17 冬が来る
―この間はありがとう。ほんとうに助かった。
S駅の地下道から地上に出ると日ざしがまぶしい。待っていたIにお礼を言った。
―どうしようと思ったんだけど、思いきって、行ってよかった。もしかして迷惑だった? Iが、きらめく光を通す木立を背にしてたずねる。
―そんなことない。言い方がいつもたりなくて。ほんとうに感謝している。
広場の向こうを、車が重なるようにゆっくりと過ぎて行く。
―もう大丈夫なの?
―すっかりよくなった。きみのおかげだ。
―そんなことないわ。
Iがうれしそうに言う。広場の二人に木漏れ日が揺れている。
たえまなく行き交う広場の無数の人々の中で、Iはたったひとりの人に伝える。
―もし元気だったら、新しくできたJ書店に行ってみない?
信号が変わって、人波がいっせいに動きだす。
―今日はほんとうはきみにお礼をするんだった。べつになにもできないけれど。
―それはいいの、わたしが自分でしたかっただけ。
Iがほほえみながら応える。
―じゃ、先に本屋に行って、それからでもいい?
―ええ、私も新しいところを見てみたいわ。
歩き出すと、歩道は、肩が触れ合うくらいに人出が多い。
―すごいね。ますます多くなる。
押されるようにして、Iは彼の腕を抱く。
―だれかが言ってたわ、この街には過去も未来もなんでもあるって。
―ほんとにそういう感じだ。
信号を待ちながら、Aは彼女に伝える。
―ここのところでね、むかしカフスボタンを買った、たぶんこの位置のはずだ。小さい店で、今みたいに信号を待っていたら眼にと まったんだ。
雑踏で声がかき消されるくらいだ。
―翡翠のカフス、ほとんど使わないのに。
―あなたはいつもそう。
それが I の告白だった。 愛する人。
―貧しくて、不遜だった。
本の重さでかたむいたカバン。中心のない、なにも見えなかった日々。
―そんなことない。
信号が変わる。
―むかしね。谷山豊って人がいたんだ。
A は声を大きくして言った。
―若くして亡くなった。婚約者もたしかまもなく亡くなった。
彼とその友人が作った予想が、フェルマー予想を解くかぎになった。
―ワ イルズという人が解いてもう十年以上になる。それで谷山の特集が雑誌に載ったことがあった。
Iはただ彼を見ている。
―そのときね、この街だった、すごくうらやましいとおもった。雑誌は買わなかったけど、買ってもしかたがないような気がした。自 分にはそのときなにもなかったから。ただ、そんなふうに生きてみたい、死ぬことじゃないよ、一度生きるならそんなふうに生きたい とほんとうにおもった。それがたぶん自分には一生できないとわかっていたから。それが、いまは谷山のように生きている。彼のよう にすごくもなんともないけど。おもいはまったく同じなんだ。
―すごいわね、ほんとうに。そんなにおもえるなんて。
新しい書店が見えてきた。
二人に今、恩寵のように冬が来る。
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