Friday, 6 May 2022

Encounter 1969-1986

 Memory


Encounter 

1969-1986 

Dedicated to 

a small university on the hill

 

 

TANAKA Akio

Sekinan Library

Tokyo


2021

The 2 Edition 2022




邂逅

1969年-1986年

丘の上の小さな大学に


田中章男

石南文庫

東京


2021年

第2版 2022年





Contents



Title

Frontispiece

Preface

Gratitude

Beginning

Looking back

Before

1967-1976

After

Afterword

Reference 

From Author


表題

口絵

謝辞

初めに

振り返れば

以前

1967年ー1976年

以後

あとがき

参考文献

著者から





Frontispiece



 

『悪魔のしっぽ-フランスの昔話ー』 編者 華埜井香澄・牧野文子  

1972年3月1日 第1版 三修社

© 三修社



 

『新フランス語文法』 著者 華埜井香澄・作田清・井上範夫・住谷在昶 

1977年 4月1日 初版 駿河台出版社 

© 駿河台出版社





Preface



Preface

本論考は37歳で早逝した仏文学者、華埜井香澄(はなのい・かずみ)先生 1939-1976 が、東京都町田市に所在する和光大学に、開学2年目の1967年、仏文学専任講師として着任し1976年に逝去されるまでの研究と教授について、現在たどり得る同時期の資料を中心として推察しようとするものである。

私は1969年4月に、東京外国語大学中国語科から和光大学人文学部文学科三年に編入学し、1971年3月に卒業した和光大学の第2回卒業生の一人であり、今から振り返れば、この「小さな実験大学」の草創期のまさしくきらめくような日々の中で、たった8歳年上の先生に出会い、現在に至るまで深い追憶と影響を受け続けているその意味を、1947年生で2020年の今夏で73歳となった今、あらためて私自身の試行錯誤の連続であった青春の日々を問い直しながら、確認しようとするものでもあった。

深い影響を受けながら、私は先生と直接お話しすることは一度もなかった。私は先生が持たれたフランス語初級の多数いた受講者の一人であり、授業の中で私の音読が良かったということを先生がほめてくださったということを、先生の研究室に係わっていた友人から聴いたことがほとんど唯一のつながりであった。

昭和45年1970年に先生は文学科専門科目フランス文学として、ヴァレリーの『テスト氏』を選び、同年の講義要目で、先生が「『テスト氏』をめぐってヴァレリーの文学の方法を探る」と書かれておられたのを読み、心から受講したいとおもいながらも、「極めて難解なフランス語であるが原則としてテキストは原文のものを用いる。」と後続して書かれておられ、当時の私のフランス語の能力では不可能と判断し、受講を断念したことをありありとおぼえている。このことは今も私の青春の大きな悔恨のひとつとして、消えることはない。

私は昭和54年1979年4月に、人文学部人文学専攻の専攻科生として再び大学に戻り、平安朝漢文学を学び始め、翌年昭和55年1980年3月に修了、同年4月から昭和61年1986年3月までは6年間人文学部研究生として、主に平安朝の仏教典籍を学んだ。しかし大学に通い始めてまもなく、私は華埜井先生の姿をまったく見ることがなく、直接伝えられたことではなかったが、先生がすでに逝去なさっていたことを知った。

1980年代の和光大学は、開学まもなくの頃よりもよりはるかにきれいになり、より多くの学生が活発に学び行動していた。それは本当に素晴らしく誇らしくおもわれたが、私の中には静かな喪失感が広がっていた。もはやあの端正な先生の姿をキャンパスに見ることはなく、その講義に列席することもできないことを事実として知ったからであった。

1986年3月に私は研究生を終了し、同年4月に東京都立川市に石南文庫 Sekinan Library を設立し、研究生以来の大正新脩大蔵経を読み続けるかたわら、甲骨文・金文を中心とした古代漢語の中から文字の本質を探究する方向を探ることとなった。それが一つの明確なPaperとなったのは、2003年春に書き上げた, On Time Property Inherent in Characters、「 漢字に内在する時間性について」、が嚆矢となった。 

2003年の夏以降、私は文字から言語の基底をなすとおもわれるLanguage Universals 言語の普遍性の中に、みずからの主題を見い出し、ひたすらに Paper および関連した Essay を書き続ける日々が続くこととなった。

しかし、言語の根底は果てしなく広く深く、言語使用が人間の行為である以上、いつかは人間とはなにかという問いが必然となる中で、私はみずからの主題を求めて彷徨していた青春の日々の意味を考えることとなった。その中で、私の青春とかさなった近代という不思議な時代の重みとなつかしさがふたたびみずからに帰ってくるようになった。私にとって近代とは、フランスのブレーズ・パスカルからシモーヌ・ヴェーユの哲学的思惟であり、ランボー, ヴェルレ―ヌそしてラフォルグに至るフランスの象徴詩の一群であった。私には難解であった批評にヴァレリーがいて、昭和45年1970年の和光大学人文学部文学科の専門科目で華埜井先生がヴァレリーの『テスト氏』を講義していたことが、昨日のように浮かび上がってきた。

私にとっての青春の中に、こうして華埜井先生が確固として定位し、私はあらためて先生の所在をみずからに問う中で、先生の御実家に連絡をとることを考えてGoogle で検索し、お電話をすることを選んだ。昨年2019年の秋になっていた。

その日のお電話はお留守だったので、私は「もし間違いでしたらお許しください。私はかつて華埜井香澄先生からフランス語の初級を受講致しましたものです。先生のことをお伺い致したくお電話致しました」とメッセージを残したところ、その日の夕刻に、華埜井究氏からお電話をいただき、「華埜井香澄は確かに私の兄で、今年で亡くなって45年となります。胃癌で亡くなる末期は、当時の医療の状況から随分苦しかったようです」とのお話しを受けました。私はことばを失い、またお電話を致してもよろしいでしょうかとお伝えして、電話を終えました。

華埜井先生のことを書きしるすことは、私の中で、いつかひとつの責務のようなおもいとなり、できるならば当時の確実な資料に基づくことを考え、その後華埜井究氏からは貴重なお手紙をいただく中で、多くの機関・図書館等の方々のご理解とご援助によって貴重な資料が少しずつ集積し、 ここまで書き続けることができたことへの感慨は深く、心より感謝申し上げます。

末尾となりますが、本論考を書きしるす契機を決定づけてくださった、華埜井先生の実弟でいらしゃる華埜井究氏に深く御礼を申し述べます。ご兄弟が青春の日々に交わした会話が、香澄先生の和光大学での研究と教授の根底に深く存することを、お手紙・お電話を通してお伝えいただきましたことが、この論考のすべての始まりでした。


ON TIME PROPERT INHERENT IN CHARACTERS

東京

2020年12月24日

田中章男





Gratitude



Gratitude

謝辞

本論考を作成するにあたり、多くの方々よりご支援とご協力をいただきました。

深く御礼を申し上げます。

実弟でいらっしゃる華埜井究氏には、一昨年2019年に突然お電話致しましたことから始まり、日々ご多忙の中で、その後懇切なお手紙をお送りしてくださいました。また私の細かな質問に対して、華埜井様と香澄先生との青春の日々の貴重な会話等をお伝えしてくださいました。それらの一言一言が、香澄先生の著作と和光大学での講義に深く反映していることをしばしば実感致しました。本論考に対する私の構想がひとつの確実な具体性を伴って浮かび上がってまいりましたのは、ひとえに華埜井究氏の一昨年からのお電話とお手紙の賜物と感じております。あわせて未熟な私の未知の論考の作成に対して、あたたかな励ましのおことばをいただきました。ここに深く御礼を申し上げます。

和光大学教学支援室の皆様は、ほぼ半世紀前となります、華埜井先生の講義等の実態を示す、当時の講義要目を確認するという困難なお仕事をお願い致しましたところ、こころよくお引き受け下さり、残存するそのすべてを複写してくださいました。また私にはまったく未見の、和光大学の新しい資料まであわせてご送付くださいました。改めて御礼を申し上げます。このの二つの和光大学の根本資料によって、1960年代から1970年代の和光大学において、開学二年目の1967年から勤務された華埜井先生の研究と教授の概要と先生の大学に臨む姿が、明瞭となってまいりました。ありがとうございます。

和光大学附属梅根記念図書・情報館の職員の皆様は、私のたび重なる細かな質問に対して、子細な調査と点検をなさってくださり、その結果を複写を含む封書およびメールで、幾度もご連絡してくださいました。本来の業務を超えた私事のお願いに対して、貴重なお時間を労されましたことに深くおわび申し上げ、また厚く御礼を申し上げます。論考に対するあたたかな励ましをいただきましたことも忘れられません。

私が現在までに確認しています、華埜井香澄先生の著書は二冊ですが、いずれもほぼ半世紀前の刊行で現在はいずれも絶版となっており、お願いしました諸図書館の Reference や Amazon 等からも、今ではほぼ希少な貴重書に類し、その現物の確認がなかなかできませんでした。もしかしたら出版元に残存していることがあるかもしれないという淡い期待をもって出版社二社にお電話したところ、二社ともに、かつて出版したことは記録されているが、すでに絶版のため在庫がありませんとのご返事でした。私のそのときの失意もあったのかもしれませんが、電話口でことばを継いでくださり、念のため一応倉庫等を調べてみますと面倒なお仕事を引き受けてくださいましたところ、二社ともに絶版後の実物が現存していることを確認してくださり、当時の販売価格で郵送してくださいました。これは本当にうれしいことでした。担当の皆様、ありがとうございました。


