Saturday, 16 August 2025

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9.1969
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もし君が合格したら

昭和44年1969年4月、私は和光大学人文学部文学科三年に無事編入学することができた。編入学応募書類を持って、多分2月のある日に和光を初めて訪れたときは、緊張していたのか、和光坂の付近は、当時はまだ小田急線との間に冬の水田が、細長く道に沿って広がっていたであろうに、その風景の記憶はまったく欠落している。ただ和光坂を上るところから、ああ、いい位置に建っている大学だなとおもったことをおぼえている。私は東京の西郊、狭山丘陵の麓で生まれ、育った。丘陵は親しいというより、私の体に沁み込んでいる。大学の一室で、私は書類上の、特に取得科目と取得単位数が和光の編入学条件に合致するかどうかが気になっていた。外語は一年次から専門科目である中国語が突出して多く、私は日本文学専修を望んでいたが、それに類した単位は一般教養の「文学」以外まったく取得していなかった。

担当してくださったのは、のちに職業教育等の分野で主導的な学績を示される山崎昌甫先生の若き日のお姿だった。このとき面談してくださった山崎先生の温かさは、不安でいっぱいだった私の心をほんとうに優しく包んでくださった。私は先生に、「日本文学関係の専門科目はなにひとつ取得していませんので、文学科の場合、二年からの編入になるでしょうか」と事前に考えていたことをお伝えした。先生はこれに対して、「文学科の二年生は定員が一杯になっているので、今年度の編入学の募集は行なわないのです」とおっしゃった。「ただ三年は定員に空きがあるので募集します。もし応募するなら、三年になるとおもいます」と続けられて、私の持参した単位取得表を手に取って点検してくださった。私はそのとき、日本文学関係がまったく未取得で、一挙に三年へ編入することはほとんど不可能だろうと、そのときおもった。しかし単位取得表を点検された先生のご返事に、私は本当に安堵した。先生は「単位取得の状況は和光と違いますが、総取得単位数は条件を満たしていますし、確かに和光は一年次から文学関係の専門科目の取得が入っていますが、あなたの場合は、中国語の専門科目の取得が多いので、それを読み返れば、和光二年修了時を満たすでしょう。」と私を安心させるように、穏やかに優しく説明してくださった。

私がなぜ和光をめざしたのか等の個人的な状況には一切触れず、「受験資格は三年編入で大丈夫です」と励ますようにお話ししてくださった。なんという優しい先生なのだろうと感じたそのおもいは、半世紀を過ぎた今もまったく変わらず、むしろより強くなって私の心に残り続けている。私が和光を卒業した1971年3月から、はるかのちの1990年代に、Internet による情報公開が通常となったとき、和光大学の Home Page に掲載されていた学生通信のバックナンバーによって、山崎先生が、和光大学設立準備時に法的なことも含む複雑な業務を準備職員の中心となって行っていたことを知った。そうした多忙の日々において一編入希望学生にかくも細やかで優しいお話ができる先生に、深い敬愛の念を抱き続けてきた。私はこの年1969年に、和光以外の編入学の選択肢をまったく持っていなかった。今おもえば、もしだめだったらどうしたのだろうかとおもうが、この年1969年の正月に朝日新聞に新しい大学としてのいくつかの大学の一つとして和光が載っていたときに、どういう規模で、どんな先生がおられるのか等の条件を一切考えることなく、私は和光を選んでいた。

私の町に住む高校の大先輩で八十歳を超えられても研究を続けられている、日本近代史が専門で、のちに高校学校長になられた神山先生が、川崎庸之先生の著作集のことなどのことを、先生の御自宅で話題とされたとき、和光の川崎庸之先生と私との出会いを、「運命的だったね」、とおっしゃられたことがあった。私はそれまでそうしたことをまったくおもわずにいたが、そうか、運命的だったのかと今更ながらおもったが、和光への編入学も、やはり運命的だったのかもしれない。老年になると、フランスの哲学者ガブリエル・マルセルがかつて述べたように「みずからの姿のすべてが遠い風景になったとき」、そうしたことがいくつかあったことに、あらためて気づくのであろうか。

