Sunday, 8 March 2020

Papa Wonderful RI Ko 04 Hills In taking no opportunity time 1999 With Note 2020

Papa Wonderful
RI Ko
1999

04 Hills

04 丘陵

 田所さんの住む町は、丘陵の西の突端のすそ野に広がっています。さらに西のかなたには山々があおく連なっています。夕暮れに丘陵に上ると、灯がともるころの夢のような町が一望できます。その空間を、田所さんはひろびろとしていて気持いいなと思うこともありますし、それとは全く反対に、人間はなんて狭苦しい中で押し合うように生きているんだろうと思うこともあるのでした。

 田所さんは若かった十代や二十代のころ、つまり歩くエネルギーが今よりもはるかに強くあったころ、よく丘陵のいちばん上まで上り、ふだんはほんとうに静まり返っている桜の木立のある広場にまで行ってみることがありました。

 晩春の午後の、もうこれからはだれひとり訪れないひとときに、遅咲きの桜の花々が音もなく散っているのに出会うことがありました。それは田所さんにとって、幾度出会っても言いようのない不思議な経験でした。ことばで敢えて言おうとするならば、それは「できごとは一切の契機を持たないで起こり得る」というようなことでした。

 実際はそんなことではなかったでしょう。花は、周囲の風や重力やまたはなにかの微細な震動によって、きっとごく自然に散っていたのでしょう。

 しかし田所さんには、どうしてもそのようには思えませんでした。ほんとうになにごともないのに、花はただひたすら散っているように思えるのでした。

 今から思えば、それは田所さんの心の風景を映していたと言えるような気もします。青春は無契機の時間の中を無限に散り行く花々のように、完璧な費消の連続であったのかもしれません。あるいはそれを深く恐れていたと言ったほうがよいのでしょうか。

 しかし今では、もう田所さんはずっとおだやかに桜の花の散って行く風景を眺めることができるようになりました。妙さん、少し遅くなるけどあのお店で花を見て行こうよ、と言えるくらいには、生きることの充足を知ることができるようになったのかもしれません。

 以前に勝鬘経義疏という本を読んだとき、そのおしまいの方では、時間を超えて流れるもうひとつの時間のようなものの遍在について述べられていて、もしかしたら私たちの時間というものもこの地上の究極の前提条件ではないのかもしれないと思ったことがありました。

 田所さんは園芸センターで草花を見ているときの、あのおだやかでゆったりとしたひとときは、もしかしたら勝鬘経義疏に出てくる、時間を超える時間というものに近いのではないかと思ったことがありました。するとなんだかうれしい発見をしたように感じられて、いつものように妙さんに吹聴してみたくなりました。

 でもそれは考えてみれば、毎週多くの人が園芸センターで経験していることなのでした。そこで少し言い方を買えて妙さんに話しかけました。

「園芸センターは哲学的にみてもすごいところかもしれないよ」

すると夕食の支度をしている妙さんに簡単にかわされてしまいました。

「それだったら夕方のスーパーなんてもっとすごいと思うわ」


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[Note by author]
This short chapter is probably the most favourite one at the present of the story.
8 March 2020

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