『悪魔のしっぽ-フランスの昔話ー』 編者 華埜井香澄・牧野文子 

 1972年3月1日 第1版 三修社

『新フランス語文法』 著者 華埜井香澄・作田清・井上範夫・住谷在昶

 1977年 4月1日 初版 駿河台出版社

華埜井先生の二冊の著書は、このように現在ではともに稀覯本に属し、実見が困難となっています。私はその表装だけでもお伝えしたいとおもい、三修社および駿河台出版社に本論考の Frontispiece 口絵として掲載致したき旨を連絡致しましたところ、二社ともに掲載の許諾に応じてくださいました。ここに Copy Right Mark © を記載して、本論考の巻頭に表示できました。厚く御礼を申し上げます。

また、編入学から卒業に至る節目節目で、常に私を見守っていてくださった国文学の宮崎健三先生の著作につきまして、各種の Reference をもってしましても未確定であった事項について、 ご多忙の中で精査し正確な情報を提供してくださいました、ゆまに書房出版部に深く御礼を申し上げます。 

華埜井先生のご専門でいらした仏文学研究につきましては、私の知見は極めて乏しく、委細におきまして、名古屋大学文学部フランス語フランス文学第2、筑波大学附属図書館および日仏会館図書室にご相談致しましたところ、折り返し丁重なお電話およびメールを頂戴し、本論考の基盤を整えることができました。ご多忙の中、心より感謝申し上げます。


最後となりますが、華埜井先生の著書・論文・随想およびそれらの関連事項等の細かな状況確認につきまして、多くの方々が、私の申し出をこまやかに確認してくださった上で、私の予想を超える細部に至るまで、調査および追跡をおこない、お電話およびメールで連絡してくださいました。

敬称は略させていただきますが、 列記して厚く御礼を申し上げます。

皆様のご理解とご支援がなければ、内容が半世紀前に遡る本論考は執筆できませんでした。

ありがとうございます。



秋田県立金足農業高等学校

朝日新聞お客様オフィス

NHK ふれあいセンター放送

国立国会図書館関西館

三修社 

三省堂

駿河台出版社

筑波大学附属図書館

東京都立中央図書館

東京都立多摩図書館

名古屋大学附属図書館

名古屋大学文学部フランス語フランス文学第2

日仏会館図書室

日本キリスト教団出版局

ゆまに書房

和光大学企画室

和光大学教学支援室

和光大学附属梅根記念図書・情報館


東京

2021年3月14日

田中章男



 追記

本論考の 「12.1966-1977 Paper, essay and two books of Hananoi Kazumi」において言及した、三省堂から1984年に刊行された熊野正平先生編纂の『熊野中国語大辞典』について書き添えたい。


本書の刊行に至るまでの経緯は既に本文において簡述したが、1985年11月3日に朝日新聞朝刊に掲載された三省堂による本書の広告文が簡明な中に委細を尽くしているため、本論考への再掲を果たしたく同社に申し出たところ、許諾していただきここに厚く御礼を申し述べます。

その広告文にもある通り、本書は1955年の編纂開始から1984年の刊行に至るまで実に30年を要し、先生ご自身は1982年に刊行を目前にして没せられた。

私は熊野先生のご生涯と本書の刊行について、一橋大学で同僚でいらした中国哲学の西順蔵先生より群馬の霧積温泉に宿泊した折りに伺った。1985年の3月であった。私は帰京後、和光大学生協の書籍部に注文したが、同年7月3日にその新装版を購入した領収書が本書の奥付に挟んであった。

私が日付にこだわるのは、本書の発行日等が係わるからである。本書の限定特装版が発行されたのは、1984年10月10日で、なにげなくおもわれるかもしれないが、この日は少なくとも私が住む東京西郊の町等では、十日夜(とおかんや)の日で、この日はむかし、夜子供たちが藁筒(わらづつ)を持って「とおかんや、とおかんや」と唱えながら地面をたたきながら歩いた日で稲の収穫祭であり、同時に地面下のモグラ除けの意味も有していた。

私が所持している新装版は1985年7月1日の発行であるが、この版の末尾の「あとがきに代えて」が同年4月8日に書かれている。この日は灌仏会(かんぶつえ)、釈迦誕生の日である。

本書の広告が掲載されたのは、1985年11月3日、文化の日であった。

この書の刊行に尽力された三省堂は、収穫と誕生さらに文化継承の意を込めて先生をしのばれたと、私は理解している。

学問を愛し、書籍とその保存さらにその精査を愛し、書籍の刊行を愛する方々によって、歴史が静かに深く継承されてきたことに、私は今あらためてその末端にかかわった一人として、深甚の感謝を伝えたいとおもう。

東京

2021年3月25日


追記 2

和光大学初代文学科長であった近藤忠義先生が、秋田県立金足農業高等学校の校歌を作詞されていたことを知ったのは、同校が甲子園で準優勝された2018年の夏であった。大会終了後、私は同校にメールを送り、作詞者について質問致し、そのご返事で和光の近藤先生であったことを確認した。作詞依頼等の詳細は今では不明とのことであったが、私はその詞の雄渾さが、近藤先生からいただいていたお葉書の筆致と極めて近いことを直感的に感じ、懐かしさを禁じ得なかった。


先生はその優しいお人柄で深く敬愛され、先生の日本文学史の講座は多分当時日本文学を専修したほとんどの学生が受講していたとおもわれる。そして先生の論文からは、厳しく強靭な精神の営みが学問の進展を支えておられたことを垣間見ることができた。


先生は戦後、日本文学協会の会長として歴史社会学派を主導し、多くの若き研究者と学生を支え続けられた。その先生のお姿が金足農業高等学校の歌詞にまごうことなく映し出されている。どんなに困難であっても未来へ向かって大地を拓き続ける若人への永遠の讃歌を先生は残された。私は今、和光が第四の青春であるとおっしゃった先生のお姿と重ねて、そうおもう。 

本論考の「8. 1967 Clean」において、秋田県立金足農業高等学校の Home Page からの校歌転載を許諾くだされた同校に、深く感謝申し上げる。 

東京

2021年4月15日 




Beginning



Beginning

初めに

このささやかな論考は、1967年3月に大学院仏文学専攻博士課程を修了した若き仏文学者、華埜井香澄先生が同年4月に、前年1966年4月に東京都町田市に開学した和光大学に仏文学専任講師として着任し、大学草創期の多忙の日々の中で研究と教授を行ないながら、1976年4月に37歳の若さで早逝されたその事績の一端を、あたうる限り当時の資料に基づきながら再現したいとおもい、書きしるすものである。

華埜井香澄(はなのい・かずみ)先生は、昭和14年1939年1月22日、愛知県加茂郡松平村に専光寺住職第14世若院としてお生まれになり、昭和36年1961年に名古屋大学を卒業、昭和39年1964年に東京教育大学大学院仏文専攻修士課程を修了、昭和42年1967年に同大学院仏文専攻博士課程を修了し、同年4月に和光大月仏文学専任講師として着任され、昭和46年1971年4月に助教授となられた。研究と教授の進展を嘱望されるなか、昭和51年1976年4月26日に胃癌により37歳の若さで早逝された。逝去後和光大学より教授の称号が贈られた。

先生が和光大学で過ごされた日々からすでに半世紀が過ぎようとする現在において、その事績の一端であっても、可能な限り推測を避けて確認しようとすることは、昭和22年1947年生のすでに古希を過ぎた私にとっては、決して容易なことではなかった。先生と私は、生年でわずかに8歳の違いに過ぎない。しかし半世紀を過ぎようとする今、先生への追慕のおもいは、私自身の青春の日々とかさなり深くなっている。

華埜井先生が私に与えてくださったことの意味は、私自身の過去を振り返ることによってのみ、いわば遠近を伴った一枚の絵画のように明確になってくるような気がする。先生の存在は、私自身ののフランス語あるいはフランス近代の象徴詩との出会い以降の、たぶん一つの具現化した頂点のようなものであったのかもしれない。

私は昭和42年1967年に東京外国語大学中国語科に入学し、昭和44年1969年に開学4年目の丘の上の小さな大学、和光大学人文学部文学科三年に編入学した。この一つの変化が大きく言えば私の生涯に与えた影響は、限りなく深く大きい。それについてはこの論考の中で、自然に述べられることになるとおもう。しかしその変化の予兆は、日本の近代批評を確立した河上徹太郎の謂いに従えば、私にとってはそれは高校時代の滑空から始まっていたようにおもわれる。

河上徹太郎は多分最初の著作となる、青山二郎の美しい版画風の表紙の『自然と純粋』の中で、滑空は長かったが、それは飛び立つのに十分な準備となった、と述べておられた。私も、そう言い切ることができたならばと、今はおもう。




Looking Back

0.

2020 

Sworn friends



0.