和光についてはもう一つ、大きな転機があった。教員勤務が八年目となった1978年、私は勤務二校目の都立青梅東高校の三年の担任として卒業生を送り出すと同時に、1979年4月には私も新しい方向をめざそうとおもうようになり、夜の定時制へ転勤し、昼間は修士課程等なんらかの新しい勉強を再開したい希望を織り込んで、この年に転勤願いを提出していた。しかし1979年2月になっても、定時制への転勤の見通しがなく、私は通常の全日制への転勤の準備を行ない、すでに一つの都立高校の面接を受けていた。その最終的な受諾の面接に行く当日、私が玄関で靴を履こうとしていたとき電話が鳴り、受話器を取ると、学校長から定時制転勤の空きができたので応募するかとの確認電話であった。私はその場で応諾し、府中市にある都立農業高校への面接に行くこととなり、そこへの転勤が数日後すみやかに決定した。もしこの日電話がなかったら、私は全日制への転勤となり、新しい昼間の勉学の希望は当面不可能となっていたであろう。

しかし1979年2月末頃のその時期は大学はすでに年度末に入っており、そのときからではもう大学での修士課程等への応募は難しくなっていた。ところが私が高校教員でかつ和光の卒業生であったために、当時私のところには毎年、和光の新しい大学案内が送られてきていた。それをあらためて開くと、専攻科への受験申し込みがまだ可能なようだった。そこには専攻科の受験申込用紙は入っていなかったので、私は普通の大学受験の申込書に、たしか専攻科の受験申込とはっきりと手書きして、和光に書類を送ったとおもう。もしだめだったら定時制には移れるのだから、また来年新しく方向を考えようとおもっていた。幸いにその申し込み用紙で、和光は私の専攻科受験を認めてくださり、1979年4月、試験を受けて、私は専攻科に入ることができた。

その頃の私は、もし修士課程に入るなら、現在までの高等学校国語科教員の履歴から、国語学あるいは国語史ならば応募が可能だろうかなどと、漠然の考えていた。そこからならば、のちに言語一般へ向かうことができるかもしれないなどと考えていたのだとおもう。しかし年度末の選択の中では最終的に和光が残り、私はふたたび、かつて学んだ人文学部で人文学専攻科生として受験に臨むこととなった。そのとき思い浮かんだのが、川崎庸之先生の仏教史を通して、学部在籍中は五山文学のことを少し調べただけで終わった日本仏教の歴史を通して、最低限でも古代日本の漢籍を少しは読めるようになるかもしれないと、短い時間の中で真剣にみずからの当面の研究対象を考えることとなった。しかし卒業後すでに八年を過ぎた中で、事前に川崎先生にご連絡を取ることはためらわれ、そうした連絡を一切行わないまま、私は試験に臨んだ。

教室で英語読解のテストがあり、その後口頭試問が別室で行われた。先生はお二人で、文学科で日本中近世が御専門の荒木繁先生ともうお一人はお名前を存じ上げない先生だった。荒木先生が中心となって試問され、最後に川崎先生にはご連絡していますか、と問われたとき、まだご連絡していません、とだけお答えした。通常はやはりそうすべきであったのかと、おもった。幸いに無事合格した後、川崎先生にお電話でご連絡しご指導をお願いしたことが、その後 、専攻科生・研究生として七年間の長期にわたる先生のもとでの再勉強の始まりとなった。もしすみやかに定時制への転勤が決定していたら、あるいは私は合否を別として、まだ修士課程のなかった当時の和光ではなく、他大学への修士受験の方向をめざしていたかもしれない。しかし事実はこのように進んだ。それも一つの運命的なことであっただろうか。

高校二年の学年末の春近き中で、ルイ・エモンの『白き処女地』の読後を通して、稚拙ではあったが、宗教的な決定論と自由意志論の選択において、困難は続くとしても私は自由意志論の方に進むであろうという結論を出して、倫理社会の学年末レポートを提出したときから現在に至るまで、私の根本姿勢はそれほどの激変はなかったとおもう。遠いむかし、父との会話の中で、父がふと、運命的なことはあるとおもうよと私に告げたとき、若い私は不満であったが、その後八十二歳で亡くなるまで、私のすべての行動に対して、父はつねに「おまえの好きなように生きなさい」と私を支援し続けてくれた。今は深い感謝をもって、さらには、運命的なこともあるかもしれないね、ということばを添えて、父に伝えたいおもいは尽きない。

