Friday 17 April 2020

Tale Resting Elbows Nearly Prayer. RI Ko. 2007



Resting Elbows Nearly Prayer
RI Ko
2007

祈りに近くひじをついて       
里行
2007年 

1 丘陵
六月の丘陵はさわやかだった。吹き上げてくる風が強く頬を打っても、もう冷たさはなかった。はるか南にひらけた空に低く夏の雲がわきあがっていた。高校最後の夏になった。かけがえのない時間がながれていくと、田所は思った。なにかあるたびに丘陵に来て、なにかを抱いて下っていった。丘陵はそんな場所だった。丘陵の下を街道が走り、西には広い林がひろがっていた。丘陵のいただきからは見えないが、遠く田所の家もその縁にあった。高校1年の秋から冬、彼は落葉の始まった林の中を歩きながら、自分の思いをまとめようとしていた。ときどきは本を手にしたままで歩いた。隣の緑陰市の図書館から借りてきた、岩波講座の桑原武夫が編集した「文学」という叢書の一冊であったり、人文書院の田中美知太郎の論考が入った「哲学」の叢書であったりした。
田所にはしてみたいことがたくさんあった。高校での生活は充実していた。高校1年のときの理科は生物と地学だった。地学の授業で一二度天気図の作成が行われた。先生がテープに録音してきた、NHKの気象概況を教室でながし、それを聞き取って天気図の記録欄に書き込み、それによって実際に天気図を書くというものだった。田所は天気図というものに興味をもった。特に等圧線の書き方に興味を持った。飛び飛びの観測地点の記録から、特にその風向に留意することによって、等圧線の微妙なふくらみや狭まりが表現された。
田所の入学した高校は、かつては男子のみの旧制中学であり、戦後は男女共学になったが、一学年男子300名に対し、女子は100名のみであった。したがって、一学年8クラスのうち、4クラスは男女半々のクラスとなったが、残りの4クラスは男子のみのクラスになった。田所は1年のとき男子クラス、2年のとき男女クラス、そして3年がまた男子クラスになった。
この古い高校のまたふるめかしい校舎の理科の特別教室のある棟の手前の1階の階段の下に、まるで洞窟のような売店があった。そこには田所からは年取ってみえたおばさんがちょこんと座っていて、声をかけると必要なものを取り出してくれた。少しオーバーに言えば、物語に出てくる魔法がかった店のようにも感じられた。そこで、地学の先生から言われていた天気図の冊子を買った。それは夏休みに毎日つけても十分な厚さで、田所はこの年の夏、ずっと天気図をつけてみようと思い、たしかにそれを実行した。毎日夕暮れ近くになると、田所は庭に小さなテーブルを持ち出し、そこで気象概況を聞き取り、その後すぐに天気図を作成した。簡単な作業であったが、気持ちのよい達成感があった。これを夏休みの間、ほぼ毎日続けた。おかげで天気図の作成にはすっかりなれてしまった。
田所が等圧線に興味を感じたのはたしかであったが、もうひとつには山に行ったときに天気図が書けるといいと思ったからでもあった。田所は山が好きだった。さすがにワンダーフォーゲル部に入ろうとまではしなかったが、友人の赤木が、毎日放課後に一階から四階の音楽室がある塔まで、なにか重そうなリュックサックをしょって、のぼりおりをしているのを、多少の羨望の念で見ていたことはたしかだった。
立山高校は立山市の南口から歩いて8分ほどの距離にあった。学校の帰りに駅の南口手前を左に曲がるとすぐ右に、小さな登山専門店があり、いろいろなものを売っていたが、お客はいつもいなかった。田所はそこで、布製の紺色のキャラバンシューズを買った。初めて買った登山用具だった。一年の秋の遠足で、高出山にのぼったとき、田所は少しオーバーかなと思ったが、このキャラバンシューズをはいていった。ワンゲル部の赤木をみると、彼は踵まではないが、しかしあきらかに登山靴らしいものをはいてきていて、なんともかろやかに見えた。それに比べると田所はいかにも山の素人という感じだった。こんなふうに山に対する思いはつよいものがあり、この登山店でときどき雑誌「山と渓谷」を買った。多くの人がそうであったように、その表紙の絵がいつもすばらしく、山への思いを募らせた。
田所は思い立ったことは、一度は試みるようになっていた。そうして自分に合わないものからはすぐに撤退した。あきらめやすいとも見えた。そうした彼が、哲学と文学の二つの間で、いつまでもゆれ動いていたのは、高校一年の秋から冬であった。そのどちらも、田所がワンゲル部の赤木に羨望のまなざしを向けたときと同じ、何かひとつの対象に向かって深くかかわることへのつよいあこがれのようなものが元になっていた。哲学や文学において、努力をすれば、大きな達成ができるとは、彼もさすがに考えはしなかった。なぜなら、彼にとって哲学は、ニーチェの「ツァラストラ」であり、文学はカフカの「城」であったから。それらが示すのは、あまりに全体的であり、あまりに世界的であり、超時代的であった。そんなことが容易にできるとは思いもしなかったが、しかし、そうしたひとつの極北をいだいて努力するということに、田所の心はつよくひきつけられていた。中央公論社版の世界の名著の中のニーチェの巻には、濃紺の海に面した場所が口絵となっていた。ニーチェが思索した場所であった。その深い海の色に田所はひかれた。カフカの「城」も中央公論社版の世界の文学で読んだ。点描で描かれた挿絵が小説の内容と一体となり、深い感銘を彼に与えた。これらの極北にあるのは、世界を理解することであり、世界を表現することであった。田所の夢は単純だった。一生といわずとも、少なくとも青春を、田所は世界を表現することにかかわりたかった。しかし、どのようにそれを行えばよいかは、ほとんど未知であった。
この世界表現に対する方法とあこがれが、高校一年の終わりから大きく変わっていった。理論物理学が世界理解と世界表現の対象となった。しかしこの変更は決して唐突なものではなかった。田所は、中学のときにガモフの「一、二、三・・・・無限大」を読み、その世界に夢中になっていたときがあった。彼がもっともおもしろく感じたのは、りんごの中を食い進む二匹の仲がわるい虫の話だった。二つの虫はまったく仲がわるく、本能的に出会うのを避ける。したがって二匹の虫は、ひとつのりんごの中を縦横無尽に食べ進みながらも決して出会うことはない。最終的にひとつのりんごの中に、まったく触れ合うことのない二つの空間が存在しあうこととなるといった内容であった。アインシュタインの相対性理論の内容については、ほとんど理解できなかったが、また深く追跡するということでもなかった。それらの専門的なことはいつか別途行えばよい。今はその方向を選択することであった。この物理への選択が魅力的であったのは、その方法が洗練されていることだった。世界を理解し表現するために、数学や物理を用いる。その普遍性が無条件で田所の心を魅了した。哲学や文学は、全体的であり、直接的であることは確かだが、その結果がどのように普遍性をもつか、田所には不安だった。そこへ行くと理論物理学では、すべてが明瞭であった。少なくとも田所にはそう思えた。そしてこの選択は以後揺らぐことはなかった。ただし三年になって初めて行われた校内テストの数学で、出題された四題の問題に対してどのひとつについても完全に解答できなかったとき、彼の心は不安になった。こんな状態で理論物理ができるのだろうか。しかし対象の魅力はこうした不安を打ち消すに十分なものがあった。湯川秀樹と朝永振一郎が輝いていた。二人の相貌がまったく対照的であるのも、田所は気に入っていた。理論物理の世界はこんなに広いのだ。まったく異なった個性がこんなに輝くことができることはなんとすばらしいことだろうと。朝永振一郎の本は読んでいなかったが、湯川秀樹が著した岩波書店から出ていたエッセイ集を読んで、田所はさらに感動を深くした。湯川先生は、あれほど深く物理の世界に入りながら、そのかたわらで、中国の古典にも深い理解を示されている。物理を学びながら哲学を行うことは可能なのだ。しかし哲学を行いながら物理を理解することは、困難なように思われた。それが田所を大きく物理の世界表現に向かわせたのだった。田所は迷うことなく、大学は京都へ行くことを選んだ。たった20名の理学部に多くの俊秀があつまる。それでも不安はほとんどなかった。世界を理解するには、そのような難関は当然であると思われた。
