47 Meaning
47 意味
マルティン・ブーバーの『我と汝・対話』という本を読んでいると猫のことが出てきます。ブーバーさんは猫が好きなんだなと、田所さんは思います。そこへいくと田所さんは犬が好きです。というよりも、犬といっしょに生活したことが比較的長かったということです。田所さんが高校生のころよく散歩をした犬はラッキーといいました。近所の犬でしたが、田所さんによくなついて、田所さんが散歩に行こうと外に出ると、すぐにわかって飛んでくるのでした。
こうして二人は林にまで散歩に行きます。秋から冬の林は明るく、上空にどんなに強い風が吹いていても、林の中はいつも静かで暖かでした。
しばらく歩いてから、日だまりのところに出ると田所さんは腰を下ろしあるいはあおむきに寝て冬の空をながめます。そのことを確かめると、犬は林の中を枯葉を飛び越えるようにしてはるか遠くへと走っていきます。そのカサカサという足音がいつか聞こえなくなり、じっとしているとまたどこからかガサガサと枯葉をかき分けて走って来る犬の足音が聞こえ、あっという間に田所さんの頭上近くを飛び越えるようにして、今度は反対の方向へ走り去っていきます
そんな楽しいひとときを田所さんは何回となくラッキーから与えてもらいました。
ですから田所さんがなにか考えようとすると、ブーバーさんの猫ではありませんが、ラッキーのような犬が登場することになるのです。
田所さんはときどき意味ということについて考えます。田所さんの中で意味というのは価値ということばと対になっています。田所さんの意味というのは、だいたい次のようなものです。
男は外に出てから思い出します。
「いけない、犬にお出かけの挨拶をしてこなかった」
男は外に出るとき、いつも犬の頭を何度かなでて、ことばをかけてから出かけてくるのです。今日はあわてていて、それを忘れました。もしかしたら犬はまだ私が自宅にいると思って、待っているかもしれません。男はここで迷います。一度家に帰れば約束の時間に間にあいそうもありません。どうするか。男は結局家に戻ることにします。なぜなら犬が男を待っているからです。正確にいえば、待っている可能性があるからです。男にとって犬の頭をなでてやることには、意味があるのです。社会的に見たら、男はそのまま出かけて行き、約束の時間に間にあった方があるいはよかったかもしれません。それが一般的にはその男についての社会的な価値なのです。でも男は個人的に意味のある行為の方を選びました。
田所さんはこの話が気に入っていて、親しい何人かに話したことがありました。その人たちは「そうですね」といって一応この男の行動を肯定してくれます。しかしだいたいはそれだけで終わってしまい、あまり気にも止めないようでした。
田所さんはこの話で、意味と価値とどちらがより重要かというようなことを言おうとしているのではありません。意味と価値とが違った領域で働くものであることを述べようとしたのです。
田所さんには、意味というものは生きているものの間でしか成り立たないように思えるのです。生きるもの同士が互いに交流しようとするとき、あるいは相手が物質であっても少なくとも交流し得る可能性があると思うとき初めて成り立つものと思われるのです。意味とは、意志を確立した二者が存在しなければ、ありえないことのように思われるのです。 これに対し、価値は「そのような価値がある」と言い、あたかも価値自身で自立しているようにみえることがあります。社会的な価値とは、社会の中で認められ多くの人があまり細かく考えなくても従うことができるものなのです。価値は生きているものすなわち人間が、人間を含めた社会全体に対して一方的に与えるものなのです。一般的にいって、時間に遅れてまでも犬の頭をなでに戻ることにはたいした価値はないとみなされるのではないでしょうか。確かにそれでよいのでしょう。みんなが犬の頭をなでに戻っていたら、電車が遅れ、事故処理が遅れ、配送が遅れたら、社会はきっと混乱するでしょう。
それでもほんの何人かは家に戻って犬の頭をなでるでしょう。そういう人が必ずいるのです。人間はなんと多彩ではありませんか。人間は社会的な価値を一端離れて、そういう行動をとることもできるのです。
そしてこうしたことの哲学的根拠は、ブーバーの『我と汝・対話』の中にすでに整然と書かれているように思われます。田所さんがここで述べた話も、この本に触発されて思い浮かんだことかもしれません。梨本医院の待合室でも何度か読んだ記憶があります。
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