1969年春の編入学に戻ろう。山崎先生の優しい励ましもあって、私は編入学試験を受けることとなった。ここで私は文学科の宮崎健三先生にお会いすることになった。教室の筆記試験で英語読解があったことは記憶しているが、自由作文あるいは課題作文があったかどかうかはもうおぼえていない。これが済むと場所を移して、研究棟の宮崎健三先生の研究室に一人で伺ったとおもう。そこで面接試験を受けることとなった。この日の文学科への三年編入学試験は私一人であったようにおもう。研究棟は静まりかえっていた。

先生の研究室での試問の終わり近くで、宮崎先生は私に好きな詩人について尋ねられた。私はその内の一人に、東京都立青梅図書館で見て衝撃を受けた、21歳であった若き日の谷川俊太郎の詩集『二十億光年の孤独』を挙げたが、それ以外に誰を挙げたかは今はもうおぼえていない。もしかしたらその中の一人に、西脇順三郎を挙げたかもしれない。氏の『旅人かえらず』はそれまでの私の詩のイメージを大きく変えるとともに、詩の内容に小平など多摩地域の雰囲気が随所に感じられ、繰り返し読んでいた。萩原朔太郎や三好達治も好きだったが、その名を答えたかどうかは、おぼえていない。すると先生は最後に私に対してこう話された。「君の筆記試験がどうだったか知らないが、もし合格したら、私の家に来なさい。」

編入学試験合格後、まだ和光に登校する前の多分3月中に、私は宮崎先生の御自宅に伺った。どうしてそれが可能となったのか今も不思議だが、多分先生が面接試験のあと、電話番号を教えてくださったとしか考えられない。そうでなければ、先生の中野の御自宅の場所や、訪問日の決定などできなかったはずだ。先生のお家は黒塗りの塀に囲まれて立派であり、先生の試験時の初印象がややいかめしい感じだったので、私はきっとおどおどしていたかもしれない。先生は私を座敷に招じてくださり、いろいろなお話をしてくださった。そのこまかな内容の一部しか今はおぼえていないが、その一つに、先生ご自身が現在取り組んでいらしゃる研究について話された。「今、伊良子清白について調べている」と。私も詩人のその名前だけは知っていたが、その詩を読んだことはまったくなかったので、お聴きするだけだった。

先生は清白について、お話してくださったが、悲しいことに今はまったく憶い出せない。『大辞林』三省堂・1988年によれば、伊良子清白1877-1946は「幻想的神秘的かつ精妙な象徴詩人として「文庫」派の中心的存在であった。詩集「孔雀船」」と記載されている。編入学後、私は先生の「近現代詩」講読を受講したが、先生が日本の代表的な象徴詩人である蒲原有明1876-1952や薄田泣菫1887-1945を高く評価しておられたことを知ったが、伊良子清白について特別な言及はなさらなったとおもう。深く蔵しておられたのだろうか。

編入学後、私は先生が清廉でいつも慎重なご判断をなさり、教務部長をなさるほどでいらっしゃったのに、それゆえにどうして、「もし受かったら私の家に来なさい」とおっしゃたのだろうか。それがずっと不思議だった。家内とむかしの話をするとき、いつもそのことが出てきた。家内も、そんなことがあるのね、とそのたびに不思議がっていた。それにどうして、日本古典文学の素養等まったく持たなかった私に、明治時代の詩人伊良子清白を研究しておられるなどと伝えてくださったのだろうか。はるか後年になって、若年だった私自身を、青春に出会った一人の他者のように、かすかな遠景のようにみるようになってから、少しだけ先生の御気持が理解できるようになった。