高校二年三月に行われた修学旅行は、京都と奈良であった。かなりの自由行動が許されていて、田所は、もう一人の京都志望である、熊谷と一緒に、自由見学の時間に京都の基礎物理学研究所をたずねた。研究所の外観はすばらしいものだった。どんな京都奈良の名跡よりも、二人にとっては、この建物のほうがすばらしかった。写真で見たのと同じように建物の前面に木立がたっていた。灰白色の清楚な建物は、自分たちの未来を象徴しているようだった。そうして田所は三年になった。
このような中で彼は、丘陵に来た。夏を告げる風が吹き上げていた。高校最後の夏を充実して過ごそうと、田所はもう一度心に深く誓った。
2 出会い
田所孝平が村木容子を初めて見たのは、高校入学直後、田所たちの一階のクラスの窓の外を、噴水の脇を、傘を指した村木が通っていったときだった。春のこまかな雨が降っていた。彼女を中心にして、すべての風景がしずまりかえっていた、そんな感じがした。彼女はすぐに通り過ぎ、それからあわただしい幾日かが過ぎた。田所が村木とふたたび出会ったのは、クラブ活動のときだった。
田所は生来の多関心から、クラブの選択に迷ったが、結局、自分の本来の性格にあった陸上競技部を選んだ。田所は、無条件で土が好きだった。土あるいは大地といってよかったが、足裏で大地を踏むときの感触が、たまらないくらいに好きだった。だからよく校庭で、意味もなく、逆立ちをしたり、寝転んで腹筋をしたりした。乾いた土も、雨上がりの土も、すべて好きだった。汗をかいた体で、休んでいると、風が校庭を吹き抜けていった。そしてすべての疲れを運んでいってくれた。土を踏み、風を切ること、こんなにすばらしいことはないと思われた。
田所は短距離も好きだったが、最も好きだったのは、走り幅とびだった。田所は中学一年のときの体育祭で、校内での400mの学年記録を出した。その後まもなく、400mは中学校では採用されなくなった。中学生には体力的に無理がかかりすぎるということらしかった。したがって、田所の中学校一年400mの記録は、永遠に田所のものとなった。たわいないことであったが、このことが田所にはうれしくてその後友達にも幾度か話したが、いずれの友達たちも、一様に、ふーんというだけでそれほどの関心は示さなかった。たしかにその程度のことではあった。しかし田所がもっとも伝えたかったのは、そのときの大地の感触と風を切るみずからの体の傾きにあった。
しかし100mなどの短距離は、ひとつの小さな中学校にも、圧倒的に速いものがいた。それはどんなに努力しても追いつけないものだった。すべてがそうであるかもしれないが、陸上には過酷な天分が存在した。田所は、その天分を跳躍に感じていた。それほど真剣でなく、らくな気持ちで跳んでも、むしろそれだからこそ、跳ぶたびによい記録が出た。走り幅跳びそのものはしかし、短距離走とは別種の、跳躍のタイミングなどのこまかな要素があったが、それも田所は、計算したり修正したりしながら楽しく跳ぶことができた。中学のときの2クラス合同の男子授業のときなどの3段跳びのとき、田所は圧倒的な飛距離を出した。
高校では、中学のときにはやや脇役であった走り幅跳びを中心にしてみようと思った。記録ももちろん大事だが、なによりもあの大地と風の感触をふたたび取り戻したかった。受験はやはり、純粋なそうした思いを遠ざけていることに気づいた。
陸上部に入部を申し込み、初めて校庭での練習に参加したとき、田所は村木が、一年でやはり陸上部に入部していたことを知った。田所はクラブの選択で逡巡していたために、入部がやや遅れたが、村木は迷わずにすぐに入部していて、もうクラブにすっかり溶け込んでいた。村木は典型的な短距離ランナーだった。短い髪が、走るたびに風にそよいだ。クラブの練習は男子と女子別々であったが、はじめと終わりのランニングだけは合同でやった。田所も一瞬、短距離をと思ったが、高校の短距離はいっそうレベルが高かった。田所の足では、努力の範囲を明らかに超えていた。走り幅跳びでは、しかし十分な見通しがたった。男子部員20名ほどの中で、一年で走り幅跳びを専門とするのは、田所だけだった。クラブに慣れると、飄々として快活な金井と親しくなった。金井は走り高跳びが専門だった。金井は、中学時代のベリーロールから背面跳びに変えていた。新しいチャレンジをしたいのだと言った。こうして三人の青春が始まった。
3 委員会
クラス委員の選出で、田所は図書委員になった。というより自然にそうなった。クラスの委員にはだれも積極的にはなろうとしない。しかしそれなりに進行して図書委員のところに来たとき、一人が田口を推薦した。もう一人だれかいませんか、といったとき、同一推薦人が、それでは田所君をということで、名前の近い二人が、図書委員になった。
はじめての委員会の日に、また村木と会った。彼女は男女組A組選出の委員だった。そのときは、さすがに村木も「あら」といって笑った。出会いはこれで三度目だった。しかし村木は一度目の雨の日のことはもちろん知らない。
委員会解散後の廊下で「田所君、本が好きなの」と聞かれた。
「好きは好きだけど、ならされた」
「ならされたって、無理に」
「無理にっていうわけでもないけど、クラスに田が苗字が二人いて、それでオレと田口がなった」
「私は自分でなったわ、だってどれかになるなら、好きなもののほうがいいでしょ」
「そりゃたしかにそうだ」
「当番は木だっけ、私は火。クラブがないものね」
陸上部は、練習が月水金の三日だった。
「田所君は黙々と練習してるわね」
「だって幅跳びは一年はオレ一人だし。金井とよく話すよ」
「金井君は中学のとき、いい記録出してたんだってね」
「らしい。村木さんもそうだって聞いたけど」
「うーん、すこしね。でもまだまだだわ」
短い髪のように、話し方も端的だ。
男子クラスのF組の前に来た。A組はまだ先だ。
「夏の記録会には出るの?」
「オレ高校になってからだから、幅跳びはむずかしいよ」
「大丈夫よ、田所君いい滞空時間してるじゃない」
びっくりした。自分の跳んでるところをけっこうちゃんと見ているらしい、田所は村木を見送って思った。
4 手紙
一年の夏休みに、田所は村木に手紙を書いた。結局七月の陸上記録会は散々だった。踏みきりは合わないし、記録ももちろんよくない。おまけに、最後には足がつり気味になった。対照的に、村木は順調だった。短い髪が夏の光に輝いていた。金井は、競技会前の学校での練習で、足を少しくじき、大事をとって記録会には欠場した。秋の競技会に向けて順次調整していけばよい。
学校での練習は七月いっぱいで終わり、八月は自主練習となっている。各自が思い思いに練習しあるいは休んだ。長野の白馬にある学校の山荘に行き、地元の小学校を借りて練習することができるが、それも自由参加だった。合宿とは少し違っていた。自由な校風は、そんなところにも出ていた。田所は夏休み前に参加の通知を出してはいたが、もしかしたら休もうかとも思っていた。
白馬は初めて行くところだ。登山の基地としても魅力があったが、夏休みが中断するのが、なんとなくいやだった。一学期はあっと行う間に過ぎた。二期制だったから、通知表もまだ出ない。成績のことはほとんど気にならなかった。評価も順位も大体予想できた。
立山市はこの地域の中核都市で、三つの線が集まるターミナル駅であり、乗降客は多い。田所はそこから緑陰線で見島まで乗り、そこで七高線に乗り換えて、二つ目の蔵之崎で降りた。そこから自転車で畑と林を抜けて自宅に着く。歩いて蔵之崎駅まで行くこともある。春には林でウグイスが鳴き、畑では高くヒバリがさえずった。ここで生まれ育った田所はこの町が好きだった。そしてときどき、というより何か機会があるたびに笹木丘陵に行った。東西11kmにわたって続くこの丘陵は四季それぞれの美しさを示した。田所の丘陵との最初の出会いは、父に連れられて丘陵の北にある遊園地まで花火を見に行ったことだった。姉からその話を幾度か聞かされていたが、田所自らに記憶はなかった。
帰りは完全に眠ってしまってバスで大変だったようだが、背負ってくれた父には、今になるとよく連れていってくれたものと感謝している。
それが四、五歳のころでその自分が高校生になった。その丘陵を夏の間に存分に歩いてみたいという思いが強かった。植物や昆虫や鳥が育ち、雲が高くわき立ち、なによりも吹き上げてくる風がさわやかだった。
そんなことを、田所は村木に書いてみたかった。ほんとうは、好きだという気持ちを書いて送りたいという思いがあったが、そこまでは書けなかった。そうした表現は村木にはなにかそぐわなかった。結局、四月に噴水のところで見かけたことも今まで言わないでしまった。それよりも、丘陵と林の美しさを伝えたかった。これは真実だった。村木は、立山市から南都線で南東に進み、戦河原で乗り換えて奈応線にある外山市に住んでいた。小さな低い山があるとは聞いていたが、笹木丘陵のようなものではなかった。丘陵のまぎれもない美しさを伝えることで、間接的に田所の気持ちも伝えられるように書きたかった。神経質なようでけっこう楽観的な田所が、真剣に考えた結果だった。
