Thursday, 5 March 2020

Papa Wonderful 27 Computer. 1999

27 Computer

27 コンピュータ

 田所さんが初めて個人用のコンピュータ、すなわちパソコンを持ったのは、1980年代の後半でした。それはシャープのX1という8ビットのもので、CPUはザイログ社のZ80というものでした。OS、オペレーティング・システムはディジタル・イクィップメント社のCP/Mという8ビット用のものが使われていました。このOSはパソコンを始めたばかりの田所さんにとって、ちょうど手ごろな扱いやすさで、よくわからないなりに楽しむことができました。それはまさしく楽しむというのにふさわしく、そのコンピュータを使って実用に供するには、初心者の田所さんから見ても明らかに力不足と思われました。その代わりにこのコンピュータには、プログラミング言語の簡単なパッケージがいくつか用意されていて、それらがかなり低額で求められることでした。ですから田所さんも、このX1付属のBASICや、カタログで購入したC言語やPrologなどを使って、簡単なプログラムを作る楽しさをおぼえました。そのころは本屋さんに出かけると、きっとはやりだったのでしょう、簡単なプログラミングの本がたくさん出ていました。田所さんもそれを買ってきて、オセロゲームなどの簡単なゲームなどをいくつか作ったことをおぼえています。しかし結局それはそれだけのもので、どれも実用にまでは達しないものでしたが、コンピュータの内部を直接にのぞいているような楽しさがありました。

 時代が急激に変化していくときでした。そのことをはっきりと示す指標を田所さんは自分の経験として持っています。それは1980年代の初頭で、田所さんが結婚して間もなくのころでした。昼間働いたあと、週に二三回は夜大学へ聴講生として通っていたころです。まだワープロもパソコンも一般の人にとっては身近なものではありませんでした。しかしのちにはっきりするように、「紙に書く」文化から「キーボードへ打つ」文化へと人々の欲求が徐々に移りつつあったときだったと思われます。まだ当分は満たされない「キーボードへ打つ」欲求を実現するためだったのでしょうか、一時カナタイプライター文化とでもいうものが登場していました。結果としてその時期は決して長くは続かなかったのですが、一定の人々の支持を受けていたように思われました。たぶん京大式カードや川喜多式ブレイン・スト-ミングが社会的に認知されたあとに、その事務的処理を具体化する方法として、カナタイプライターが登場したのではなかったでしょうか。

 田所さんは京大式カードを使っていたわけではありませんが、そこにあるなにか機械的な処理に心ひかれたのでしょう。市中のタイプライター学校に通ってカナタイプの練習を始めました。学校は好きな日の好きな時間に行けばよく、教室は市中の細高いビルの五階か六階かあり、生徒はたぶん田所さんを除いて全員女性でした。教室に入るとテキストに従ってその日の練習メニューが与えられるのですが、そのあとは自分でそのメニューをこなすだけでした。それを全部終えると先生が簡単なコメントを与えてくれ、出席カードに印を押してもらい、その日が終わります。払い込んだお金で規定の回数分だけ授業を受けられる、そんなシステムでした。

 この教室で田所さんのいちばん印象に残っていることは、普通の英文やカナのタイプライターではなく、大きな和文タイプを練習している女性の姿でした。田所さんが実用からやや離れたところでゆっくりと練習しているのとは違って、和文タイプの女性は、どの人もはるかに真剣で活字を拾う大きな台に目を凝らしていました。それを専門にして生きていこうという決意のようなものを田所さんは、その姿から感じました。

 田所さんは確か規定の回数を少し残してこの教室に通うのを終えました。カナタイプの概要がもうわかったからでした。それを極めるにはもう少しまとまった時間が必要だったでしょう。田所さんには、大学での聴講がありましたので、今はそこでやめることにしました。しかし田所さんも遊びで行ったわけではありません。その当時はカナタイプに一定の将来的な実用性を感じていたのです。それはその後のワープロの急速な普及で跡形もなく消えていくのでしたが、その当時に一般の人がそうした近未来の趨勢を読み取ることはかなりむずかしいことだったでしょう。だからこそ和文タイプの人は、あんなに真剣に教室で練習していたのです。田所さんも教室に通う前に、四万円ほど出して、デパートの文房具売り場でオリベッティの瀟洒なカナタイプを購入していたのです。田所さんもやはり真剣だったのです。

 その後時代は急激に変貌します。いつのまにか新聞の広告欄からタイプライター教室の宣伝は全くなくなりました。田所さんが教室に行ってから、二三年のうちにです。たぶん学校自体も消滅したか事業の方向を変えざるを得なかったでしょう。田所さんの通った学校の宣伝も全くなくなりました。ある日田所さんは、自分が通ったあのペンシルビルに行ってみました。予想通りにというか、心配してた通りにというか、教室はすでになくなっていました。一つの感慨が田所さんのうちに残り、それはかすかに今も残っています。あんなに真剣に和文タイプを学んでいた人達はその後どのような仕事に進んだのだろうかと。学んだことは決して無駄にはならなかったでしょうが、それにしても時代の変化があまりにも急激過ぎました。歴史はいつもこのようにして変化していくのでしょうか。

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