これは外語の教授でいらした、詩人・仏文研究者であった安東次男先生のお宅をアポイントなしで訪問したときも、先生は私をあたたかく迎えてくださったこととも通ずるとおもうが、私が非学で、才うすき若者であっても、それなりに学ぶことに真剣で、文学をあまり読んでいないようだが詩が好きな、こころざしだけはなんとか持っているらしい田舎の青年を、寛大に処遇してくださったのではなかったか、そんなふうにおもうようになった。高校時代の親友だった金子は私に面と向かって、おまえそれでも物理をやるのか、と言い切ったが、私は本来の楽天をどこかに持ち続けたまま、多分大人になった。語学も好きだが、たいした実力もなく、数学にもあこがれたが、現代数学をかすめるだけで、大人になった。詩が好きそうだが、詩もあまり書けそうでもない。そんな人間であったことは確かだった。

しかしそのどこかにいつも一条の真剣さがあったのではないか。他者としての私は、そんな貧しい青年であった。初めて赴任した立川市に所在する都立北多摩高校で、美術部の生徒が、大部分の先生の似顔絵と足先までの姿を細密であるがどこかコミカルに描いて、二階の職員室近くの通路に展示したことがあった。30枚近くあったとおもう。美術の先生で、未熟な私をよく助けてくださった斎藤先生が、「田中さん、田中さん、おもしろいから、通路にきてごらんよ」と誘ってくださった。リンゴを落としている物理の先生、教卓を押したまま、廊下まで出て行ってしまう先生、梅干しのような酸っぱい顔をなさった先生等、多彩であった。ところが当然だがみんな足を地面につけている。その中で私はただ一人、スーパーマンのように空を飛んでいた。斎藤先生はひとりでおもしろがって「これが田中さんなんだな」とか言ってひやかした。そんな日々もあった。

だから外語の安東先生も、和光の宮崎先生も、紙人形のようにたよりない、しかしどこか憎めない私の背中を支えてくださったのではなかったか。俳句を教えてくださった佐伯先生もそうしてくださった。いまはただ感謝するばかりで、なにもお返しできなかった。話を戻そう。宮崎先生は、お話が一段落すると、私をお家の二階に案内してくださった。広い二階のほぼ全面が先生の書庫となっていた。書棚が幾筋も並び、そのいずれにも書籍がびっしりと収まっていた。先生はその中から一冊の詩集を取り出して私に示してくださった。それはなんと、中原中也が自筆署名して宮崎先生に送った献呈本であった。先生の御宅を辞去するとき、先生はご自身が書かれた古典文法の御本を私にくださった。そして、専門家になるように、と励ましのことばを添えてくださった。私はこうして和光での勉学を続けることとなった。

二年間はまたたくまに過ぎ、卒業間近となった1971年早春の2月頃、私は宮崎先生からお葉書をいただいた。内容はほぼ以下のようなものであった。「おめでとう、田中君の北多摩高校への着任が決まった。昨日校長から私のところに連絡があった。」というものであった。翌日私は宮崎先生の研究室に伺い、お礼を述べた。先生はほほえみながら私に伝えてくださった。「北多摩の校長が私の大学の後輩で、私のところに田中君の照会の連絡があったので、推薦しておいたから、もう大丈夫だ」と。私はこうして、宮崎先生の面接を受けて入学し、先生の推薦をもって大学を卒業することとなった。これもやはり、運命的なものであったのだろうか。

卒業後も私は友人二人とともに、年の初めに幾度か年始に伺った。ある年の年始のときは、通していただいたお座敷で先生が天井近くを指さして、「今年は久しぶりに一陽来復のお札をいただきに行ったので、早速南の方角に張ったよ」と楽しそうに話してくださった。教員になった酒井君と山本君がいつも一緒だった。この年始は、みなが結婚や子育てなどであわただしくなるころまで続いたとおもう。先生はいつも優しくおだやかに私たちを歓迎してくださった。先生はまた、和光大学文学科日本文学専修の卒業生たちが発案し成立した、先生方と卒業者との同窓会兼研究会となった和光大学日本文学会の初代会長をお引き受けくださった。常任委員会が行われた中野サンプラザでの会議終了後、中野サンロードの喫茶店で、来会してくださった先生方と様々なお話できたのが私たち常任委員のたのしみでもあった。宮崎先生、池田先生、佐伯先生、杉山先生、武田先生等がご一緒のことが多く、まるで小さな同窓会のようであった。私たちはまだ二十代の終わり近くでみな若く、いまでは限りなく懐かしい。

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