゥー語、ビルマ語そしてタイ語等の文字筆写に費やす時間がしばらく続いた。北に向かうと文字的には当時はロシアのキリル文字を使用していたので文字を読むことだけはできたモンゴル語があり、中央アジアから中近東に至り、仏教に深い影響を与えたゾロアスター教の故地ペルシャの言語があった。これらの日々は単純な作業であったが、いつかそれは一つの結実を生むであろうと、夢みていた。


しかしこのペルシャが、最終的に私の未熟な夢をほぼ完全に打ち砕くこととなった。一冊の本に邂逅したからであった。岩波書店から1979年に刊行された伊藤義教先生の『ゾロアスター研究』を、私は当時の都立青梅図書館で閲読した。悠久の歴史を刻むペルシャは、遡れば遡るほど微妙な差異を含む諸語へと連なり、それぞれの言語が深い歴史遺産を有していた。それらの一つでさえ、私の生涯を覆うであろうことは、単純な私でももはや歴然としていた。私はおもえば少年のようであった夢をここで放棄した。


それでも私はみずからの夢を見続けていた。言語を通していずれかへ向かう夢、どこへ行くのかもわからない夢を私は有していた。しかしすでにアジア諸語からの方途は消えていた。残された道は二つであった。どんなに消去しても残るものだった。一つは、言語の普遍性、言語の差異を超えて人はなぜ理解し合えるのか。もう一つは言語を記載し残存させる文字という物理的存在。この二つを追うことが残されていた。


言語の普遍性にういては、千野栄一先生からSergej Karcevskij の存在を教えていただいた。



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