「林を歩いていて急に明るい畑に出ると、そこから一面にひろがる南の果てに山塊が低く続き、雲が高くわき立っています。畑では雉をときどき見かけます。
これから秋に向かって台風が来て、その翌日は輝くような美しい風景に出会えます。白馬での練習にはやはり行きますか。」
そんな意味不明なことを書いて、投函した。返事を待ったが来なかった。
結局、白馬の練習には参加した。高原の小学校はあきらかにもう秋が来ていて、それを知るだけでも来た価値があったと思った。
「はがきありがとう」と村木が礼を言った。
「返事を待っていたのに」というと、すぐに練習で会うからと思って、出さなかった、ごめんねと言われてしまった。やはり間接的な表現はだめだと田所は思った。「夏ってなんか感傷的にならない?」
「別にそうでもない」、素足にサンダルをはき、練習用のシューズを手にして午後の練習が終わったとき、村木はほんとうにその感じで言った。田所君の気持ちはわかるけど、今は時間の経過にまかせてみない、することがたくさんあるもの、もし返事が来たら、そんなふうに書いてあると田所は思った。
5 授業
高校一年の秋になった。学校もクラブもほぼ順調だった。田所は授業のほとんどに、興味を持った。苦手といえば古文くらいだった。これだけは、多関心の田所でさえ、どうその対象に接近し関係を見出すのか、わからなかった。おまけに小西甚一先生の「古文研究法」を各自一冊ずつ買わされて、これの何十頁分かが課題として与えられ、ときおりそれだけの試験があった。この本はよくできていたが、その本をしても、田所が古文の世界に参入していくまでの魅力は呼び覚ましてくれなかった。漢文は漢字そのものがおもしろかったので、古文ほどではなかった。金井と親しくなってそんな授業の話もするようになったころ、「おまえ、中学校のとき英語ができたんだな」と突然言われた。他校出身の金井のことばは唐突だった。「中学校のときの模擬テストで名前が出ていたじゃないか」、確かにそんなことがあった。
自分でもほとんど忘れていたが、広域の模擬テストで英語だけが極端にできたことがあった。しかしそのことより、そんな小さな遠い記録を克明に覚えている金井の記憶力に、田所はあらためて驚いた。事実、金井の成績は抜群だった。クラブとクラスが一緒だったので、二人は急速に親しくなった。田所はよく金井に数学を教えてもらった。二年では別のクラスになったが、三年でまた同じクラスになった。この三年の男子クラスは、まったくおもしろかった。座席は自由なところに座る。極端にいえば毎日席がかわる。しかし、それぞれの性癖にしたがって大体の位置は固定する。サッカーの篠塚はいつも窓際の前の方の席で黙々と勉強していた。田所と金井は、最後列のしかも廊下から二列目が金井、三列目が田所だった。廊下にすぐ出られるし、入るのも楽だ。廊下側の一列目最後列は、さすがに出入りがうるさすぎて、そこだけ机と椅子がない。だから二列目最後尾の金井がやはり一番廊下側ということになる。その横が田所だ。この席がいいのは、出入りが楽なだけではなかった。すぐ後ろにゴミ箱がある。いらなくなった計算用紙などはすぐに捨てることができて便利だ。いらなくなった紙をみんな自分の席から直接捨てる。うまくはいることもあるが、けっこう外に出てしまう。だからゴミ箱のまわりは紙くずが散乱している。そのすぐまえに金井と田所がいる。あまりにごみが多いときは、さすがに田所もゴミ箱に押し込むが、そのゴミ箱がいつもごみの山なのでもう入らない。ときどきはごみを外に捨てに行く。田所はそういうのが比較的好きなほうだ。教室の掃除は一切だれもおこなわない。机もけっこうばらばらに曲がっている。それでも毎日が成立している。田所自身もちゃんと掃除をしたのは、入学直後の一回だけだった。教室は事務室のすぐ左のほうにあった。授業が終わってから、何人かで廊下までそうじをして、もうまもなく終わろうとしたとき、事務室から女性の職員がやってきて、「みなさん、何をしているの」といぶかしげにたずねられた。「そうじです」とだれかが多少誇らしげに言った。その後の女性職員の反応は、その場の全員が共有した。「ええーつ、そうじをしているの」あきらかに不可思議な現象をみている言い方だった。それでみなは納得した。この学校ではそうじをするのは異常なのだ。
それ以来田所は掃除をしたことがない。金井も多分同じだろう。もしかしたら金井は一回もしていないかもしれない。
「金井、おまえそうじしたことある?」
「へへ、そうじなんてあるの?」金井はなんともうれしそうな笑い方をする。
「オレは一回だけ、入学直後に、ほらあのF組、おぼえているだろ?」
土足のままの教室は、いつも少し油くさかった。木の床に油をひいてそうじされていたのかもしれないが、実態は知らない。緑陰線の古い客車の床に油がひいてあるのとよく似ていた。
「金井、この問題解いてよ」 
三年G組は全員理系で、数学は数Ⅲまで、理科は物理と化学、社会は日本史と世界史が大半だった。男ばかりだから、教室内は雑然としている。ときどきごみが、田所と金井の頭上を飛んでゴミ箱に向かう。
「おまえ、千円札もってる?」金井は、いつも田所のことをおまえと呼ぶ。
「なんで」
「オレ、千円札のすかしの部分でこれ解くから」
いつも金井には脱帽だった。
いつだったか、大学の話になった。
「おまえ、どこ受けるの?」
「京都」
「おまえ、その実力で受けるのか」金井はいつも率直だ。
「わるいか」
「わるかないけど、おまえの数学じゃ無理じゃないの?」
「たしかに、でも受けたいから」
確かにきびしいことはきびしかった。しかし田所も努力はしていた。三年一学期のさんざんだった校内実力テストは、二学期はじめで、校内20位まで上がった。金井はいつも5,6番にいる。化学が希望だ。
三年の二学期にはいると、教室の机は雑然としているが、室内の空気はとぎすまされるようになった。ごみはときどき宙を舞うが、大げさに言えば、その紙が風を切る音が聞こえるくらい真剣な時間がおとずれる。三階の窓の外遠くに山々が見える。その下には宅間川が流れているはずだが、教室からは見えない。宅間川は校歌にも出てくる。
「おまえ、これ解けるか」
金井がメモ用紙をよこした。そこには「金井ダ豊」と彼の名前が書かれていた。
一瞬戸惑った田所に、金井は独特の笑顔で言った。
「金井ダ、トヨー」
6 体育祭
一年の秋、初めての体育祭が近づいてきた。一学年8クラスが縦割りに四つに分けられて、それぞれが赤、黄、緑、青のチームとなる。チームの応援歌が毎年新しく作られ、それを屋上で練習する。遠く奥宅間の山々が見える。その下を悠々と宅間川が流れる。すばらしいロケーションだ。田所などのF組はA組とコンビになった。村木もその中にいた。体育祭のメインは、巨大な張りぼての立体の壁面だった。材木で芯を作り、その上に新聞紙を何枚も張って、立体的な壁面を作り、最後に色を塗って出来上がる。普段は下において部分ごとに作業をしているが、それらを組み立て立ち上げるとすばらしい立体の壁面ができる。これが赤、黄、緑、青の4色のチームカラーを彩りながら校庭の4隅に取り付けられる。その前で応援合戦が行われる。
壁面作りは、早くも夏の前からとりかかる。最初は何をしているのかまったくわからないが、それでも次第に力がはいってくる。田所も金井もよくわからないまま、指定されたところに何回も新聞紙を貼り付けていった。
こうして壁面が完成し、体育祭が行われ、4チームが争い、いずれかが優勝する。しかしそれはあまり重要ではない。その後の後夜祭をみながたのしみにしている。半年近くかけて作った壁面が取り外され、校庭のまんなかに作られたファイアストームで燃やされる。そして定番の歌「劫火静かに」がみなで歌われる。
中心のファイアストームに火がつけられ、火の粉が高く夜空に上がる。4チームはそれぞれの場所から入場する。男女別に列が作られ入場する。
列を作っていたら、田所と村木が一緒の組になった。まったく偶然だった。村木はなにも言わないので、田所もだまっていた。入場がはじまって田所は村木の手を取った。秋の冷気で村木の手はひんやりしていた。また出会ったと、田所は思った。劫火が大きく燃え上がり、その上に秋の夜空がひろがっていた。
7 輪舞
