Tuesday, 5 May 2020

To Winter RI Ko 16 Stephen William Hawking, Sergej Karcevskij, Janos Killar, MORI Shigefumi and Vsevolod Mikhajlovich Garshin 2015

16 Stephen William Hawking, Sergej Karcevskij, Janos Killar, MORI Shigefumi and Vsevolod Mikhajlovich Garshin 
16 ガルシン
日曜日の朝、電話で眼を覚ました。Iからだった。
―どうしたの、昨日来なかった? ―悪かった、ずっと眠ってたから。きのう少し熱があって、仕事の帰りに熱さましを買ってきて飲んだら、そのまま今朝まで眠ってし まった。幾晩か夜が遅かったから疲れが溜まってたのかもしれない。
―何回か電話したけど、出なかったからどうしたのかとおもって。今はどうなの?
―よく寝たけど、まだ熱があるみたいだ。
―大丈夫?
―今日は一日ゆっくりする。すこし根をつめすぎた。
―あまり無理はしないで、もう徹夜とかは無理よ。
―そんなことはしないけど、弱くなった。心配かけて、また連絡する。 まだ話したそうなIに対して、電話を切った。

体がだるい。 窓の外に眼をやると、寒そうな電車通りを霧がうすくながれている。こんな日は休みでよかった。 昨日の午後からものを食べていないが、動かないせいか、それほどの空腹は感じない。のどが渇いたので、起きて牛乳を飲んだ。す こし体がふらふらするが、もう眠る気はしないので、ソファに横になって、休むことにした。明日はどうするか、たいして休暇も取っ てないので、休むかどうか。夕方までの体調を見て考えようとおもった。

文書にKへの献辞をつけて載せたが、Web ページの About に自分の連絡先は載せていないから、もしKが見ても直接に連絡が来る ことはない。ただ、かつての友情をそこで確認してくれるかもしれない。さらにKの名まえで検索をかければ、Aのこの文書がヒット するから、Kでなくてもその周囲のものが、もしかしたらKのことを検索することでAの文書と出会うかもしれない。そんなふうにも おもった。第一、まさかとおもった同僚のSが文書を読んでいてくれた。 体がだるいので、ソファのふちに頭を乗せて、することもないまま、懸案の祈りの続きを考えていた。

Aは祈りのモデルとして鏡の世界を想定していた。実際の手が鏡に映る。奥行きもある。動かせば一緒に動く。しかし実態はない。 そして左右が反対になる。というより右手は右手なのだが、鏡の中では左手側として構造化される。上下関係はそのままだ。朝永振一 郎が描いた鏡の中の世界だ。それはよく言われることだが、これだけではそれ以上には進まない。 鏡の手前に実在の幸福がある。鏡の中にその幸福が映る。それは実在しない。手前の実在の幸福を取り外せば、鏡の中の幸福も消え る。今鏡の中に実在しない幸福があって、鑑の手前に実在の幸福がない状態を想定する。そういう状態をモデル化できないか。そんな ことを彼はしばらく前から考えていた。

虚数を使えばどうだろう。リーマン球面の座標に時間座標を加えて、それに負の記号をつければ、ミンコフスキー空間になる。時間 座標を空間座標と同じ正にとれば、次元に関してシンメトリカルな四次元球面ができる。これはホーキングが宇宙の生成に関して虚時 間を導入した発想だ。ホーキングの宇宙の始まりは、だからその底面が球になっている。  

言語に対称性は入れられないのか。そうすれば面対称で鏡の世界ができる。そして鏡の中だけに言語があるようにすれば、それを祈 りのモデルとすることができる。そんな道筋を考えた。 実数に対して虚数があるように、実言語に対して虚言語がある。祈りは虚言語で書かれているとする。実言語の中に内在する時間を 想定したように、虚言語にも内在する時間を想定する。天国に行くことは、虚言語の中で内在する時間を移動することになる。その言 語をミラー言語 mirror language と呼ぶことにする。それならば、その mirror はどこに置かれるのだろうか。 