2020

Sworn friends

2020年

盟友

山本吉左右先生は、和光大学開学の年1966年に文学科日本文学専任講師として着任され、華埜井香澄先生は、開学の翌年1967年に文学科仏文学専任講師として着任された。

山本先生は1935年のお生まれで、華埜井先生は1939年のお生まれであったから、華埜井先生は 山本先生より4歳年下であった。

私が今、こうしてお二人の先生の着任を並記してしるしたのは、大学の草創期に、お二人がともに若い専任講師として文学科において特講および講読をお二人で一緒におこなってゆくことを数年にわたって続けてこられたことに、開学から半世紀を過ぎたいま、深い意義があったと思うに至ったからである。

現在確認できる、当時の文学科の講義要目によると、お二人が共同して講義なさった講座は以下のようであった。

昭和45年度

特講 石川淳を中心として 教科書 石川淳著『文学大概』

昭和46年度

特講 石川淳を中心として 教科書 石川淳著『文学大概』

昭和48年度

日文講読 Aー9 石川淳 「具体的なテキストは未定」

これらの特講と講読で主題とした石川淳は、現代日本文学の高峰の一人であったことはだれもが認めることとおもわれるが、私が特別に注目したことは、日本の中世文学を専門とされた山本先生と、フランスの近代文学を専門とされた華埜井先生が、一年間共同して講座を進めるときに、どこに共通の基盤を置き、どこにお二人の専門領域を置かれたかであった。

石川淳の小説において、日本の古代から近世に至る文化芸術が縦横に駆使されていたことは、代表作のひとつとされる『紫苑物語』などでも明瞭であり、その領域に対して山本先生が独自の見解を示されたことは想像に難くない。一方、石川淳がフランス文学をみずからの中心のひとつとしていたことも確かであり、その領域に対しては、華埜井先生の専攻が深く係わっていたことも確かであろう。

お二人が共通の教科書として指定された石川淳の著書『文学大概』の目次を見ると、以下のような題目が目に留まる。

日本の文化芸術に関しては、

「俳諧初心」

「江戸人の発想法について」

「能の新作について」

「祈禱と祝詞と散文」

などがあり、一方フランス文学については

「ヴァレリイ」

「マラルメ」

「バルザック」

「スタンダル」

「アナトール・フランス」

の題目が並んでいる。

この中では、「スタンダル」については、華埜先生は『人文学部紀要 1966年 和光大学』において、「スタンダールと宗教」の表題で研究論文を発表されている。

二人以上で展開する共同講座は、現在ではそれほど珍しいものではないとおもわれるが、私が山本先生と華埜井先生の共同講座において注目するのは、若い二先生が大学の草創期の文学科において託したであろう、何らかの期待あるいは希望が、この特講と講読に深く反映していたからではなかったかと、感ずるからである。

文学とはなにか、という大きな主題のもとに、これらの講座に託した、さらに深く存在したであろうお二人のそれぞれの中心主題がなんであったのかが、私の現在の大きな関心となっている。

山本先生は、その後、平凡社の「東洋文庫」叢書から『説教節』『幸若舞 Ⅰ』『幸若舞 Ⅱ』『幸若舞 Ⅲ』等の中世文学における口承文芸の嚆矢となる専門書を相次いで刊行されている。

華埜井先生はフランスの民話を編集した編著『悪魔のしっぽ』1972年を三修社から刊行された。

これらの刊行物を見ると、お二人の共通の基盤がかすかにながら、瞥見されるようにおもわれる。それは、後述することにもなるとおもうが、歴史や思想を動かす大きなダイナミズムでありながら、歴史記述としては極めて残りにくい、ほとんど無名の人々の文学的・芸術的な確固とした達成を、草創期の大学に集った若き学生たちに伝えたかったのではなかったとおもうのである。

もしかしたらそれは現在から振り返るときの Looking back upon the days、私自身の思い込みであるのかもしれないが、「小さな実験大学」を標榜した和光大学に着任されたお二人にとっては、私が考える以上のもっと大きな希望と夢をこの若き大学に託されていたかもしれないとおもうことは、きわめて自然であったのではないだろうか。

山本先生は昭和63年1988 年に平凡社から刊行した『くつわの音がざざめいて』の「あとがき」の末尾で、次のように書きしるしておられる。

「いろんな意味で私の仕事を手伝って下さった和光大学の卒業生や在学生の方々に感謝申し上げたく思う。」

あるとき私はWeb上で、山本先生についての追憶を読み、この上なくまじめであった山本先生が学生が聴く音楽を知りたくて一緒にレコード店に行き、レコードまで買って帰り、翌日は微妙な顔をなさっていたかもしれないと想像したという卒業生のことばには、私の記憶の中にある山本先生のお姿をまざまざと彷彿とさせるものがあった。先生にとって、このエピソードは決して小さなことではなく、そうしたことの一つ一つが先生が和光に託したひとつの希望ではなかったかと、今はしみじみとおもう。

華埜井先生の弟さんでいらっしゃる華埜井究氏の今年2020年8月のお手紙によると、先生が夏に帰省されたときに、究氏に編著『悪魔のしっぽ―フランスの昔話ー』に関連した一話をお話しされたことがあったと、私に書き送ってくださった。その要約はほぼ以下のようであった。

「視力検査で検査員が村人に文字を徐々大きくしてゆき、ついに一番大きな文字を指して「これなら分かりますよね」、それでも村人は「分かりません」と言う。その村人は文盲だった。」

華埜井先生が1972年にまとめられた『悪魔のしっぽ―フランスの昔話ー』CONTES ET LEGENDES DE FRANCE の巻頭の「この本を読まれる諸君に」の中で、先生は以下のように書かれている。

「初級文法を一通り終わった人には比較的簡単に読めて、しかも夢の世界に遊ぶような楽しさを味わってもらえると思います。」

山本先生と華埜井先生が学生に託した希望あるいは夢が、こうした卒業生のことばや華埜井究氏のお手紙から、今の私には切々と伝わってくる。

お二人はその生涯を、和光大学でのみ研究と教授に専心され、華埜井先生は1976年に37歳で、山本先生は2007年に72歳で逝去された。二人の先生は和光大学で邂逅した盟友であったと、私は今、半世紀前を振り返っておもう。




Before


1.

1963 

Theoretical physics



1.

1963

Theoretical physics

1963年

理論物理学

1963年4月、私は東京都立川市にある東京都立立川高等学校に入学した。

高校は旧国鉄立川駅を南口でおり、徒歩10分のところにあり、1901年明治34年、府立二中として創立された古い学校であった。立川駅は都心から西約30㎞にあり、八王子駅とともに、多摩地域の中心となる駅である。

入学式当日は、満開の桜が校門の外にまで美しく散っていたことを、昨日ののようにおぼえている。校門の左側に、むかし使われていた門衛所があり、中央玄関の手前、向かって右側に大正天皇来臨時のお手植えの松があった。校内にはいくつかの古い建物が残っていて、そのいくつかは私の在学中もまだ実際に使われていた。

門衛所は校門の左側にあり丸屋根の古風な建物で、門衛さんはもちろん今はいなかったが、夜は定時制課程もあったので、夕方になると明かりが灯り、中に夜の守衛さんがいることがよくあった。サッカー部に入った私も帰るときは、守衛さんにさよならを言った。

1学年400名で、男子のみであった旧制中学の名残りとおもわれるが、男子300名・女子100名であった。私は一年と三年は男子クラス、二年の時のみ男女クラスだった。土足のままの教室は、コールタールの匂いのする黒ずんだ木製の床の古い電車のようであった。入学後間もない放課後、男子のみで教室と廊下を清掃したことがあった。すると事務室から女性の職員が飛んで来て、皆さんは何をしているんですかと、驚いたような表情をみせたので、私たちはそれで、ああこの学校は掃除をしなくてもいいんだなと確認し、ほとんどのものが、多分それ以後一度も掃除をしなかったのではなかったかとおもう。三年のときの親友、金子に至っては、まったく一度も掃除をしたことがなかったと、へへへと笑いながら私に言った。

三年間で私がもっとも楽しかったのは、大学受験で大変であったはずなのに、三年のときだった。三年になって初めて一緒のクラスになった金子と二人で、教室の一番後ろの廊下側に最も近い、出入りでうるさい席で一年を過ごした。なぜそうなったのか、今は仔細を思い出せないが、もしかしたら、静かな良い席は自然にうまって、あまりそういうことを気にしなかった金子と私が残りの席にすわることになったのかもしれなかった。しかしそのおかげで、まるで弥次喜多道中のような、自由で楽しい一年となった。私たちの後ろには四角いゴミ箱があって、前の方にいるものが、特に、使った数学の計算用紙を座席から空中を経て私たちの後ろのごみ箱に投げるので、かなりの数が箱にはいらず、そのあたり一面に散ることになった。それがひどくなっても、だれも始末しないので、しかたなく私がゴミ箱に入れて捨てに行った。金子はもちろん一度も行かなかった。

丘陵と林と畑がまだ七、八割ほどを占めていた人口2万ほどの東京の西北端に近い小さな町に育った私は、朝、駅まで自転車で行くことが多かったが、雨の日は徒歩もあり、林の中の道で足裾が濡れるので、長靴を履いてゆくことがあった。そうすると教室で、金子に「田中、その恰好だけはやめてくれよな、こっちが恥ずかしくなる」とよく言われた。確かに、校舎の中で一日中どたどたと歩いているのは、強雨のときでもほとんどいなかった。そんな私だった。