立山高校の校舎はくすんだクリーム色に塗られていて、かぎ型になった三階建て。その折れ曲がる部分だけ4階があり、そこに音楽室があった。田所は選択で音楽をとった。選択は音楽、美術、工芸の中からいずれかを選ぶ。これは田所はすぐに決定した。音楽、なぜなら何の用具もいらないからだ。最初にコーリューブンゲンを買わされた。声楽の音階練習だ。田所は音楽を聴くのは好きだ。しかし歌唱や演奏はそれほどでもない。ピアノは小学校のときから少し弾いた、中学校で器楽演奏のとき、田所はオルガンを弾いた。合唱のメンバーとして、歌った。しかしそれはそれだけのものだった。
高校に来て驚いたことのひとつは、音楽が本当にできる人たちが相当数いることだった。すばらしい声楽や、合唱の指揮、ピアノや弦楽器にいたるまで、どこでそんなことを習得したのかと思われた。田所が、笹木丘陵を歩きまわっていたころ、彼らは音楽に打ち込んでいたとしか思えない。そうでなかったら、そんなにうまくなるはずがない。
2年のときのクラスではフルートのうまい斉藤君がいた。これはもう聞きほれるしかない。放課後の床の汚れたごみの蓄積した教室に朗々としてフルートの音が響いた。声楽志望の古賀はまた別格だった。勉強はいつも苦労のしっぱなしだったが、芸術の才能は飛びぬけていた。2年のとき夏休み前、彼が教室で、すっとんきょうな声を上げた。「ああ、オレは仮進級に通ったぞ」。一年のとき、仮認定のまま2年になった科目が無事認められたというのだ。うれしそうだった。
田所は彼の家を一度たずねたことがあった。自宅を新築中で中には入らなかった。田所は彼に約束のロマン・ロランの本を持ってきてあげた。
美術にどんな才能の持ち主がいたかは知らない。田所は3年間ずっと音楽選択だった。だから音楽に秀でた人を見てもそれほどは驚かなくなった。
教室は1年が1階、2年が2階、3年が三階とだんだん上に行く。2年の秋、昼休みに2階の教室から、田所は窓の外を見ていた。真下は校舎のかぎの部分にあたり、中庭風になっていて、コンクリートになっている。そこにはむかし始業に使われたという鐘がつるされている。そこに2年の女子が2クラスほど集まっていた。別に授業というのでもなく、それが終わったか、午後が始まる前なのか、みな思い思いのままの姿勢でいた。ダンスかなにかの練習らしく、二人で組んで踊り始めているものもいる。見ると村木が、友人の諏訪さんと一緒に組んでいる。二人も踊りだした。どちらかというと村木が主で、諏訪さんが受けという感じだった。諏訪さんが高く手を上げた下で、村木が諏訪に手をのばし踊り始めた、舞踏会のシーンのように。中庭は、村木を中心にした輪舞のように見えた。重力がないかのようにかろやかに村木は踊った。クラブや委員会や会話で田所に見せる表情とはまったく違った、かろやかであかるく、歌詞は聞こえなかったが小さく歌いながら、村木は踊っている。諏訪さんもにっこりしている。二人は近づき、離れ、目を合わせて微笑みながら。黄葉のはじまった秋の中庭の木立の下で。
田所はこうして、いくどめかの村木に出会った。
8 本
立山市はそのほぼ中央東西に中洋線が走り、そこに緑陰線と南都線が入り込んできて、この地域の中核都市となっている。立山駅には北口と南口があり、立山高校のある南口のほうが古くから発展したが、戦後は北口が優勢になり、今では四つのデパートが北口近くに集中している。
北口を出て北進する中央通りと駅まで東西に伸びる立山通りがある。北口を出てすぐ左折し立山通りを少し行くと、そこに立山書房がある。この通りが田所は好きだった。適当に狭く適当に広く、人通りもある程度で明るく静かで、それは、駅を出てすぐの通りの右に高際屋デパートがあり、もう少し行くと衣服を中心とした長蔵屋があり、もう少し行くと左手に第三デパートがあったことにもよる。第三デパートの向かい、駅からは右側に立山書房があった。かなり充実した本がそろえてあると、田所は思っていた。入ってすぐのところに、岩波新書の棚があり、そこでは何度も立ち止まっている。
一年の秋も深くもう冬近い日、田所はそこで一冊の本を手にした。岩波新書で「生命とは何か」。著者は、アーウィン・シュレディンガー、ドイツの有名な物理学者だった。本の内容は、従来の生物学の世界を物理学から検討してみようというものだった。挿絵の中で、すぐ目に付いたのは、細胞分裂の図だった。この分裂の状態を物理学の力学の観点から検討してみようというものだった。
鮮烈な印象を受けた。生物学を物理学で検証する、そんなことができるのだろうか。物理学は無生物を対象とするという暗黙の前提の上に立っていた田所には、科学の持つ柔軟で貪欲な探究心がかすかながらにほの見えた気がした。しかし拾い読みをしているうちに、何か違和感を思えた。どこがどのようにというふうには、もちろん田所の力で指摘することは困難であった。しかし、この方法はどこか根本的にずれているというのが、田所の直感であった。多関心な田所だから、そこに一定の魅力を感ずれば、岩波新書は130円から150円で決して高くなかったから、すぐに買うことはできた。しかし田所は、その棚の前にしばらくいたまま、結局買うことはしなかった。もうそのころ哲学や文学でなく、ほぼ物理学を世界表現の方法にしたいと思う気持ちがかなりつよくなっていたから、物理的な方法というものに対して、かなり潔癖なところもあったのかもしれない。物理が新しい分野を開拓してゆくという魅力を感じていた。しかしそのためには、その方法が、澄んだものでなければならないというような思いがそのときの田所にはあった。多分青春が持つ直感だった。田所はそうした直感にかなりの信を置いていた。新しい方法は混沌としてはいるが、それでもやはり澄んでいなければいけない、そんなふうに田所は考えて、その本を買わなかった。しかしその本は自分が持つべき物理学への姿勢を鮮明なものにしてくれた。
立山書房では、二年のはじめに一冊の翻訳書を買った。ルイ・エモン著、山内義雄訳「白き処女地」、白水社の発行だった。立山書房の入って一番右の奥が外国文学の棚だった。「白き処女地」はまったく知らない作品で作家も知らなかった。ただ訳者の山内義雄先生の名前はフランス文学で高名であったことをなにかで知っていたので、それでその表題のすがすがしさにもひかれて買うことになった。内容はすばらしかった。主人公の若い女性がさまざまなことを経験し、恋人とも死別しながらも立ち直り生きてゆくというものだった。カナダのフランス植民地を舞台にした雪の村の静かな物語は、主人公のカトリック信仰の受け入れによって心の中心を見出すことによって終わる。田所は圧倒的な感動を受けた。それは文学的な感動とは異質なものに思われた。むしろ哲学的な感動であった。簡潔に要約すれば、予定調和と自由選択との相克だった。田所の理解は、カトリック信仰に基づく調和した平安な世界と、当面の自由を確保するために懸命に努力する世界との相克と思われた。人は信仰の中で真の自由を得ると司祭は伝える。人間的な悩みや苦しみの代価はあるが、それでも一回限りの人生を間違ってもいいから切り開いていきたいというのが自由選択の途だった。主人公は最終的に、予定調和の信仰の世界へと入ってゆく。それは静謐な安らぎに満ちた純白な雪の世界であった。田所はその世界のすばらしさを十分に認めながらも、しかし、自分は自由を選択すると思った。試行錯誤を重ねてゆくことが田所は無条件で好きだった。たとえそれが無理なように見えても、チャレンジしてみたかった。自由というものは人間に与えられた最大のもののひとつだと田所は思っていた。いやそれは一見自由に見えるだけで、ほんとうは気づきにくい規制の中で生かされているのだよと言われても、それはそうかもしれない、絶対的な自由なんて人間には不可能だけれども、可能な限りそこに近づこうとして生きることは可能なのではないか、というのが田所の立場だった。
信仰の中で物理はどうなるのだろうと、田所は一瞬考えた。しかしこの主題は彼が、信仰の側に立たないということで自然に消えてしまった。消えてくれてよかったと、多関心な田所は思った。
9 校庭
2年の夏休みに入り、陸上部の練習が終わったあと、シューズをしまっている田所のところに、めずらしく村木が来た。図書委員会などで一緒になったときは、ときどき話したりするが、校庭で話をするなんてあまりない。
「田所君、立山市の夏祭って見た?」
「七月の終わりのやつ?見てない」
「今年見に行かない、ちょうど土曜日だし」
 相当びっくりした。どうしてそういう選択になるのか、田所にはわからなかった。
「えつ?、オレなんかでいいの?」
「そんな人いないわ」
それはそうだ、オレがそんな人であるはずがない。
村木の髪が1年のときより少し長くなった。それを今日は後ろで無理に束ねている。
「花火がいいって、去年見た人がいってたの、来年はもうそんな気分にならないかもしれないし」
確かにそうかもしれない。
「花火は飛行場であげるらしいな」