図書館でもっともよく読んだのは、深谷賢治だった。円はやはり x 2 + y2 = 1 で認識するより、丸い図形のイメージで認識するのが 自然におもわれると書いてあった。幾何学の直感性はたしかにすばらしく普遍的だ。 深谷の本を読んでいくと、ミラー対称性 mirror symmetry が出てくる。ホッジ・ダイアモンドと呼ぶものを或る値のところに設定 し、そこで折り返すときれいなミラー対称性を得ると記されていた。Aが考える mirror language もそこで可能かもしれない。 

対称性。それはかつて言語学のCと繰り返し話した内容だ。1920年代のプラハ。雑誌 TCLP に載ったカルツェフスキイの論文、 「言語記号の非対称的二重性」。言語が保持し続けるところの、それによって言語が言語であり続けるところの、絶対的に矛盾する柔 構造と硬構造の共存。言語において二重に内在し続けるだろう永遠の矛盾。言語がかくも柔軟でかくも堅固でいられるのはなぜか、そ のほとんど絶対的に矛盾するかともおもわれる二重性をカルツェフスキイは提示した。Cがその最後の本の中でただ一人天才と称した 言語学者、セルゲイ・カルツェフスキイが残した白眉の論考。なぜこの共存が可能なのか、この二重性に対する整合的な理解は今もなお、たぶん提出されていない。 

 これに比して世界の量子化 quantization については着実な進展があった。 深谷によれば、コンツェヴィッチは1997年の論文で形式性予想を提示し、2003年の論文に至って、みずからその予想を証明 した。「ポアッソン多様体の変形量子化」。深谷は彼の本の中でその証明の概略をnRの場合に限って述べている。証明の全容は計り 知れない。

量子による空間、それももう夢ではないかもしれない。 その果てにある、有限と無限。無限を有限に閉じ込めること。 ヤーノシュ・コラールと森重文は伝える。三次元標準フロップの任意の列は有限である、と。

今フロップを一種の写像と考え、意味 を有限の列と仮定し、立体と時間で作られたこの四次元世界を平面と時間で作られた三次元世界に射影すれば、無限に生起するとおも われた四次元世界の出来事のすべてが、三次元の有限の世界に閉じこめられることになる。 そこでは、時間を含む意味を体現した平面 上の文字が、この私たちの時間を含む4次元世界を射影し閉じ込めたものとなる。

 ―それで私はどうするのか。
立って東の窓を見ると、外はこごえるような空の下に、行く人もまばらだ。さっきより一段と濃くなった厚い霧の中を、ライトを点 けた路面電車が音もなく過ぎて行く。街灯が一斉にあかりを灯している。 遠く忘れられていた祝祭がはじまる。  台所にかけられた版画から、冷えきった暗い室内に向かって、光の帯が音もなくのぼり、大輪の花火がゆらめきを残してつぎつぎに 開花してゆく。花火はガラスに映り、やがてガラスを超えて霧がながれる街路の上へとひろがってゆく。 暗く霧におおわれた空一杯に、今、花火が大きく開き、その下方を乗客も絶えた路面電車が音もなく過ぎて行く。

―なぜこんなにさびしいのか。  
ガルシン。ロシアの帝政末期を光芒のように生きて逝った魂。 「赤い花」は必死に、どうでもよい一輪の赤い花をもとめて、遂にそれを得る。 フセヴォロド・ミハイロヴィッチ・ガルシン、ああ、あなたの名まえの中にもミハイルがいる。 天使ミカエルが起ちあがる。旧約聖書ダニエル書終章のことば。
汝終りに進み行け、汝は安息に入り、日の終りに至り、起て汝の分を享ん。 暗い室内にあかりを灯す。


ヒヨドリが私に与えてくれた生きるというあかり。 どうしようか。すこしものを食べないといけない。ありあわせでごはんを食べようか。パンはたしかきのうの朝、みんな食べてし まった。あとなにが残っていただろう。 染み入ってくるような寒さの中で、ソファの脇のカーディガンに手を通す。ヒヨドリよ、おまえも丘陵で暖かにしているか。

ふりかえると版画は、すべての流動を終えて、もとのしずけさに返っていた。 窓の外はいつか霙になった。

ドアが小さくノックされる。 立て付けのわるいドアを開くと、白いビニールバッグを重そうに持って、片手にフランスパン の包みを抱えて、Iが不安そうに立っ ていた。 その短い髪に、霙が淡く光っていた。

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