42 TAN Sitong
42 譚嗣同
今度新しく設けられましたこの市民講座は、お聞きになるのは市民の方々でいらっしゃいますが、講師もできるだけ市民の方にお願いするというもので、その最初を私が行うことになりましたのは、力が足りないことはもう明白ですが、その方向には深く賛同いたしましたのでそのままお引き受けすることとなりました。学業を専門といたしません私にお話しできますことは、たいへん限られたものでしかありませんが、もしそこにみなさんの御参考になるものがあるとすれば、それは三十代に仕事をしながら、大学に聴講に出かけ、それをなんとかこなし、しかも楽しく数年間続けることができたことではないかと思っております。
どうしてそういう生活を選んだかということですが、私はそのとき初めてはっきりとした意志を持って自分から勉強をしたいと思ったからです。それ以前にもたしかに少しは勉強しました。しかし本当に自分が何を勉強したいのかがわかるようになりましたのは、実際に社会の中に出て、その中で、現在自分が持っているものがどのようなものであり、自分に欠けているものがどのようなものであるのかを、はっきりと認識できたときでした。私の場合、歴史というものが前からたいへん気になっていましたが、しかしそれをどのように学んでいけばよいのか、はっきりいってその方法がよくわからなかったのです。
歴史は普通過去のものと考えられています。存在した事実の集積と考えられています。時間の経過とともに次第に集積したものと考えられています。ただ私がそこで気になったことは、その集積がたとえば食卓に重ねられたホットケーキのように、実際に積み重なっているわけではないことです。何年のあとに何が起こったと記録されますが、それは頭の中でそう重なっていると考えるだけで、実際にそのように見えるわけではありません。積み重なっている地層のようなものは、普通にはなかなか見ることはできないと思います。
歴史年表というものがありますが、そのように順番をなして、事実が並んでいるのを実際に見ることはできないのです。過去は過去という一様なぼーっとしたものの中に、混ぜこぜになっているわけです。それでは困るから時間の順序に配列し、並べることをする。バラの花が咲いたあとに朝顔が咲き出したことを、頭の中で思い返すのです。あるいはメモしておいたノートによって確認するわけです。つまり歴史とは、時間という棚に事実という品物が順序よくきれいに配置されていると頭の中で空想している状態なのです。もし棚が壊れれば、品物は下に落ちて、みんなごちゃ混ぜになってしまいます。
私が気になったのは、この時間という棚のことでした。この棚とはいったい何なのかというのが、私の問いだったのです。
古い日記を見ます。そうすると何年何月何日に、何があった、その次の日には何があったと、書かれています。その順序が年表になります。しかしよく考えて見ると、年表は時間に基づいた事実の配列です。事実の配列は果して歴史でしょうか。
少し具体化しましょう。私たちは誰も大切な思い出を持っています。大人ならば、こどものときの思い出、学生時代の思い出、初めて恋をしたときの思い出。それらはふつう追憶というかたちで、自由自在に時間を前後して思い浮かばせることができます。決して年表順に思い浮かべるものではありません。でもそれが自然なかたちの個人の歴史だとは思いませんか。それらは一見ごちゃ混ぜになっています。でも全くめちゃめちゃでもありません。話そうと思えば順番に話せます。逆に時間をさかのぼることもできます。楽しかったことだけを拾い出すこともできます。それが個人の歴史だと思うのです。しかもその歴史は絶対に戻ることができません。タイムマシンは存在しないのです。あのときこうすればよかったとは思います。でもそこにふたたび立ち戻ることはできません。歴史は立ち戻ることができないのです。当然とお思いでしょうか。
中国の近代に譚嗣同という人がいました。政治運動をしてつかまり、結局死刑になりました。そういう人です。この人は「仁学」という本を書きました。その本を現代の私が読みます。そして考えるのです。この人はもしかしたら死刑にならずにすんだのではないかと。しかし事実の集積はその方向へは進まず、彼は死刑になります。逃げられる可能性があったとされる。しかし当然のことですが、そこに立ち戻ることはできません。歴史は立ち戻ることができないのです。そうであるならば、歴史的に検討するということはどういうことになるのでしょうか。
譚嗣同は歴史を生きました。それはだれも認めるでしょう。しかし譚嗣同の生をあとの時代から考えるとはどういうことでしょうか。譚嗣同が経験しない後の時代から譚嗣同そのものを考えることは、もしかしたらどこかに根本的な矛盾を含んでいないでしょうか。それが私の疑問だったのです。いいかえるならば、立ち戻ることのできない歴史を立ち戻って考えることとは何かというのが、私の問いだったのです。これは私にとって一つの大きな難問でした。
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