「そう、立山通りだっけ、あの辺はすごい人だって」
「行ってみるか」
「いい?」
なんだかよくわからないけれど、それはそれでいい。一瞬金井に伝えようかとも思ったが、それはやめた。
夏の校庭が田所は好きだった。定時制が5時半から始まるため、全日制はそれまでに帰らなければならないことになっているが、なかなかそうはならなかった。事実田所は何回か自分の教室に忘れ物をしていて、コンコンと、定時制の授業中に入り口をノックして、自分の座席から忘れ物を持ってきたことがある。
そこへいくと校庭は自由だ。定時制の体育の授業がときどき始まることもあるが、夏だと広い校庭に6時過ぎまでいてもそれほどの違和感はない。
それに今は夏休みに入り、明かりがところどころしかまだついていないが、夏休み前の校庭や、秋の文化祭のころの校庭から、明かりのともった校舎を見るのは気持ちよかった。多くの若者がここに集っている、その活気がすばらしいものに思われた。
10 夏祭
夏祭はさすがにすごい人出だった。午後6時に北口改札口前で会う約束をしたが、乗り降りの人でいっぱいだった。田所は出て左のいつも焼き栗を売っているところに近いところで待っていた。村木は時間ちょうどに来た。
「すごい人ね」
「うん、びっくりした」
北口を出て左の立川通りをまっすぐ行くと、立山飛行場の端に出る。花火はその縁のあたりで上がるらしい。みんなそっちへ歩いていく。途中、立山書房もまだ開いているが、この人出でも、なかに人はあまりいそうもない。
立山高校は、制服が特になく、めいめいが自由な服を着てきていたが、それでも自然に制服らしいものができて、田所もふだんは黒い学生服だったし、村木も紺色の制服だったが、今日は二人とも夏休みのクラブのときのような服装だった。髪がまた短くなっている。
「あれ、髪切った?」
「暑いから」
少し長い髪はそれなりによかったのに、そのことは言わなかった。たしかにこの方がいつもの村木らしい。
「私ね、田所君に聞いてもらいたいことがあるの」
 やっぱりそうか。
「田所君、前に物理にしたっていってたわね」
「うん」
図書委員会の帰りに話したことがあった。飛行場に近づくと歩道から人がはみ出して歩いている。帰る人はまだそれほど多くないが、綿菓子やボンボンと呼ぶ水の入った小さなゴム風船を持っている人がけっこういる。
「自信あるの?」
「ぜんぜんない」。それはたしかだ。しかし、物理が厳然としてあることは事実だ。それとそこに接近できるかどうかは、まったく別だ。しかしそれをうまく言えない。
「それでも平気なの?」
「平気じゃないけど、好きだからしょうがない」
なんか村木に言っているような気がしたが、それは今の問題ではない。
「この間も金井に、おまえの数学じゃ無理だと言われた」
「金井君はすごいもの、この間もたしか5番だった」
村木はたしか30番ぐらい、田所と大して変わらない。
立山ボーリング場の近くでは、人が密集してうまく進めない。その先の飛行場の敷地の縁に行くとまた少し空くようにみえた。
「もう少し先に行ったところで見ないか」
「そうね、向こうの方が少し空いているみたいね」
そこは、踏み切りになっていて、その先に飛行場の金網があるが、今日はお祭で、その入り口が開放されているらしい。
「私ね、教育学部が希望だったの。でもそれは、ほんとうの自分ではないと思うようになったの。私のほんとうの目標はピアノなの。音楽っていってもいいけど。でも自信がないから、教育学部で、音楽を選択しようとしてた。その方が安全だから。私の音楽では、ほんとうの専攻は無理と思ってた。」
村木が言いたいことはわかった、と思った。
「中学からずっと陸上をやって、それはそれで全力を出したと思ってる。でも音楽はもっと小さいときから、いつも私のそばにいた」
田所は、中庭で諏訪さんと踊っていた、あのかろやかな村木の姿を思い出した。あんな表情としぐさは、陸上では見たことがなかった。
「ポリーニって知ってる?イタリアのまだ若いピアニスト」
「知らない」
「彼はね、若いときにコンクールで賞を取ったんだって。でもその後、ずっとひきこもって自分で研鑽を積んでいたんだって」
「うん」
「この間、彼のレコードを初めて聞いたの。シューベルトを弾いてた」
 シューベルトなら田所も知っている。「冬の旅」はこの間も、音楽の授業で聞いた。
「彼のシューベルトは、まるでスポーツみたいなの、完璧な技術で、芸術じゃなくてスポーツみたいなの」
「スポーツ?」
「そう、感情なんてどうでもいい、完璧に技術でいいって感じなの、それが自分なんだというふうに、自分の音楽を自分でずっと暖めてきた、これが自分の音楽なんだと、そういうことがわかったの」
「それで変えたわけ?」
「そう、自分に忠実じゃないといけない、人がどう思うかとか、この実力でどうなのかとか、失敗したらどうするのかとか、私はそういうことをどうしても考えてた、でもポリーニを聴いて、私は私がいちばん求めているものを大切にしなきゃいけないとおもった」
「オレはね、表現っていうことを考えてた」
村木はじっと聞いている。
「自分がいちばん表現したいものをしたい。だから、金井に言われてもほとんど気にならない。金井もそうだし、篠塚も数学がすごい。それはもう本質的なものかもしれない。やっぱり天分はあると思う。陸上をやっててすごくそう思う。練習で伸びるということはあるけど、天分は別。でもオレは陸上が好きだし、あの大地の感触や風を感じることが好きだ。だから続けてきた。実力だけだったら無理だった。」
言ってることがだんだん支離滅裂になった。でも村木は真剣に聞いている。
「ある本に出てたんだけど、村木さんなら、安らぎと自由、どっち取る?」
「安らぎってなに?」
「信仰とかそういうこと」
「信仰があればすばらしいけど、それは無理だから、自由しかない?」
「自由って試行錯誤の別名、そう思うよ。多分これから失敗ばっかで、後悔ばっかな気がする」
「物理のこと?」
「それもあるけど、それ以外にも」
「ありがとう、なんか少し進めそう」
村木の表情が少し明るくなった気がした。でもそれは花火のせいかもしれない。
ゆっくりと、ゆっくりとして、花火がしゅるしゅると音を立てて上り、大輪の花を空一面にひろげた。そして地響きのような力強い炸裂音がそれに続いた。
「今日ありがとう、一度話したかったの」
僕の方こそ、ありがとう、村木、最高の夏になった。
11 伝統
二年目の春になった。入学したときと同じように、校門のあたりは一面の桜で埋まった。桜はこの学校にむかしからあるのだという。明治から続いた古い学校だ。門の内側向かって左に門衛所がある。その中にほんとうの門衛がいるのをみたことはないが、帰りがおそくなると、その近くで守衛さんとときどき出会い、さよならと挨拶する。門衛所がまだ生きている気がする。
去年新入生であったころ、驚いたことのひとつは、朝校門を入ると、校舎の入り口までの広い地面の中央に椅子が置いてあり、そこに半紙が張ってあって、「今日は、何々君の誕生日です」などと書かれている。それがけっこうたびたびある。校門を入ってくる先生もそれをどかしたりしないで、そのまま置いてある。それほど邪魔になるわけでもないからいいということなのか、最初は少し驚いたが、なれるとこれがこの高校なのかと思うようになった。
週一回あるホームルームの時間にも先生は一度も出てこない。必要な事項を生徒たちで決めてそれを先生に報告しに行く。遠足などもみなそうして決める。
場所が決まると、委員が先生に報告に行き、バスなどの手配や支払いもみな生徒が行う。それで別段支障がない。
朝礼も驚いたことのひとつだ。一年に一回かせいぜい二回くらいしかないが、噴水のある中庭の向こうの校庭で校舎に面して行うが、誰一人先生の話を聴いていない。
先生は遠くで何か話しているが、ざわざわしていてわからない。そうすると後ろの校舎の2階や3階の窓からするすると巻紙が降りてくる。「今日はだれだれ君のなんとかです」とか「だれだれ君、体育祭がんばろう」とかたわいないことばが読み取れる。先生もなにも言わない。生徒も見るだけでなにも言わない。垂れ紙を持った生徒が、校舎の窓の内側をうろちょろしている。そうして朝礼は終わる。垂れ紙のためにあったようなものだ。旧式のそれでも多分この学校のひとつの中心である中庭の噴水の脇をとおりながら、教室に帰って行く。みんな、この噴水と中庭に愛着を持ち、古ぼけた校舎を好み、4階の音楽室は展望台のように使われ、屋上にはやはり古ぼけた天文台があり、物理の階段教室では、通称「ごんさん」がもたもたと授業し、化学の先生は時折手品を見せてくれ、もう一人の物理の先生は授業の途中で計算尺を白衣のポケットから出して計算し、生物室では毎週のように実験があった。数学の佐藤先生は夕暮れの校庭を横切り、校庭のすぐ南にある職員宿舎へ帰って行く。立山高校にかかわるすべての人が、この学校の自由な伝統を愛していた。それが一年すると田所にもよくわかった。