金子は数学が得意だった。私が難問とする問題を、彼は確実に解いて私に伝えた。私がほぼ対等であったのは、多分英語だけだった。彼はいつも、くっつけるように右横の机にいて、「田中、千円札持ってるか」と言った。「持ってるわけないよ」と答えると、「そうか、俺なら透かしの部分で解けるんだけどな」と私をちゃかした。

私たちG組ははっきりと限定されていた訳ではないが、数Ⅲ、物理・化学、日本史・世界史が授業科目となっていたので、多くが理数系志望であった。金子は化学を志望し、私は物理を志望していた。理論物理学だった。

私は、一年秋頃から理論物理学への強いあこがれを持つようになっていた。私が最もあこがれていたのは、朝永振一郎先生だった。先生の「帯独日記」をいつ読んだのか、今ははっきりと確認できないが、ドイツに滞在しながら、多くの著名な物理学者や俊秀とともに新しい理論物理学の構築を目指していた、その姿に魅了されていた。

1965年秋、朝永先生のノーベル物理学賞受賞が報じられた翌朝、始業前のひととき、私たちG 組では、その話題が金子と私の席に近い後ろの黒板のあたりでおしゃべりとなった。クラスの一人が、おれ、先生と親しい人を知っているんだ、と嬉しそうに言っていたことを今もおぼえている。

はるかに後年、私が文字に内在する時間を主題としていたとき、朝永先生のノーベル賞受賞の一つの核となった超多時間理論を整理する必要を感じ、西島・ゲルマン理論で知られる西島和彦先生の論考を参考として、シュレディンガーからディラックを経て朝永に至る超多時間理論の数学としての厳密な道筋を理解できたときは、高校以来の長い宿題を解き終えたような安堵感をおぼえた。西島先生はこの論考を雑誌に発表したのち、まもなく亡くなられたことを新聞で知った。先生の絶筆に近いものであったとおもう。私は西島先生の学恩を感ずる一人となった。先生のこのときの論考の表題は「ディラックと場の量子論」『数理科学』2007年9月号 15頁―20頁 サイエンス社 2007年、であった。

そうした私が京都大学理学部を強く志望したのは自然だった。しかしG組の中で京都を志望していたのは、多分私一人だった。京都は私にとっては厳しい選択であったが、在学中変わることはなかった。1966年3月、私は初めて乗る東海道新幹線で京都に向かった。その頃折に触れて少しずつ読んでいた、筑摩書房版野上素一訳のダンテの『神曲』一冊を携えていた。

試験の結果、金子は東大理Ⅱに無事合格したが、私は京大理学部20名に不合格だった。京都大学は当時、高校経由で、試験の採点結果を教えてくれていたので、しばらくしてから送付してもらった。結果的にはもう少しであったが、今おもえば、私の当時の実力では、もし入っていたとしても、理論物理に進むのは苦しかったであろう。ただ得点上は他のいくつかの学部では、合格可能であったことも知った。こうして私の高校生活は終わった。

「おまえの所とたいして変わらないけどな」と誘ってくれた金子の家に、高校卒業後も幾度か訪ねた。多摩丘陵のふもとの坂道は、夏になると夾竹桃の紅の花が美しかった。彼は大学を終えると、希望していた化学系の研究者となった。私の方は長い Winding Road を経て、ようやく追及する主題とその方法を見い出し、「おまえ、まだそんなことやってるのか」と言われるだろうが、久しぶりに彼と再会したいとおもったとき、彼はすでに他界していた。50代のなかばだった。私はかけがえのない、生涯の友を失った。


TOMONAGA'S SUPER MULTI-TIME THEORY

RESTING ELBPWS NEARLY PRAYER



2.

1964 

Faith and  Freedom



2.

1964

Faith and Freedom

1964年 

信仰と自由

1964年の冬頃、東京都立川市にある東京都立立川高等学校に通っていた私は、国鉄立川駅南口近くにあった五十嵐書店で、一冊のフランス語学習書を買った。朝倉季雄が著した白水社発行の『朝倉初級フランス語』であった。二年の冬休みの頃だったとおもう。

当時立川市には、たしか五つの書店があった。商店街としてはより古くからあったと思われる南口に、五十嵐書店とオリオン書房があり、第二次大戦後、アメリカ軍の進駐などを契機として発展したとおもわれる北口には、伊勢丹、のちには高島屋となる立川銀座デパート、中武デパートの三つの百貨店があり、立川書房、マルカク堂、天馬堂があった。このうち天馬堂は駅の南北をつなぐ地下通路の入口付近にあった古書店であった。

五十嵐書店は高校の通学路にあったので、必要があるときは、高校からの帰りに寄るのに便利だった。駅から高校までは徒歩で10分で、駅近くにあったこの書店は、高校生の私には十分な質と量の本が揃っていた。たとえば入学後まもなくこの書店で初めて知った丸善発行の『理科年表』はその後ずっと私の座右にあることとなった。

のち1969年に和光大学に編入学し、佐伯昭市先生の演習に参加したとき、先生が『理科年表』を書架に常備なさっていて、俳諧に出てくる月の位置と形が話題となったとき、先生が「理科年表を見れば間違えないのにね」とおっしゃったことを今もはっきりとおぼえている。その年の秋頃であったとおもう。このことについては、のちに佐伯先生との出会いのところで、もう一度触れたいとおもう。

五十嵐書店でもう一つ鮮明におぼえているのは、入って左側奥の書架の最上段に置かれていた、ル・コルビュジエが著し岩波書店から1957年に発行された『伽藍が白かったとき』の表題の「伽藍が白かった」という部分が当時の私にはその意味がつかめず、奇異に感じられたことであった。訳者は、生田勉と樋口清であった。生田についてはのちに、詩人立原道造の友人であったことを知った。

1967年に東京外国語大学中国語科に入学した私は、土曜日の陳東海先生の会話の授業を終えて友人と別れたあと上野で時折降り、特に国立西洋美術館に行くことがあった。建物は近年世界遺産に登録されて有名になったが、その頃の私はル・コルビュジエの設計であることも知らなかった。1959年に開館したこの美術館への入場者は1967年当時、通常展のみのときは土曜日であっても来館者が少なくいつも静かだった。前庭に置かれたロダンの彫刻も現在とはその配置が異なっていて、有名なカレーの市民が中央にあったとおもう。


朝倉季雄の『朝倉初級フランス語』に戻ろう。高校二年の私が、この時期になぜこの本を買ってフランス語を学ぼうとしたか、その当初の目的については今でははっきりとは憶い出せないが、多分フランス近代の象徴詩を何かで知って、原文で音読してみたかったのかもしれない。のちに私が河上徹太郎や吉田健一に惹かれて、ランボーやヴェルレーヌの訳詩を丁寧に読むようになり、原文も訳と並行して何とかたどれるようになったが、それは大学入学以降、1967年以後のことであった。


私はこのテキストを文法的に細かく学んだのではなかった。ただフランス語をできるだけきれいに発音することを中心にして、各課の例文を何度も音読した。幸いにこのテキストにはIPA 国際音声協会の音声表記が丁寧に例文に添えられていた。あとはアクセントやリエゾンに注意しながら、繰り返しフランス語の韻律に習熟することが私の課題であった。文法としては、主要な動詞の活用表を繰り返し読むことぐらいであった。しかしこの簡単な繰り返しが、和光大学に編入学し華埜井先生のフランス語初級の教室で私が音読をしたとき、先生に褒めていただいたことを友人から教えてもらったことへと、繋がっていったのではなかったか。このことが先生と私との唯一の直接的なつながりとなったことをおもうと、不思議な気持になる。


高校の頃、私はほとんど文学とは無縁であった。すべてを憶い出せるくらいに少なかった。中央公論社から赤い表紙の『世界の文学』が出ていて、私はその中のゲーテの『若きウェルテルの悩み』とカフカの『城』を読み、特にカフカの『城』には深い感銘を受けた。挿入されていた点描画風の挿絵も素晴らしかった。訳者は辻瑆((つじ・ひかる)で、この私の論考の主題となる華埜井香澄(はなのい・かずみ)先生が東京恐育大学の仏文専攻修士・博士課程で指導を受けたとおもわれる辻昶(つじ・とおる)先生の実弟である。日本文学では、中島敦の『光と風と夢』、川端康成の『古都』を読んだくらいしか憶い出せない。『古都』を読んだのは、京大にあこがれていたこともあったとおもう。サッカー部は通常は確か月水金の三日が練習日だったので、それ以外の日に、高校の二階の古い図書室の窓際に沿った木製の棚のような長い読書机が私のお気に入りで、そこから時折校庭を見渡しながら、読み終えた記憶がある。私が図書室あるいは図書館が好きになった始まりでもあった。


さらに数少なかった文学書の単行本購入の中で、忘れられないフランス文学の小説があった。私はその本を高校二年の多分秋に、立川駅北口の駅前の立川通りを左に数分行ったところにあった立川書房で目にして購入し、めずらしくほとんど一気に読み上げた。白水社から出ていた函入り赤い背表紙のルイ・エモン著、山内義雄訳の『白き処女地』である。フランス領カナダの開拓地に生きる人々の信仰深き日々を描いたこの小説は、私の中で高校入学以来、不即不離の状態で継続していた、哲学と理学の相克の中に、さらに新しく信仰と自由という、新たな領域を加えることとなった。


