5.
1966
Small university on the hill
丘の上の大学
私は1969年、開学から4年目に編入学試験受験の資格確認のために和光坂を上ったのが初めてのため、1966年開学当初の和光大学を知らない。初めて訪れた、1969年の多分2月も緊張していたのか、大学までの道筋の風景をまったくおぼえていない。編入学後の初夏、和光坂を下りてくると、左手に細長く伸びる若い緑の水田が光り、ツバメがその上空を飛び交い、ときに稲光が走る、あの風景が忘れられない。丘の麓に残された谷戸の風景だった。和光大学が所在する丘は多摩丘陵の一支脈であろうが、その地理的状況については、和光大学経済学部の村木定雄先生がご専門である地理学の見地から、昭和56年1981年に和光大学経済学部より刊行された『マルサス・リカードとその時代』白桃書房において「和光大学創立十五周年を迎えての随想」と題する論考として詳細に記述しておられる。私は学部が異なったこともあり、先生の講座は受講することを逸してしまったことが悔やまれる。
先生は長身でいらしたので遠くからでも先生とすぐに確認でき、私が研究生となっていた1980年代のある日の夕刻、ご指導を受けていた川崎庸之先生とご一緒して、通学バスから降りて鶴川駅へ向かう途中、先方に村木先生がおられるのを知ったとき、川崎先生はほほえみながら、「村木先生はご自身のペースがあるので、お声をかけないことにしているんだ」とおっしゃったことが忘れられない。村木先生の朴訥とした風貌がなつかしい。村木先生のご論考から、一部を抜粋して以下に記す。
「多摩丘陵の南東部の一角、町田市金井と川崎市多摩区岡上にまたがる谷戸(やと)に、丘陵の斜面を人工的に平坦化して、そこに大学の校舎並びに運動場が建設されたのである。谷戸または谷(やと)というのは、浸食された狭長な支谷をさす多摩丘陵の呼称で、(中略)大学周辺の丘陵は標高90m前後のようである。」
「創立当時は、この道路と線路との間の狭長な地域は、殆ど全部が一毛作水田の谷戸田であった。この水田を耕作していた農家に聴くと、ここの水田は反当収量8俵のよい田で、夏の気温と水温が高いので、時には毒蛇の蝮(まむし)も見かけた。(中略)この水田の一部に蒲(がま)が自生して、通学の目を楽しませることもあった。」
「道路の東側は、道路下に沿う小さな渓流を隔てて、比較的急な丘陵の斜面となり、創立当時のその斜面は、殆ど全部が多摩丘陵に共通の広葉樹を主とする雑木林か草地であった。」
「初春の候には、大学の研究室棟の南東にある丘陵の森から、鶯の鳴く声が聞こえたものであった。」
(『マルサス・リカードとその時代』287頁―288頁)
私は和光への受験資格確認のために事前に電話をしたとおもうのだが、そのことも今では詳細を完全に失念している。ただ確認に訪れた当日、対応してくださった山崎昌甫(やまざきしょうほ)先生との出会いは、深い印象をもって忘れることができない。1968年に私は東京外国語大学中国語科二年に在籍していたが、1968年から1969年春にかけては、いわゆる大学紛争によって多くの大学が不正規な状態に置かれていた。外語は大学が学生によって封鎖され、正門は閉じられていた。私はその脇を通って編入学手続きのために学内に入った。キャンパスは森閑としていた。校舎の前の芝生で、私は一人の友人と出会った。
「田中、大丈夫か」と心配してくれて、「中に入ってみるか」と、誘ってくれた。向かって右へ歩いたので、アジアアフリカ言語研究所であったとおもう。低階の一研究室の内部を見せてくれた。がらんとした室内の壁面に書棚だけが目についた。学生はだれもいなかった。そのとき彼はふいに「おれ今結核なんだ。パスを飲んでいる」と私に伝えた。彼とはその後、一度も会うことはなかった。無事回復して、私と同じように元気になったことを希がっている。この日、大学事務室も閉鎖されていて、私は必要な書類等を申請できなかったとおもう。成績証明書や在籍証明書等をその後どのように入手したのか今はまったくおぼえていない。ただすべての書類が整った後、中国語科の主任の長谷川寛先生のご自宅をお尋ねして、最終的に私の和光への受験がおこなえることとなった。
先生は静かに私の今後の進路変更の希望を聴いてくださったあと、ペンを手に取られ、「小野先生への紹介状を書いておこうか」と、私がまったく予期することもなかった配慮をしてくださった。先生の名刺の裏に、私のことを記して、先生のお名前の下に捺印をするとき、「この印はね、毛沢東の印を彫った人が彫ってくれたんだよ」、と楽しそうに話しながら押印してくださった。先生が白水社から1974年に上梓された『標準中国語会話』は現在も版を継ぎ、名著とされている。私も長年愛用している。私はクラスが違ったため、先生の作文の授業を受けることはなかった。