12 帰り道
めずらしく飛田と帰り道が一緒になったことがあった。飛田は同じ陸上部で砲丸投げをやっている。いつも一人で黙々とメニューをこなしている。背が高くがっちりした体はいかにも砲丸投げにふさわしい。飛田はあまりしゃべらないほうだがその日は違っていた。お互いに2年になって、いろいろなことを考えるようになっていたからだろうか。
「ソ連でルイセンコが解任されたの知ってる?」
飛田は天文が好きで、天文部にも入っている。
「あの生物学の条件反射かなんかの」
田所はそれくらいしか知らない。
「そう、彼が研究所長かなにかを解任されたらしい」
「それって、どういうこと?」
田所は政治的なバックグランドなどはまったくうとい。
「科学の世界に複雑な政治が反映しているらしいよ」
飛田はきわめて冷静に話してくれる。
「時代が大きく変わり始めたみたいだ」
そう言われても田所はほとんど対応できない。
「この間、弁論大会で、ベトナム戦争のことを話した人がいただろ?」
弁論大会は毎年行われ、ややクラシカルなそれでも真剣な弁論が行われる。そのかわり野次も多い。今年の大会で、確か3年生がベトナム戦争のことを話した。しかしその論旨を、田所には十分には追えなかった。新聞などにもあまり載っていないか、田所が気づくほどは大きく載っていない、といった方が正確かもしれない。
「ベトナムはどうなってるの?」
田所はイメージがなにひとつ浮かばないままたずねた。
「オレもよくは知らないよ、ただ相当ひどい状況になってるみたいだよ」
「ひどいって、どういうこと?」
「アメリカが攻めて、ベトナムを平定するということらしいが、予想以上の反撃があって、すぐには終わらないようだ」
戦争といっても、田所にはほとんどイメージがわかない。
「はじめはすぐに終わるということだったらしい」
「それが?」
「ベトナム側の反撃が続いているらしい,オレもそれしか知らない」
ベトナムの話はそれで終わった。二人とも具体的なイメージがもてないままで。ただ飛田の方がはるかに現実に深くコミットしている。
オレはまったくだめだ、田所は真実そう思った。勉強とか進路のことしか考えていない。
「オレは天文をしたいけど、きびしいからな」
「やってるとこ、少ない?」
「数えるくらいしかないよ、でもやってみるけど」
天文部は、学校の屋上に天文台を持っていて、前に飛田にその中に入れてもらった。小学校のとき、科学センターに参加していて、三鷹の天文台に行ったことがあった。その中をぐっと小さくしたようなものだ。
天文部がすごいのはもうずっと気象観測の記録をとり続けていて、今も毎日必ず部員が、行っているということだ。いつごろからの記録か知らないが、科学的にも相当貴重らしいと聞いたことがある。
「人工衛星なんか飛んではなやかなようにみえるけど、地味だからな」
その地味さ具合は、田所にはまったくわからなかったが、飛田のつよい志だけははっきりとわかった。農協会館のところを過ぎ、緑色の卓球場を左に曲がるとすぐ駅に出る。
「オレちょっと本屋に寄ってく」
南口には本屋が二軒あり、学校から帰る途中のすずらん通りに五十貝書店があった。もう一軒は南口大通りのライオン書店だ。
「じゃあ」
田所は飛田と別れてそのまま駅へ向かった。駅の地下道を通っているとき、田所はもう飛田の重い話のことをほとんど忘れていた。平穏な雑踏は夏に近かった。
13 音楽
村木から夏祭のときに、ピアニストのことを教えてもらったけれど、田所が一番よく聞くのは、ビートルズやPPM(ピーター・ポール・アンドマリー)やティファナブラスのテイストオブハニーなどの曲だった。
ビートルズの「ミシェル」は中学時代の同級生、山野がレコードを持っていて、そのジャケットでたどたどしいフランス語の歌詞をなぞって歌った。フランスのアズナブールの「ラ・ボエーム」などは物語まで浮かんでくるようで好きになった。「イザベル」の表現力に魅了された。ミケランジェリというピアニストがいて、よくコンサートをキャンセルするというような挿話だけを覚えている。このピアニストは指を垂直に立てて弾くとたしか新聞に出ていたので、テレビでその姿を映したとき、指先を見ていたが、田所にはよくわからなかった。
学校では朝登校すると、田所は七高線の本数が少なかったので、いつも一番くらいに教室についてしまう。朝の黒板にビートルズの曲の歌詞が全部書いてあったりした。音楽の授業で触れたりしたからだろうか、「オー・ダニーボイ」が全部書かれていたこともあった。前の黒板だけでは足りなくて、後ろの黒板にまで書いてあることがあった。消すのはもったいない気もしたが、始業前にはだれかが消した。癌になった高見順の詩集に「黒板」というのがあって、「黒板をきれいに消すようにして去りたい」と書かれていて、哀切なおもいがしたが、元気な田所には、その消すという行為だけが、歌詞が消されるときに思い浮かんだ。
音楽の授業で、「禁じられた遊び」の日本語の歌詞がついたものを習い、その単純な美しい旋律に惹かれ、ギターの音色もすばらしいと思ったが、習いたいとおもうこともなかった。音楽選択で、ひとつだけよかったのは、一人一人先生の横でピアノについて歌わされ、自分のパートを確定してくださったことだった。「あなたは、背が高い割には声が高くて、テノールね」と教えてもらったことだ。田所くらいの背だと、大概はバスが多いが、声にも体形を超えた固有の個性があることを知った。
3年の合唱祭のG組の自由曲は「ジェリコの戦い」だった。この英語の曲は多分忘れないだろう。 
14 競技会
二年秋の競技会になった。会場は、立山市立陸上競技場。市内南の宅間川の河川敷に大きな競技場ができている。去年に続いて、田所たちはここに来た。短中距離から、高校で走り幅跳びになったが、現実は厳しいものだった。周辺の高校を統合したこの競技会で、入賞することは決して易しいことではない。優れた競技者がそれだけ多く、日々の研鑽を積んでいることがわかる。
田所は去年、あと一人というところで決勝に進めなかった。自分なりに努力しメニューを立て、計算し、また修正した。それでも決勝には進めなかった。しかし去年は体力的にも技術的にもたしかに仕方がなかったところがある。今年はもうそういう言い訳はできなかったし、そうするつもりもない。自分の全力を出せば、決勝に残れるだろう、そう思って、この競技会に臨んだ。高校でのクラブ活動の集大成にしたかった。この競技会が終わればもう大きな大会はない。個別に選抜の大会があったとしても、田所はそれほど優秀ではない。この競技会が終わったら、勉強に専念することにしていた。
金井もたぶん田所と同じ気持ちだった。高校になってからフォームを変え、果敢に新しい状況へと自らを進ませた。金井らしい選択だった。彼は昨年決勝に残っている。
彼の実力なら今年も当然残るだろう。その美しい背面跳びを見るのが田所は好きだった。自らの練習を終えて一休みしているとき、金井の練習を見る。助走の後、体がふわりと空中に舞いそしてバーをクリアする。足のきれいな抜き方。ゆっくりと落下する身体。夕刻迫る校庭でかれの姿だけが一人空を舞う。そこには順位も入賞もない。青春の無償の行為の形象。
しかし、競技会になれば別だ。彼は今年は、優勝まではきびしくとも、2位か3位を目指すだろう。それだけのデータは出ている。村木もそれは同じだ。データ的には、決勝3位以内入れる。飛田は去年砲丸投げで優勝している。
観客は関係者だけだが、緊張感は高い。みな純粋に記録の更新を目指している。この雰囲気が田所は好きだ。結果は残酷だ。しかし、それがあまりにも歴然としているので、競技会が終わればみな安堵の表情にもどる。すべては来年、冬の間に調整してまた春から新しい目標を設定して努力する。
競技会はあっという間に進行する。村木は予選4位で決勝に進む。飛田の砲丸投げも予定通り、優勝を目指す。田所は結局決勝に残れなかった。結果は昨年とほぼ同じ。彼が努力した分だけ、他者も努力していた。決勝に残りたかったということへの落胆の思いが試技のあと悲しいくらいに強かったが今は消えた。金井の走り高跳びに心を奪われた。残りは3人、3位以内は確定している。後はだれが優勝するか。バーがあがり、金井は3回目の試技でかろうじてクリアする。優勝候補はすでにクリア。残る一人が最後の試技に挑む。
大きく息を吸って助走を始め、加速して踏み切り跳躍する。最後の左足がかすかにバーに触れる。落下。この瞬間、金井の2位が確定した。