高校二年では「倫理社会」を学んだが、その学年末試験は倫理社会に係わる自由作文のレポート提出であった。私はためらうことなく、このレポートの主題に『白き処女地』の中の見られる信仰について書くことを選び、私が読書中また読後に考えざるを得なかった、信仰による安息の生活と厳しい選択を常に強いられるが自由に生きる生活との二者を、決定論と自由意志論との相克という、未熟ながら当時の私としては最も大切な課題を、可能な限り分析しようと試みた。


私の中では、信仰は決定論に属し、自由意志論 としては理学、もっと正確には私の場合は、理論物理学による自然探究が置かれていた。私のレポートの結論は、小説に描かれたカトリック信仰は確かに心打たれるものであり、私にもそうした世界は親しく感じられ、もしかしたらのちに加わってゆくこともあるかもしれないが、今は、本当に自由かと問われればよくわからないが、厳しいけれどその都度自らの方向を考えながら生きて行く、より大きな自由を有すると思われる方を選びたいというようにして、書き終えたとおもう。


そのようにレポートとして結論を提示しても、信仰の中にこそ本当の自由があるのではないか、ただ自由に生きるというだけでは何からの自由であり、どこにいることが自由であるのか、そして何に向かっての自由なのかが不明ではないかと反問されると、答えられなかったとおもう。カトリック信仰が私に近づいた初めての日々であった。


この私自身に向けた真摯な問いは、のちに河上徹太郎の批評を読む中で、大きなひろがりをもって私の心に入ってきた。氏が訳された、ヴェルレーヌの詩集『叡知』は、氏自身がその「跋」において、「 今ここにこの一巻を出して世に問うには、それだけの理由がなくてはならない。これは今から約二十年前、 私の青春の最も決定的な時期に、私が如何なる読書によっても救われなかった魂の寂寥をただこの一巻によって医すことが出来た時の記念なのである。」と述べ、「これは、私の救われた稀有の体験の実録に過ぎないのである。」と万感のおもいで振り返っているのに接し、私ははたしてそのような体験をすることができるのであろうかと、幾度となく考えていた。この跋文は「昭和二一年秋 郷里岩国にて」としるされて終わる。


この訳詩集の中で、私がもっともよく服膺した詩句は以下であった。


「希望は厩の藁の一筋のごとく輝く。」 

 




3.

1967 

Drizzling rain



3.

1967

Drizzling rain

1967年

時雨

1967年4月、私は東京外国度大学中国語科に入学した。1966年3月、京大理学部を不合格になってから一年が経っていた。

理論物理学を学びたいという夢が消えた訳ではなかった。実在する空間と時間を、数学を基礎に置いた物理学で解析してみたいということが消えた訳ではなかった。しかし私は、私を他者と比較したときの相対的実力をほぼ冷静に認めていた。当時の私の力では数理科学を追求できない。不合格という事実を通して、私はほとんど直観的にそのように感じ取っていた。

私は小学生の頃から英語に親しんでいた。IPA International Phonetic Association 国際音声学協会の音声表記にも慣れていた。中学一年までで文法も初歩的な仮定法までを理解していた。そのために特別な努力をしたというおもいはあまり感じなかった。好きだから自然におぼえていたというふうだった。特別な才能というようなものではなかった。

それに比して、数学は最も好きでありながら、最も時間をかけ努力したとみずからはおもってはいたが、その結果はむしろ凡庸であった。しかし私は数学をあきらめたのではなかった。時間をかければ、ゆっくりと考えれば、好きな数学から一定の成果をあげられることも感じていた。私は迅速に機敏に結果を出すことができるタイプではなかった。それをみずからに認め、そのことを知ったうえで、私は自身の学ぶべき方向を考え、当初から選択の一つであった言語の方向へと舵を切った。

以下は私の中に残る悔いの一つであるが、少なくとも高校三年の時点で、私は机上にいつも三冊の辞典を常備していた。広辞苑と岩波国語辞典そして角川書店の漢和中辞典がそれだった。広辞苑は1955年発行の初版、見出しがまだ表音式のもので、岩波国語辞典も初版の1963年4月発行のもの、即ち私は高校へ入学してまもなくこの小型辞典を購入した。角川の漢和中辞典は昭和34年1959年4月の初版発行で、今はその当時のものを保持していないので版数は不明である。この漢和中辞典の編者は、貝塚茂樹、藤野岩友そして小野忍であった。私は高校のときから、こうして小野先生の学恩を受けていたのだったが、そのことを和光の時代に先生と幾度もお話しする機会があったのに、ついにお伝えすることをしなかった。深い悔いが今も残る。中国語科への入学は、遠く小野忍先生の影響があったのかもしれない。

私は辞典が好きだった。布コーティングの広辞苑と岩波国語辞典は、表紙の折れ目がほどけて、壊れそうになった。広辞苑はそのままだったが、岩波国語と大学に入ってから使った倉石武四郎先生の岩波中国語辞典は、やがて表紙が壊れて、その後しばらくは表紙を取りはずして、本文むき出しで使っていた。漢和中辞典は表紙がハードビニールで頑強であり、かなり引いたにもかかわらず、表紙が壊れることはなかった。私が言語を選ぶのは一つの必然であった。それが中国語であったのは、小野先生の影響か、あるいは偶然か今ではもう判然としない。

ちなみに、倉石先生の『中国語五十年』岩波新書 1972年発行、の中で先生が和光大学開学時に中国語学科の教授として招聘されていたが、諸般の事情で中絶したことが述べられている。この書は、先生の中国語についての遺書である旨が、「あとがき」にしるされている。中国語および中国語学を学ぶ若き学徒にとって、今も必読の一冊であるとおもう。

東京外国語大学に入って驚いたことがいくつもあった。東京の西郊の畑や林と親しんで生まれ育った私には、未見未聞のことばかりだった。外語は正門を入ると、緑の芝生が広がり、そこに座りまた談話する学生たちがいつも見られた。通行する人は、芝生を避けてその前を歩いていた。そして彼らが小脇に抱えていたのは、アジア諸語のやや大判で厚い辞典であった。たとえば、インドネシア語、タイ語、ヒンドゥー語等々で、みな日本では小型の辞典すらないものばかりであった。私はその実態を知りたくて、生協購買部の書籍を見に行くと、そこにはまさしく種々さまざまな、アジア諸語の辞典が並んでいた。その一部を取り、あとがき等を読んでみると、アメリカのフォード財団等、種々の財団が希少な言語の大部な辞典を刊行するために支援していることも分かった。私の現代諸語に関する少量の知見は、完璧なまでに消え去った。

余談となるが、この生協購買部のレジの横に一枚の大きなポスターが張られていたのをおぼえている。その頃デビューしたばかりであった歌手の加藤登紀子さんが、新刊まもないボーボワールの『第二の性』の日本での翻訳書を抱えてたたずんでいる姿だった。新しい時代が近づいているのかなと、かすかにおもった記憶がある。

私は一年時に四つの英語を受講した。そのテキストを列挙する。イギリスの現代女性作家、Iris Murdoch アイリス・マードックの代表作の一つである小説 The Sandcastle『砂の城』、次いでShakespeare シェイクスピアの戯曲 The Tragedy of Julius Caesar『ジュリアス・シーザー』、次いで今はすでに休刊となっているが、アメリカのTime-Life 社の大判の写真週刊誌『LIFE』、もう一つは英文法だった。この中であまり予習をしなくてもよいのは、英文法だけだった。他の3コマは毎回かなり進むので、その予習は大変だった。しかもメインの中国語は月曜から土曜まですべて埋まり、土曜の陳東海先生の会話だけが、気の休まるたのしい講座で、あとはみな予復習が必須であった。

のちのこととなるが、私は Murdoch が Oxford で Wittgenstein と会っていたことを知った。Wittgenstein はその後まもなく Oxford を去ったので、Murdoch は彼の講義を聴いていない。それだけのことであるが、1970年代になって、雑誌『エピステーメー』などの特集を経て、私が Wittgenstein に傾倒するようになることをおもうと、外語は私に予兆としての、すてきな計らいをしてくれたと、自分勝手におもうことがある。

FOR WITTGENSTEIN LUDWIG

THE TIME OF WITTGENSTEIN

陳先生は古き良き北京の伝統を伝えてくださった、今もな お敬愛の念深き、鷹揚で大人の風格がある素晴らしい先生でいらした。また岩波中国語辞典の顧問格でもあった。東京教育大学の中国語学の牛島徳治先生が中国語学遍歴を綴った書の中で、陳先生から中国語作文の指導を受けたことが述べられている。すでに深い学識を持っておられた牛島先生が、ある程度の自信をもって陳先生にお見せした作文を、陳先生は完膚なきまでに添削した。落胆した牛島先生に対して、陳先生が中国語の表現は難しいからと、慰めてくださったと書かれていた。それでも牛島先生はその書の末尾で、もう一度生涯を送るとしても私は中国語を学ぶであろうとしるしておられた。

