Papa Wonderful 43 On the concept of freedom in history
43 On the concept of freedom in history
43 歴史における自由の観念について
歴史を立ち戻って考えることから生ずる難問を解決する方法はないのでしょうか。
確認するならば,歴史は確かに存在します。譚嗣同は生き、そして亡くなりました。私が問題にするのはその歴史について考えることなのです。簡単に言うならば、ある一つの歴史にその後の歴史を付加して考えることなのです。不正確かもしれませんが、こんなふうにもたとえられます。ひとつの生を生きた人がいます。その人に生涯付き添ってその死を見届けた人がいます。この二人は同一の人でしょうか。普通ならば当然違うと答えるでしょう。単純化すればこの二人の関係に近いことなのです。
歴史を生きて死んでいった譚嗣同について、その死後から考えることとはいったいどういう行為なのでしょうか。過ぎ去った歴史を可能な限り再現しようとすることでしょうか。それならば再現するという行為は本質的にどのようなものなのでしょうか。
歴史は一方向に流れます。しかし再現するという行為は、その時間の流れを一度は逆行させる行為を含みます。生者はいまだ死という収束点を持ちませんが、死という収束点は、その前のすべての生をみずから逆行して確定させています。
順行する歴史そのものに矛盾はありません。しかし歴史を考えることは、根本的に矛盾を含みます。なぜならそこにはどうしても時間の逆行が前提されてしまうからです。時間の順行と逆行との、この厳然として存在する根源的な対立を救済する方法はないでしょうか。
私はここで、「歴史における自由」という概念を導入します。歴史には、一方向の歴史すなわち「生きる歴史」と、二方向の歴史すなわち「考える歴史」が存在するのです。二方向の歴史「考える歴史」とは、一方向の歴史「生きる歴史」に、時間を自由に行き来する想像上の方向を加えることです。これが「歴史における自由」という概念なのです。すなわちこの自由とは、自然的な現象ではありません。時間を自由に行き来するのですから、超自然的なものです。この超自然的な時間を導入することなく、歴史を考えることはたぶん不可能でしょう。歴史を考えることは決して自然的な行為ではないのです。歴史を考えるとき、人は超自然的な状態を内に含まざるを得ず、従って理性を超えるものと直面せざるを得ないのです。人があたかも自らの思い出を追想するように。小林秀雄さんがかつて歴史は思い出すことだと述べました。それが私のうちにある歴史に対するつたない思いと似たものであるのかどうか、今はつまびらかにできませんが、私のここでの論の中心は、あくまでも「自由に行き来する」という概念にあるのです。
簡単に言うならば、ここで言う「自由」とは過去と現在とを自由に行き来する人間の思惟上の行為のことです。この自由の延長は必然的に未来へと向うはずです。すなわち未来の歴史が、歴史を考えることの必然的な結果として出来するのです。今何が生起しているか。現在は存在しない何かが、未来にはどのように顕現するのか。たとえていうならば、競馬の勝ち馬を予想する中に、歴史の本質が存在するのです。生きて楽しむために、生のつかの間の輝きを味わうために、人は競馬という未来の歴史に臨むのです。譚嗣同が理不尽に生きたように。
歴史とは、見えない未来に向って、ときには理不尽に、ときには超自然的に生きることともつながっています。その中心に自由が存在するのです。
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