田所は金井の方を見た。もちろん金井は田所の視線に気づかない。淡々としてウインドブレーカをとり、試技の準備に入っている。
村木の100m女子の決勝が始まる。コースがアウトの6コース。いいところだ。彼女の最後のレースかもしれない。競技会前、一度立ち話したとき、時間がないわ、と言っていた。ピアノの練習のことだった。それでも彼女は、この競技会に全力で臨んだ。練習を見ていて、それはわかった。やるからには、全力しかないわ、ピアノが犠牲になっても、この選択も私自身だから。そんなふうに言っていた。
彼女のスタート前のしぐさは自然だった。これを見るのも田所は好きだった。
スタート位置にすっと立って、両腕を下げ、両手の中指をちょっと上にそらす。そしてそのまま位置につく。一二回後ろ足を調整すると、時間が止まる。
合図と号砲。スタートからの加速が髪をなびかせる。細い体がほとんど倒れるかのようにしてゴールした。またたく間の一瞬。3位。
彼女はひざに手を当てたまま、肩で息をしている。動こうともしない。すべては終わった。髪が頬にかかっている。そこだけが静止している。どこにもなかった空間、初めて知った空間。さようなら、村木。さようなら、たったひとつのとき。
15 かがやく日
秋の好天の日曜日、町の郵便局の方に行ってみる。用事は特にない。空気が澄んで気持ちがいいし、家で今することもない。昨日は早く眠り、疲れも残っていない。こんな日は、自転車に乗って、ゆっくりと走る。風景のすべてが、自分のように疲れがとれて、なにもかもゆったりとした秋の中にある。町は静かで、人通りもない。高い空に幾すじかの淡い雲が高くある。風もない。
ずっと、思い出せる範囲でずっと、思い出してみる。秋の休日はいつもこんなふうにおだやかに自転車に乗っている。走るとわかる風を頬に感じて、きれいな空気を思い切り吸って。
あっというまに過ぎた二年半、高校生活ももうあと4ヶ月しかない。月日はたしかに過ぎていった。11月。1年のときの2年のときも多分こんなふうに秋の休日をすごしていた。するべきことはすべてやった。だから充実していた。だから早く過ぎたということではない。時間はたしかに流れていったが、それは含むべきものをすべて含んで、過ぎていったのだ。
やわらかなセーターの中に風は入ってこない。クラブももうほとんど終わった。かすかな悔いのようなおもいが一瞬浮かぶ。たしかにもっとできたかもしれない。もっと走りもっと跳ぶことができたかもしれない。もっと土の感触を知ることができたかもしれない。跳躍の姿勢を、腕の振りを、足の運びにもっと神経を集中させるべきだった。一瞬のうちにすべてが帰ってくる。あの砂にふれる一瞬。すべての成果がはっきりとわかるその一瞬。はねあがる砂、めり込む砂。やわらかく沈んでゆく体。すべてがスローモーションで今帰ってくる。そのときの助走、あのときの跳躍位置。あのときの踏み込み。見上げた空。大きくすった息。顔をたたいて、腿をたたいて、行くぞ。風景が消えすべてが消える。世界が消える。自分の歩数だけが、走る感触だけが、大地を踏むリズムだけが、見える、行くぞ。
空に舞い、腕が大きく空を切る。音が消える。そして砂、世界が戻り、ざわめきが聞こえる。試技は終わった。
跳躍は青春だった。もうそうそこへは帰らない。帰ることはできない。時間が帰らないのと同じに。
ゆうぐれの校庭が好きだった。あのすべてが茜色にそまる一瞬が好きだった。影がながく校庭にのびて、すべての動きがゆっくりになる。なぜか知らない。多分一日が終わるからだ。すべてが終わる前に一瞬のやすらぎをあたえる。だれかが、人間を超えたなにかが、それでよかったのだと、メッセージを送る。だって、それ以外に今日の一日はありようがなかった。体をほぐし、走りこみ、タイミングをはかり、跳躍のイメージを繰り返し、跳躍板をなんども確認し、砂場をきれいにし、そして跳んだ。
世界を切るために。世界の中を自分が走るために。自分はたしかにそこにいたと伝えるために。なにものでもないために。ただ跳ぶために。ただあるために。
緑陰街道を左にまがり、日好街道を北に行き、また右にまがる。古い牛乳集荷場がむかしのままにある。懐かしい風景のままに。かつて多くの人が働き、工場が稼動し、牛乳が造られヨーグルトが造られた。白衣の作業着がいつもあった。今はひっそりとしている。集荷だけはきっと行われているのだろうが、人影はみえない。小学校のころからこの風景を見てきた。ここだけは時間から切り残されている。なつかしい自分。
丘陵がみえる。ああ、そうだ。今日だったのか。丘陵は秋の光のなかでしずかにしかし燦然とかがやいている。黄金色にそまって。高い空の澄明な空気のなかに、風もなく、それでいて音楽をかなでるように。
秋の一日、たった一日、丘陵は燦然とかがやく。たった一日だけ、そのほんとうのすがたをみせる。見るまで気がつかない。きょうがその日であることを。
田所は自転車を止めて、丘陵を見る。そうだ、いつもそうだ。おまえはいつもこんなふうに、とつぜん、オレのまえにあらわれる。秋をおしえてくれるために。秋までおまえが生きてきたことをつたえるために。世界がひかりかがやいていることをつたえるために。
16 「夕べに」そして「なぜ」
村木さん、夏にポリーニのことを話してくれたけど、オレはそのとき、ほんとうはなにもわからなかった。ビートルズのミシェルなんかしか聴いてなかったから。音楽を選択したけど、机で幅跳びの歩数なんか計算してた。でも、オレに話してくれたことがうれしかった。そのことはわすれないでいる。今日手紙を書いたのは、昨日の夜、FMでバックハウスのピアノを聴いたからだ。演奏もすばらしかったけど、たしかにそうおもったけど、バックハウスの生き方に感動した。演奏会でベート-ベンの曲を演奏している途中で、具合が悪くなって、「どうか少し休ませてください」と言って、中断し、再開したとき、もうベートベンをひく力はないから、違う曲をひかせてくださいと言って、シューマンの曲を2曲ひいた。短い曲で、ひとつが「夕べに」、もうひとつが「なぜ」。それでこの演奏会は終わる。バックハウスはこの2週間後に亡くなる。すばらしい曲だった。音がとびとびになって、ひとつひとつが宙に浮かんでいるような気がした。こんな気持ちになったことはない。それを伝えたかった。いいかげんな答え方しかしなかったから。
17 ラグビー
3年の二学期から、体育の授業はまったく自由になった。好きな種目をやってよかった。田所は、ラグビーを選んだ。3年間で一通りのものはやった。体が硬くて不器用だから、マットなどの機械体操は一番だめだった。剣道は外から見ると格好いいが、内実は大変なことを知った。第一、顔がかゆくなったとき、掻こうとしたら、面が邪魔して掻けないのにはあせった。足はすり足というので忠実にやっていたら、大きな豆を作って痛くて困った。おまけに実践で剣道部の宮島とやったら、まったくもろにお面が入って、しかも後頭部に入ったから、頭がしばらくしびれるくらいに痛かった。これが剣道の打ち上げでそれ以後したことはない。柔道も格技室で行うのがなんとなく奥ゆかしくて格好よかったが、志田と対戦したのがまったくまずかった。柔道部のもさだから、体は大きいし、ぜんせん動かない。左右に移動しているうちに、足をかけられてすこーんと一瞬中に浮かんで、倒された。見事というしかない。これで柔道もやめた。とてもやってられない。他の室内競技はしない。土が好きだったから。テニスもみんなけっこうやっていたけれど、コートが校庭の隅の方にあるのがなんとなく窮屈に感じられて、結局一度もしなかった。校庭はサッカーかラグビーだったが、いつのまにか、みんなラグビーになっていた。これが結局無条件で楽しかった。田所は足が早いし、それなりに俊敏だし、校庭には陸上で慣れ親しんでいたから、自分の庭のようなものだった。それに秋から冬の空がいい。キーンと澄み切って寒く、すべてを忘れることができる。
だから三年の秋からは、体育がいちばん楽しみになった。みんなもそうだった。決していきりたつのではなく、それでいて真剣で、必死に走り、必死につかまえ、必死にスクラムを組んだ。体育着はぼろぼろになった。後ろのポケットはつかまれて取れてしまった。スクラムやつかまりでひざの部分もぼろくなった。それでも走るのは無上にたのしい。田所はやややせているので、スクラムにははいらず、もっぱらフォワードで走り続けた。何度も何度もタッチダウンした。あの感触。これも多分永遠に忘れない。
体育が始まるとき、準備運動をかねて、最初、校庭を5,6周する。ジョギングではなく真剣に走る。そのとき、最後のコーナーで先頭にいるのは、いつも田所と熊谷だ。熊谷は卓球部で足が速い。彼と最後の勝負をする。いつも田所が勝ち、熊谷が悔しがる。それが楽しかった。