中国語作文の授業は、土曜を除く毎日あり、毎回作文の試験があり、その場で返却してくださる。毎月曜にはさらに暗記のテストがあり、それは当時流行した『毛沢東語録』の数ページを暗記してきて、先生が中国語で二度読み、その全文をその場で筆記して提出し、これも授業終了時までに返却された。中国語科は全部で40名、私のクラスはその半分の20名で女子は3名であった。この中の一人と私は、のちにまったく偶然に東洋文庫で再会した。和光で専攻科を経て研究生となった1980年であった。彼女は大学院を出て、東洋文庫の特別研究員になっていた。お互いにすぐ顔がわかって、彼女は私に、いくつもの挫折があったけれど、子供を産んで勇気をもらった、と話してくれた。二人とももう三十代となり、十数年が経っていた。後年、彼女は中国語と英語を駆使して、中国近代の外交政策を研究した大書を二冊刊行し、博士号を得て、国立大学教授を勤め、近年退官した。彼女は私が外語二年のとき、原因不明の高血圧で入院したとき励ましのはがきを送ってくれた。東洋文庫ではそのお礼も述べずに別れたが、外語の教室の窓際の前列でしずかに学んでいた彼女の姿が懐かしかった。

私は外語入学前に、今では懐かしいソノシートを使って、発音の練習をしていた。4月の授業で、一、二、三等の数詞の音読があったとき、指名されて音読した私の発音に対して、先生が、君は発音をどこで学んだのかと質問された。私はソノシートで学びましたと伝えたが、小学生以来、外国語発音のための口腔図、舌の高低差、唇歯の摩擦音・破擦音等の発音構造は熟知していたので、私としては褒められるのは意外だったが、それはやはり嬉しいことだった。後年, 東京西部の旧五日市町で数年間中国語講座を開いたが、一度皆を神田の古書店街を案内し、帰りに皇居周辺を巡ったとき、二重橋の近くで、中国の大学名を記した方と偶然話す機会があり、日本語も理解されたので中日両語で簡単に皇居の歴史などを伝えると、その方は、君の日本語は上手だね、とほめてくださった。ああ、この方は私を中国出身の人とおもわれたのかと、このときも単純に嬉しかった。私の講座の人たちも、「中国の人とおもったのね」と言ってたのしそうに笑った。

中国語学習については際限ないが、外語の私たちは多分みな、日常見聞きするすべての漢字の中国語音をおぼえることに必死であったとおもう。特に日本の地名は難物であった。次から次へと中国語音が未知の漢字が出てくる。それを常に辞典で確認する。私の場合は、大学書林発行の鐘ヶ江信光先生の『中国語辞典』、倉石先生の『岩波中国語辞典』そして大修館発行の『新字源』の三冊をいつもカバンに入れていた。電車から見える看板もその対象の一つであった。

私はしかし、一年の後半になると、すでに二年時での予定を考え始めた。英語を一年で4コマ取ったのもそのためだった。生協の書籍部で、二年時で使う予定のサンスクリットのテキストがあったので、それは購入した。ラテン語・ギリシャ語はテキストがわからなかったので、岩波全書から、呉茂一先生の『ラテン語入門』と、ギリシャ語の入門書は当時少なかったので、神田盾夫先生の『新約聖書ギリシャ語入門』を購入し、時折、両書の言語の語尾変化等を音読していた。神田先生の著作は、後年全集を購入し、『新約聖書文献学』等のキリスト教学を中心とした学問の深奥を、かすかに知ることができた。

しかし私の中で、少しずつ転機が訪れていた。それが決定的となったのは、外語一年の秋、都心へ向かうバスの中で私にふと浮かんだ芭蕉の発句に起因していた。時雨が車窓を青緑色に流れていた。今では、そこまでは細かく思い出せないそのときのおもいを書き綴った1999年の文を全文以下に再掲する。私はその後なお一年半の1969年3月まで外語に在籍するが、教養課程の修了時に転学することは、もはや私の中で決定していた。

こうして私は幸いに1969年4月に、和光大学人文学部文学科三年に編入学でき、佐伯昭市先生のゼミで芭蕉を学ぶこととなり、あわせて「正岡子規」の特講を受講することとなった。以下はその1967年秋のおもいをのちの1999年に書き記した私的な物語の一部である。20年後となった今では、もうここまで詳しくは憶い出せない。




「 時雨

 外は冷たい雨が降っています。この雨できっと枝に残った葉もきっとあらかた散って行くでしょう。もうすぐ冬が来ます。ラフォルグが天使の優しさで降る雨と言った、そんな雨です。田所さんは俳諧七部集『猿蓑』巻頭の句、初時雨猿も小蓑をほしげなり、を思い出していました。田所さんは,この句に特別な思い出があるのでした。


 もう遠くなった日々、中国語を学び始めたころ、田所さんは自らのアイデンティティの揺らぎの中にいました。発端は簡単なことでした。中国語を学んでいる自分はいったいどこにいるのかということでした。辛亥革命から五四運動を経て、統一抗日戦線成立へ向う中国の近代が、それまで歴史にまったく疎かった田所青年の胸に重く迫って来ていたのです。高校の教科書でひととおりの知識は持っていました。しかしそれと違ってことばを通していわばより直接的に入ってくる中国の近代は、実在の人が話しかけるように身体に響いてくるものがありました。そのとき若かった田所さんは、歴史に向かいあう自分がまったく空白であることを感じていました。


 空白な自分が、ひとつの外国語といえども、果してほんとうに学ぶことができるのだろうか、そういう問いが田所さんにいつも答えを求めていたのです。そんなに深刻に考えなくても、というのは何がしかの基盤をすでに自己のうち持つ、空白でない人だから言えるのです。何も持たないままに立つということはつらいことでした。哲学は茫然と立ち尽くす形をとると言ったのは、ヴィトゲンシタインであったでしょうか。そのときはまだそんなことばも知りませんでしたが、事実は立ち尽くす以外に何もできなかったのです。田所さんは初めて世界と向かい合ったとき、自らのうちにあって自らを支えてくれるものがなにもないことをこのときはっきりと知ったのでした。その解決のためには、明らかに、それまで学んできた知識とは違った種類のものを必要としました。外界に向ったときに、そのことの上に立って自分が考えることができる、そのための確実な基盤が求められているのでした。それはたぶん自らが生きてゆく中で、生活の無数の断片をつなぎ合わせるようにしながら、時間をかけて少しずつ出来あがっていくものであったのかもしれません。しかし、そのとき,田所青年はその生成をゆっくりとは待っていられなかったのです。自分が空白のままで歴史に向かい合い続けることは、比較を許さない苦しいものであったのです。


 中国語を学んで初めての冬を迎えようとしていました。田所青年は,その日バスに乗って都心に出かけて行く途中でした。時雨がバスの窓を青緑色に濡らして流れ落ちていました。乗客は少なく、車内は静まり返っていました。青年は窓の外を見やりながら、この半年あまり考え続けてきたことに、ほとんどなにひとつ進展がなかったことに気づいていました。このまま進むのはつらい状況でした。


 そのときふと、芭蕉の『猿蓑』の句が思い浮かんだのです。どうしてそうなったのかはわかりません。窓外の時雨が、どこからか記憶を呼び起こしてくれたのかもしれません。青年はこのとき即座に、この場所に戻ろう、ここからなら確実な一度を歩き始めてみることができるかもしれないと思ったのです。『猿蓑』の句はほかに何一つおぼえているものはありませんでした。ただこの一句をどこかでおぼえただけなのでした。新しい出発にとっては、それで十分なものでした。

 青年にとって、世界は時雨と同じでした。青年もまた小さな蓑をどうしても必要としていたのです。傷を負いやすいたましいは、どうしても防御されねばならなかったのです。文学はひとつの防御です。


 青年はそれからしばらくの間、『去来抄』を読んで過ごしました。それは全体でも短く、一つ一つの文はさらにきわめて簡潔でした。それが疲れていた青年にはふさわしかったのかもしれません。下京や雪つむ上の夜の雨、去来抄でおぼえたこの句は、のちに奈良京都をたずねたときに、幾度か思い出すものでした。結局青年は、自らが付ける小さな蓑として、京都のにおいやかな美しさを離れて、ひっそりとした奈良を選ぶようになってゆきました。その出発点はこうした去来抄などからもたらされていたのかもしれません。


 夜の雨かげろう窓に震えおり


その翌々年の夏、もう落ち着きを取り戻した田所青年が、自分の部屋から見たままによんだこの初夏の夜の風景にも、きっと去来抄の下京の句がその深いどこかでつながっていたかも知れません。」

Papa Wonderful 49. Drizzling rain, 1999

 

DRIZZLING RAIN



4.

1967 

Not so great



4.