先生は心から中国語を愛し、作文がもっとも好きだと話されていた。毎日の作文の結果について、君は最近打率が下がったねと、たのしそうにクラスの人に伝えることがあったという。2年後、私が和光を卒業することが間近となったある日、私は八王子のくまざわ書店に寄ったとき、ふと目にした一冊で、先生がすでに亡くなられていたことを知った。外語退官後、中国語専攻を持つ大学で、新たな教鞭をとられていた。私は先生に、和光を無事卒業致しますとのご報告をお伝えすることができなかった。すべての中国語科の学生から敬愛されていた先生の逸話は以下に尽きるとおもわれる。学生集会で先生方が窮地に立たされる中で、先生はひとり、「学生の話す口調を即座に中国語に訳すのは難しいもんだね」と、脳裏で中国語作文に取り組まれていたという逸話であった。思想や考え方の違いを超えて、中国語科のみながこの逸話に笑みを送った、いかにも先生らしいと。先生はそうした方でいらした。
私は外語二年時に、原因不明の高血圧と蛋白尿によって、入退院と検査そして関連した小さな手術を2回行っており、1969年12月にはほぼ1か月間、精密検査のために、世田谷にある国立大蔵病院に入院することになった。それまで入院と通院を行っていた病院で主治医の先生が、あなたも症状がなんに依るか不明では不安でしょう、もし精密検査を受けてみたいなら、紹介状を書くから受診してみますか、と私の今後を案じてくださり、先生が旧知の慶応大学病院の先生を紹介してくださった。主治医でいらした先生のこの処置に、私は今も深く感謝している。
こうして私は初めて慶応大学病院を受診し、紹介してくださった先生にお会いした。当日の診察では細かな病状を確認することはできないとのご判断で、先生はわざわざ休日に、静まり返った大学の医学部研究室で眼底撮影等のより細かな検査を行ってくださった。研究室の流しのブリキが錆びていたのが記憶に残っている。その日の結果を見て先生は、「精密な判断のためには、入院してさらに検査を受けた方がよいとおもう」と、伝えてくださった。私はすぐに「お願い致します」とお答えしたところ、先生は「慶応は混みあっているので、私が非常勤で行っている国立大蔵病院はどうだろうか」とお話しくださり、1968年12月初めに私は世田谷にあった国立大蔵病院に入院した。
絶対安静3日を含むほぼ1か月を、私は心臓から内臓全体への種々の精密検査を行ってで過ごした。すべての検査が終了した12月末に、先生はお正月は自宅がいいでしょうねと言ってくださり、私は12月27日か28日に自宅に戻った。年が明け、1969年1月に病院で精密検査の結果をお聞きした。「症状は確かに今も続いているが、それを引き起こす主要な原因は今のところ確認できない。従って、今後も定期的に通院しながら症状の経過を観察するのがよいとおもうが、現状では特段心配することはないとおもう、普通の生活をしていてよいでしょう」とおっしゃってくださった。不安を抱えながら過ごすのはきつかったので、このとき私は本当に安堵した。その後定期検診は夏と冬の二回、数年後には春先に一回通院し、各種の検査を受け続けた。そして私が30歳になる1977年頃、先生は、「あなたはもうほぼ健康になった、これからは通院も検査も必要はない、薬も飲まなくてよい」とおっしゃってくださった。
先生は名医であった。ある年の通院時に、新しい薬を処方されたことがあったとき、先生は「この薬は副作用が出ることがある、もしなにか気づいたことがあったら、次回通院時に連絡してほしい」と、おっしゃった。月日を経て、次の通院時に「このような症状がありました」とお伝えすると、先生はその場ですぐ、「それではこの薬はやめましょう」と判断された。患者である私のことばに対して、先生はつねに簡潔にしかも力強く応対してくださった。今でも私は、私の質問に対する先生の説明を詳細におぼえていることが一件ある。
和光卒業を控えた早春、私の高校勤務が確定したとき先生にお尋ねした。「先生、私の体は高校勤務に耐えられるでしょうか」。そうするとこのとき先生は、手元のメモ用紙にゆるやかな下降カーブを書き、「田中君、人は二十歳を過ぎたら、その機能はみなだれでも緩やかに下降してゆくんだよ、だからそのカーブをいかに緩やかにするかが大切なんだ、君の体は少し血圧が高いという後遺症を残したかもしれないが、今ではもうほぼ正常に戻っている、だから経過観察は必要だが、安心して勤務しなさい」とはっきりと励ますようにおっしゃってくださった。
1969年1月初めの検査結果を受けて、私は外語一年時秋から考えていた他大学への転学を決めたが、中国語を中心とした専攻を一年から行うやや特殊な外語から、普通の文学部へ転学する道はそれほど広くはなかった。ある朝新聞を見ると、新設大学の状況を伝える記事が目に留まった。その中の一つに和光大学があった。人文学部があり日本文学を専攻できる、多分それだけを確認すると、私は可能ならばこの大学へ転学したいと心に決めていた。外語の場合もそうであったが、私はこうした選択のとき、実地見学をしたり、情報を集めたりすることはほとんど無かった。それが私の生き方であり、生涯そうした形で過ごしてきた。
和光大学はいかにも新しかった。しかし編入学後、雨が降ると樋で雨を受けきれなくて、雨水が溢れるような状況はまだ知らなかった。食堂のコンクリートの床が凸凹していて、100円ラーメンの汁が溢れそうになったことが幾度かあった。それでもこの大学には、ことばではとうてい表現できない、清新ななにかが満ちていた。私はそれをつねに肌で感ずることとなった。丘の上の小さな大学は、その後、私にとって一つの奇蹟となった。
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