Papa Wonderful 45 Mono-occurrence and free-confirmation
45 Mono-occurrence and free-confirmation
45 一回性と自由性
お手紙をいただきありがとうございました。私が講座でお話しした生きる歴史と書かれた歴史について、もう少し詳しい説明が欲しいとのこと、私自身十分に説明できていないことを感じております。ただ私が申し上げていますことは,決して特殊なことではなく、ごく普通のことを再確認している面が強いと思います。ただそれがまだ十分に私の中でことばとしてよく熟していないのだと思います。
私が講座で申し上げたことは、今までの一般的な歴史の見方に特別な異議申立てをしているのではなく、歴史を自分の生き方に即して考えてみたかっただけなのです。ですから生きる歴史については歴史ということばを使わずに、日々の生活というような簡単なことばの方がよかったかもしれません。しかし私があえて生きる歴史ということばを使ったのは,そうした日々の生活も一瞬後に歴史の中に組み入れられ、書かれる歴史として人の認識の対象になるからです。
簡明に分類するならば、生きる歴史は生活であり、書かれる歴史は認識である、とすることもできるでしょう。生活は一回的であり、認識は反復的です。生活は未知に向って進むのであり、認識は既知のことを中心に振り返りながら考えるのです。やや不正確かもしれませんが、生きる歴史すなわち生活は微分的であり、書かれる歴史すなわち認識は積分的であると言えるかもしれません。似てはいても、二つはやはりどこかで峻別しなければならないと思います。書かれる歴史は書斎の中でも可能ですが、生きる歴史はまさしく生活を生きねばありえないのです。幾多の変革に際して、人は傷ついてきましたが、認識することよって書斎で傷つくことはまれでしょう。
しかし私はここで生きる歴史と書かれる歴史の優劣を述べようとしているのではありません。そうではなくて私が指摘したいのはただ一点のみです。講座でも申し上げましたように、書かれる歴史は時間を自由に移動するということを通してはじめて可能になるわけですが、それが同時に書かれる歴史の限界ともなっているということなのです。
時間を自由に移動できるということは,認識の自由さによるものです。この認識の自由さが,生きる歴史が決して見ることができないものを必然的に見てしまうのです。ここにひとつの変革がなされました。変革は時間を経て、ある結果を招来します。生きる歴史は結果を予想はしても、書かれる歴史のような確定した事実を持ってはいません。生きる歴史は未知に面していますが、書かれる歴史は必然の世界を眺望します。
譚嗣同は未知に直面し、そこにおいて自らの意志で死んでいきましたが、後世の人は譚嗣同の死を既知のこととして、仮説を立て、類推し、結論するでしょう。そこに、譚嗣同その人が死に向うときの未知は存在しません。
ですから認識の自由さは、認識そのものが持つ必然的な性質ですが,それはそのまま歴史を認識するときの決定的な人工性にもなっているのです。書かれる歴史は見えすぎるのです。生きる歴史は適度に暗いのです。明かるすぎる電灯は不自然ですし、ときには人の目を痛めます。時間を自由に行き来できるのは、人がすばらしい道具を用いていることになりますが、人そのものが歩くのとは本質的に違う状態なのです。
あとはあなたの若さの柔軟さで、私のことばと論理の不備を超えて行ってください。
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