1967

Not so great

1967年

偉大ではない


昭和42年1967年4月、私は外語の中国語科に入学した。家は確かに東京であったが、すぐ西は埼玉に接した丘陵と林と畑の小さな町から、都心の北部に通うようになって、私の生活は大きく変わった。土曜日は陳東海先生の中国語会話の授業があり、私は先生のどこか清代の余韻を残すお人柄が好きで、毎週決して休むことはなかった。午後は新宿で下車して、しばしば紀伊国屋書店に寄った。逆に上野に向かい、国立西洋美術館に入ることもあったし、ときには神田に出て古書店街を回ることもあった。


水道橋の改札を出て、左に売店があり、右に曲がり橋の欄干から神田川の水面を見るのが好きになった。駅舎の方角に、ボクシングジムの看板があり、南北に通ずる白山通りの東側には都立工芸高校の校舎の窓がいつも光っていた。水面をゆっくりと進む、あの平たい船はなんという名前なのか知らなかったが、私はそこに懐かしい東京の景色を感じた。私はいつか、まぎれもなく東京の一部になっていた。

私はことに夕暮れの神田が好きだった。一日中神田を歩きまわり、幾冊かの収穫を得て疲れて帰るとき、救世軍が歳末の社会鍋を置き、音楽が奏でられていても、私は当時まったく献金しなかった。後年、新宿駅西口で、同じ光景に出会ったとき、このときは家内と一緒だったので、初めてなんだよと言って献金し、救世軍のパンフレットをいただいた。

白山通りの一つ裏側に並行して通ずる道路に面して、神田カトリック教会があった。私はその静かなたたずまいが好きで、ときおり道路から夕暮れになると灯る教会入口の明かりを眺めたが、現在に至るまで遂に一度も教会に入ったことはなかった。後年私は神田の夕暮れを追憶をこめて、小さな物語の中に綴った。そう、1960年代末には、白山通りを茶褐色の都電がゆっくりと走っていた。あの巣鴨の終点からまっすぐに南下すると神田につく。半世紀は遠い。

私はそれらの懐かしい風景を、のちに『冬へ』という私的な物語に綴った。



「 背の高い建物群が青緑色に見える。都市線の高架の下を南北に広い道路が走り、そこをゆっくりと路面電車が進んで行く。駅を降りて歩道をすこし南に行くと、Aの住まいに着く。

一階はブリキ屋で外付けの階段を上った二階に住んでいる。物置のように使われてい たところを住まいにかえただけの殺風景な部屋だが、窓が道路に面した東と、駅の方の北に取ってあって明るい。

彼が初めてこの駅で降りたとき、曇り空の下にくすんだ高い建物が背景となった風景になんとなく惹かれて、歩き始めてすぐに目についた貸家の張り紙のままに、「トタン・ブリキ製造」と看板があるガラス戸を開けて、その場で部屋を借りることにした。

駅からここまで来る途中の路面電車の中継基地とでも言うのか、そこから道路に向かって電車が出て行く光景が今も初めて見たとき のように好きだ。線路は赤く錆びていて、車輪の当たるところだけが、銀色に光っている。電車はいつも道路に向かってカーブしてい くときにギシギシときしんだ音を立てた。」

『冬へ』第Ⅰ章、To Winter 1, 2015

「 岡潔が言っていたように、決定的なものはながい余韻を残す。Aは無性に町なかを歩いてみたくなった。かつて歩いたところを、い つもさまよってばかりいたところを、もう一度ゆっくりと歩いてみたくなった。  

古本屋街のあるD駅へ都市線で向かった。古ぼけたホームから階段を下りる。低い梁がながい間の埃にすすけ、階段は黒く縁が磨り減っている。製図学校や簿記学校の活字の多い広告が変わることなく貼られていて、ああまたここに来たと彼はおもう。

改札を出ると夕ぐれの町が若者たちの姿をなかばシルエットにして、行き来させる。左側に売店がある。その前方のガード下に幹線道路が走り、道路を路面電車がきしみながら過ぎて行く。右へ行けば古本屋街。中央のガードの下に、つまり都市線の下に、運河がな がれている。駅名と同じ古ぼけたD橋が架かり、よどんだ水面をときおり平たい荷舟が通って行く。

むかしとなにも変わらない。 橋の向こうは大きな交差点で、その向こうに灰色の高い学校がある。夕ぐれの中に点々と、まだ学んでいるのか灯りがともっている 。 これもむかしのままだ。橋に立って川面をながめていると、人々が絶え間なくながれて行く。橋はそういうところだ。とどまるところではない。

Aはそこから運河をながめているのが好きだった。荷舟はどこまで行くのだろう。いずれ海辺近い港か集積場で荷を降ろす のだろうか。荷舟は時のながれを二重にするかのように、よどんだ運河の上をゆっくりと下方へと移動して行く。 運河の左手は駅舎で、右手は建物群の裏側になる。いくつもの看板が駅の方に向いている。東洋王者が構える姿を描いたボクシン グ・ジムのややゆがんだゴシックの看板はまだ健在だ。

橋はもうところどころコンクリートが剥げ落ちている。古ぼけた町にふさわしい。錆びた鉄の欄干にもたれていると、今日は多いの かもしれない荷舟がまた橋をくぐって行く。  

もはや本屋街をさまようことはない。対象は私のうちにある。私はただこの運河をながめていればいい。遍歴は終わった。たぶん永遠にマイスターにはなれないだろうが、みずからの小さな仕事場で、日が落ちるまで作業をすればいい。すると仕事場の窓辺を聖者が通って行く。かつてそんなロシアの民話を読んだ。  

秋の日ぐれは早い。路面電車のヘッドランプがまぶしいくらいだ。黄褐色の窓に少ない乗客が照らし出され、古本屋街の方へ消えて 行った。駅の売店がにぎやかな橙の光に包まれている。」

『冬へ』第8章、To Winter 8, 2015




そうした東京へのおもいと重なるような、私の深奥と響き合うようなまったくおもいがけない出会いが、外語で私を待っていた。詩人でフランス文学者であった安東次男先生との出会いだった。

一年次の一般教育科目の人文科学分野で、私は迷うことなく「文学」を選んだ。安東次男先生のお名前はまったく知らなかった。しかし、その講義を聴き始めてすぐに、まぎれもなくここに私が求める文学がある、とおもうようになった。講義はまもなくして、大教室から中教室へと移った。先生の講義はノートに取るようなものではなかった。したがって今もその講義の大きな流れを自分の中で再現することはできない。しかし、講義の断面が、まるで詩句の一片のように、今も記憶に刻まれている。

今の日本の文学で、批評において見るものは少ない、先生ははっきりとそう述べられたあと、「ただ吉田健一の『文学の楽しみ』河出書房 1967年 、がある。これは読むべき数少ない本だ」と述べられた。私はここで初めて、吉田健一というまったく未知の文学者の名を知った。そこから吉田健一のイギリスからの帰国後の師となる、河上徹太郎へはまっすぐに延びていく。

1967年夏、大学が夏休みになると、私は神田に行き古書店街を回り、吉田健一の本を探した。するといくつかの古書店で、垂水書房版の吉田健一著作集が店頭でゾッキ本に近い形で売られていることを知った。この著作集は大変丁寧に作られていて、麻のような布で覆った固い表紙で天金が押され、紙質はやや薄く活字のきれいな装丁であった。値段は一律で、確か一冊280円だったとおもう。吉田健一の存在は、まだ神田で、あるいは文学市場で充分な認知がなされていないことは明白であった。私は著作集の異なる冊はすべて購入した。新書版の『乞食王子』の本もゾッキ本で売られていたのであわせて購入した。その裏表紙の折り返し部分には、吉田健一がコンロを前にしてドテラ姿でいる写真が載せられていた。私は文学の本質とはなにかと、幾度も自分に問いかけながら、そのなめらかで独特な文体に心惹かれながら読み続けた。

ここでふたたび外語の、夏休み前の初夏のまぶしいような日差しの一日に戻りたいとおもう。外語の正門を入った芝生の広場の前で、私は安東先生の姿に接し、おもわず近づいて先生が講義の中で紹介してくださった先生ご自身の著書『現代詩の展開 増補版』思潮社 1967年、を購入し読んでいることをお伝えした。先生は見知らぬ新入生の突然のことばに別段驚くこともなく、少しだけ相好を崩して、「あれは良い本でしょう」とたのしそうに私に応じてくださった。私はそのときすでに先生の詩集も読んでいたとおもうが、そのことにはこのとき触れなかった。『六月の緑の夜は』『CALENDRIER』『ひとそれを呼んで反歌という』。私は生まれて初めて詩人と話すことができた、そうおもった。

『現代詩の展開 増補版』によって、私は私が求める文学がどこにあるかを少しだけ理解することができた。それは吉田健一、河上徹太郎に至ることによって決定的なものとなった。安東先生は、まさしく私の文学の師であった。

『現代詩の展開 増補版』は1967年4月15日発行であり、私は外語に入ると同時に、この年に文学にも導かれたことになる。当時私が繰り返して読んだ部分は、『増補版』において挿入された、「詩時評」(1965・2ー1967・3 読売新聞)であった。376頁から431頁に及ぶ、時評としては長編となっていた。そこには私の青春を鼓舞するような文章が、まさしく散文の詩句となってきらめいていた。




「詩は所詮同心の者のあいだに成り立つ心の交流であるなら、作品の数を必要とするまい。」

「ランボーのほんやくなど私には興味がない。」

「自分が必要なときのみ、詩を作るのだ。」

安東先生は蔵原伸二郎の詩集『岩魚』から一節を引用する。

「風は村の方角から吹いている

 狐は一本のほそい

 あるかないかの影になって

 村の方に走った

 かくて

 狐はまた一羽白い鶏を襲った」

「そもそも日本の戦後詩には何らこれときまった形式の約束などないではないか、」

「だから何をやってもいい、ただ自分の作品に最もふさわしい形式をまず発見することだ。現代詩など、私にとってどこにも始まってはいないのだ。」

「行分けの詩は、こと日本に関する限り、金子、西脇あたりの世代でその必然性を失った、と見るのが私の見方である。若い現代詩は、そのことをよく考えて、まずおのれの形式を見いだすことに冒険をかけたらよい。」