あるとき、ラグビーの途中で、校庭の真ん中にいて、校舎の方を見ると、村木と諏訪さんが校庭の縁に立って、こっちを見ている。別に田所を見ているわけではない。ラグビー全体を見ているようだ。体育は2時間続きだからその途中の休み時間で、体育はそのまま続行していたのだ。二人は休み時間で出てきていたらしい。田所が手をあげて大きく振ると、わかったらしく、二人でちょっと見あって、それからなにか言ったけどそれは聞き取れなかった。口に手をあてて、もう一度伝えてくれた。がんばってねー。そうして二人は校舎の方に帰っていった。
18 最終試験
年が明けると、時間は足早に過ぎていった。教室からざわめきが消えた。相変わらず教室はきたないが、もうごみも空中を舞わなくなった。一人ひとりが個人の世界の中で勝負を始めた。そんな感じがする。金井と田所は同じ最終列に並んでいるが、その金井でさえ、ときどききりっときびしい表情を見せる。それでもすぐにいつもの表情にもどり、英語の時間の前に、田所に話しかけた。
「入試が終わったら、オレんとこに来ないか。おまえのところよりずっと都会だぜ。駅前だけはな」
田所は一度も金井のところに行ったことはない。金井ももちろん田所のところに来たことはない。金井は立山から中洋線で二つ目の志野に住んでいる。駅からは少し歩くんだと前に言っていた。
「ありがと、オレも行ってみたいな」
「おまえんとこと、たいしてかわらないけど」
金井は一年のとき、小雨の降った日に、田所が長靴をはいて学校に行ったとき、見るなりに笑った。
「おまえ、やめろよな、そんな格好、ここは山じゃねえぞ」
田所は、長靴が好きで、少し雨が降ると、前からよく長靴をはいた。まだ土の道がそこここに残っていたから、それが実用的であったのだ。高校になってから、ほとんどのものが、雨でも長靴をはいてこないことを知った。
「あたりまえだよ、そんなこと、おまえ、それで一日中いるのか」
たしかに、土足のまま教室にいるので、少し具合が悪い。
「そんな格好してたら、評判になっちゃうぞ」
「オレ、長靴が好きなんだ」
「好きでもやめろ、オレがはずかしい」
そんなことを言ってたことがあった。金井に会えてよかった。そんなことはもちろん一度も言ったことはないが、彼がいなかったら、田所の学校生活はかなり変わっていただろう。
「おまえ、京都になんで行くの?」
「新幹線で、まだ乗ったことがないから」
金井は東京で受験する。
「ようするに都落ちだな」
「いいよ、京都は、受かったら来る?」
「受かったらな」
あの独特の表情で笑う、でももうひやかしたりはしない。
みな真剣になった。来週からは高校最後の最終試験が始まる。内申は、このクラスではほとんど気にするものはいない。みな実力で受験する。推薦も多分受けない。少なくとも友達でそうした話は聞いたことがない。学校は二期制だから、十月でもう成績は確定している。気にするとしたら、欠席時数だけだ。これはみんなが少しずつ傷を持っている。適当にサボって図書館に行って勉強するのがよくあった。学校の図書館ではない。市内の市立図書館だ。秋の中ごろ、金井と二人で、午後から市立立山図書館に行って、教室に戻ってくると、まったくめずらしく担任の先生がいた。図書館に行っていました、と伝えると、そうか、それだけだった。先生は簡単な連絡のために教室に来ただけで、特にホームルームがあったわけではなかった。そんなふうに、みな適当に授業を抜けることがある。それで欠席時数だけは注意している。
それでも、最終試験には、みななにか感傷的になっている。これですべての試験が終わる。もう高校に来ない。高校が終わる。ほんとうに終わるのだ。卒業ではない。高校が終わる。あのばかげた日々が消える。すべてのこのクラスから消える。きたないゴミももう飛ばない。窓から大きな声でなにか校庭に向かって叫んだ日は来ない。最終試験ですべてが終わる。古めかしい校舎、きたない床、ついに一度も金井がそうじをしなかった日々。村木が走り、金井が跳び、田所が逆立ちをした校庭。佐藤先生がやや猫背に足早に官舎に帰っていった、長い影の夕暮れ。
さようなら、高校、さようなら、図書室、さようなら、冬のストーブ、その暖かさと静けさ。
19 雪のホーム
最終試験が終わったあと、学校は自由登校になった。みな家にこもり、最後の集中となった。田所はやや手薄であった化学と日本史に全力をあげた。数Ⅲの統計も念のため調べた。化学は複雑な有機を、日本史は近代以降をした。英語で哲学者のラッセルのエッセイを読んだ。夕方になるとみんな家路に急ぐ。自宅の居間でラジオを聴くためだ。ロンドンの冬、イギリスの冬をなんとなく連想した。ラジオによって時代が変わった。そんな時代があったのか。
学校の事務室に、頼んでおいた最後の書類をもらいにいこうとした朝、起きたら外は一面の雪だった。雪はしかし小降りになっていた。長靴をはいていこう、まさか金井に会わないだろう。長靴の中のフェルトのあたたかさがいい。オレの生き方に似ている。緑陰線から、さらに七高線のいなかだ。今日は自転車はきつい。駅まで歩いていこう。
二年の冬に濃紺のトレンチコートを立山市内で買った。長靴にこれじゃ金井でなくても笑うわけだ。どてどてしている。林を抜けるとき、雪がサーッと枝から落ちる。やっぱり長靴じゃなきゃ無理だ。晩春の林の美しさを金井にみせたいな。エゴの木に白い花が、林の中で音もなく散っている、息をのむくらい幻想的だ。そんな風景をあいつに見せたいな。オレがどんなところで育ったか、どうして長靴をはいてたか。
学校はしんとしていた。事務室はやっている。一二年生は授業中だ。書類を確認して校門を出ようとした。そこで村木にあった。村木も用事があったのだ。
「田所君も書類?」
「うん、これから?」
「そう」
「じゃ待ってるよ」
これがいくどめの出会いなのだろ、もう会わないかもしれない。初めて見た日のこと、言わなかった。
雪はもうほとんどやんでいる。見上げるとちらほらと舞って下りてくる。やっぱり雪は多いな、そうおもう。校門のあたりは雪かきがしてある。門衛所の丸い屋根に雪が積もっている。クラブでおそくなった日は、門衛所に近い通路から校門に出た。そんなことを思い出した。
「ごめん、おそくなった」
「いいよ、雪見てたから」
「こっちからよく帰ったな」
門衛所の方を指差した。
「クラブのときでしょ、私たちもあったわ」
通学路を駅に戻る。いつも歩いたところが雪でまったく新しく見える。
「去年雪降ったろ、オレたち階段教室の物理だった。そしたら休講にしてくれた」
村木はなにも言わない。
「それでみんなで雪合戦をした、売店の前のところで。ほかのクラスもやってたよ」
「クラス一緒にならなかったわね」
 いつもの農協会館。曲がれば駅だ。
「オレね、村木さんが諏訪さんと南都線から地下道に降りて来たとき見たことがあるよ、なんか話してた」
「諏訪さんはいつもそうなの」
「村木さんも話してたよ」
改札を抜けて地下道に下りると、すぐ南都線になる。
「南都線のホームに行くよ、オレまだ来ないから」
こんなことはじめてなのに。
ホームに出ると空があかるい。雪がやんだ。電車がもう来てる、ここが始発だから。
「私今リパティというピアニストを聴いてるの、素朴なのにだれにもひけない、そんなふうにひくの」
知らない名まえだ。なにもいえない。
電車に乗るときこっちをみた。窓ガラスがくもってる。
電車はゆるく右へカーブしていく。田所は手をふった。もう会わないかもしれない。田所はおもいきり手をのばしてふった。みえない村木に。
20 春近く
手紙を書こうとおもっていて、こんなにおそくなってしまってごめんなさい。三年間がすぎたなんておもえない。もっとおはなしできたかもしれないと今になっておもってる。私はきっとふつうに生きるとおもう、田所さんとはちがうとおもう。おもっていてもはなさなければつたわらない、そうおもったの。雪の日はありがとう、私、まどから見ていました、ずっと手をふっていたでしょう。
田所は、初めて村木に電話をしようとおもった。いままでそんなことは一度もなかった。いつでも会えたから。同じ世界にいた、すくなくとも同じ空間に。
電話には村木が出た。
「手紙ありがとう」それだけ言った。四月になったら会おう、とほんとうは言いたかった。でも言わなかった。それは言えなかった、自分にたいしてさえ。
四月からはきっとすべてが変わる。ことばも、思いも、時間も、世界も。
もし変わらなければ、もしほんとうに変わらないものが生まれるとしたら、会えるかもしれない。会ったらあの四月の雨の日のことをつたえよう。

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