先生の次のようなことばが、ほとんど無意識のうちに、私の生きる方向を決定づけていたと、今になると、とまどうことなく確言できる。

「われわれは、のこされた文化の高さと並びうるところまでは、何を措いても学問にうちこむ必要がある。それをおこたる口実に、愚にもつかぬ詩や小説の一つや二つ書かぬことだ。」

「どんなにたどたどしい語学力でもよいから(といえば語弊がある。むしろいうならばたった一行の詩句を読むために一つの語学を習得して)詩は原語で読め、」

「詩時評」は以下の文章をもって終わる。

「木下夕爾が、戦争もなくまたかれの命とりとなった病気もなく、終生ひばりのように明るく歌いつづけたということは、たぶんあやまりである。かれのような資質の詩人が戦中戦後を生き抜くためには、俳句という極微な詩型が必要となったことを、そのことのよしあしは今は問わぬとしても、私ははっきりさせておく必要があると思う。」




安東先生の俳句の師は、加藤楸邨先生であった。後年、大岡信、丸谷才一とともに、歌仙を巻いておられた。新潮社の雑誌『波』に載った先生の竹林の発句が素晴らしかった。今正確におもい出せないのが惜しい。

これらの日々が私における文学との決定的な出会いであった。私の文学的生き方を決定したといってもいい。私は先生のことばをなぞるようにして生きてきたといっても、それほど違わない。詩は未来を示す。それが詩人の定義であった。私は先生を見てそうおもう。

かつて私は、詩人と近代について書いたことがある。


PAPA WONDERFUL 19 MODERN TIMES


私は昭和43年1968年の外語一年の終わり近くにの早春に、先生のご自宅を訪問した。なんの連絡もしないままであったが、先生はあたたかく迎えてくださった。ほんとうはきっと迷惑であったとおもうが、しょうがない若者だとおもっていらっしゃったのかもしれない。先生は庭先で、なにか紙を乾かす仕草をなさっていた。先生は、ほほえみながら、「駒井(哲郎)君との詩画集に石油をつけちゃったんで、乾かしているんだ」とおっしゃった。詩集『ひとそれを呼んで反歌という』エスパース画廊 1966年、だっただろうか。私はこのとき初めて、この高名な銅版画作家であった駒井哲郎の版画を見た。先生は私を囲炉裏のある和室に招じ入れてくださり、そこでにこやかに話してくださった。しかし話された内容は、いずれも厳しいものであった。先生の生きる姿勢を私は目の当たりにした。先生は「詩時評」とまったく同じに生きておられた。


私は先生の詩集『CALENDRIER』ユリイカ社・昭和35年1960年、を当時から繰り返し読み、その一部は今もそらんじている。私の最も好きな詩は、一年の暦となったこの詩集の八月 Aout の詩である「碑銘」であった。その全文をここに引用する。

「   碑銘

 建てられたこんな塔ほど  

 死者たちは偉大ではない  

 ぼくは死にたくなんぞないから

 ぼくにはそれがわかる 

 ところでなぜぼくは 

 こんなところに汗を垂らしてうつむいて 

 いるのだ一篇の詩がのこしたいためか 

 似たりよつたりの連中のなかで 

 生まれもつかぬ片輪の子を生んで俺の 

 子ではないとなすりつけ  

 あいためかぼくにはそれがわかる 

 建てられたこんな塔ほど 

 死者たちは偉大ではない 」





5.

1966 

Small university on the hill



5.

1966

Small university on the hill

1966年

丘の上の大学

私は1969年、開学から4年目に編入学試験受験の資格確認のために和光坂を上ったのが初めてのため、1966年開学当初の和光大学を知らない。初めて訪れた、1969年の多分2月も緊張していたのか、大学までの道筋の風景をまったくおぼえていない。編入学後の初夏、和光坂を下りてくると、左手に細長く伸びる若い緑の水田が光り、ツバメがその上空を飛び交い、ときに稲光が走る、あの風景が忘れられない。丘の麓に残された谷戸の風景だった。

和光大学が所在する丘は多摩丘陵の一支脈であろうが、その地理的状況については、和光大学経済学部の村木定雄先生がご専門である地理学の見地から、昭和56年1981年に和光大学経済学部より刊行された『マルサス・リカードとその時代』白桃書房において「和光大学創立十五周年を迎えての随想」と題する論考として詳細に記述しておられる。私は学部が異なったこともあり、先生の講座は受講することを逸してしまったことが悔やまれる。


先生は長身でいらしたので遠くからでも先生とすぐに確認でき、私が研究生となっていた1980年代のある日の夕刻、ご指導を受けていた川崎庸之先生とご一緒して、通学バスから降りて鶴川駅へ向かう途中、先方に村木先生がおられるのを知ったとき、川崎先生はほほえみながら、「村木先生はご自身のペースがあるので、お声をかけないことにしているんだ」とおっしゃったことが忘れられない。村木先生の朴訥とした風貌がなつかしい。

村木先生のご論考から、一部を抜粋して以下に記す。





「多摩丘陵の南東部の一角、町田市金井と川崎市多摩区岡上にまたがる谷戸(やと)に、丘陵の斜面を人工的に平坦化して、そこに大学の校舎並びに運動場が建設されたのである。谷戸または谷(やと)というのは、浸食された狭長な支谷をさす多摩丘陵の呼称で、(中略)大学周辺の丘陵は標高90m前後のようである。」


「創立当時は、この道路と線路との間の狭長な地域は、殆ど全部が一毛作水田の谷戸田であった。この水田を耕作していた農家に聴くと、ここの水田は反当収量8俵のよい田で、夏の気温と水温が高いので、時には毒蛇の蝮(まむし)も見かけた。(中略)この水田の一部に蒲(がま)が自生して、通学の目を楽しませることもあった。」


「道路の東側は、道路下に沿う小さな渓流を隔てて、比較的急な丘陵の斜面となり、創立当時のその斜面は、殆ど全部が多摩丘陵に共通の広葉樹を主とする雑木林か草地であった。」


「初春の候には、大学の研究室棟の南東にある丘陵の森から、鶯の鳴く声が聞こえたものであった。」


(『マルサス・リカードとその時代』287頁―288頁)




私は和光への受験資格確認のために事前に電話をしたとおもうのだが、そのことも今では詳細を完全に失念している。ただ確認に訪れた当日、対応してくださった山崎昌甫(やまざきしょうほ)先生との出会いは、深い印象をもって忘れることができない。

1968年に私は東京外国語大学中国語科二年に在籍していたが、1968年から1969年春にかけては、いわゆる大学紛争によって多くの大学が不正規な状態に置かれていた。外語は大学が学生によって封鎖され、正門は閉じられていた。私はその脇を通って編入学手続きのために学内に入った。キャンパスは森閑としていた。校舎の前の芝生で、私は一人の友人と出会った。「田中、大丈夫か」と心配してくれて、「中に入ってみるか」と、誘ってくれた。向かって右へ歩いたので、アジアアフリカ言語研究所であったとおもう。低階の一研究室の内部を見せてくれた。がらんとした室内の壁面に書棚だけが目についた。学生はだれもいなかった。そのとき彼はふいに「おれ今結核なんだ。パスを飲んでいる」と私に伝えた。彼とはその後、一度も会うことはなかった。無事回復して、私と同じように元気になったことを希がっている。

この日、大学事務室も閉鎖されていて、私は必要な書類等を申請できなかったとおもう。成績証明書や在籍証明書等をその後どのように入手したのか今はまったくおぼえていない。ただすべての書類が整った後、中国語科の主任の長谷川寛先生のご自宅をお尋ねして、最終的に私の和光への受験がおこなえることとなった。先生は静かに私の今後の進路変更の希望を聴いてくださったあと、ペンを手に取られ、「小野先生への紹介状を書いておこうか」と、私がまったく予期することもなかった配慮をしてくださった。先生の名刺の裏に、私のことを記して、先生のお名前の下に捺印をするとき、「この印はね、毛沢東の印を彫った人が彫ってくれたんだよ」、と楽しそうに話しながら押印してくださった。

先生が白水社から1974年に上梓された『標準中国語会話』は現在も版を継ぎ、名著とされている。私も長年愛用している。私はクラスが違ったため、先生の作文の授業を受けることはなかった。先生は心から中国語を愛し、作文がもっとも好きだと話されていた。毎日の作文の結果について、君は最近打率が下がったねと、たのしそうにクラスの人に伝えることがあったという。

2年後、私が和光を卒業することが間近となったある日、私は八王子のくまざわ書店に寄ったとき、ふと目にした一冊で、先生がすでに亡くなられていたことを知った。外語退官後、中国語専攻を持つ大学で、新たな教鞭をとられていた。私は先生に、和光を無事卒業致しますとのご報告をお伝えすることができなかった。

すべての中国語科の学生から敬愛されていた先生の逸話は以下に尽きるとおもわれる。学生集会で先生方が窮地に立たされる中で、先生はひとり、「学生の話す口調を即座に中国語に訳すのは難しいもんだね」と、脳裏で中国語作文に取り組まれていたという逸話であった。思想や考え方の違いを超えて、中国語科のみながこの逸話に笑みを送った、いかにも先生らしいと。先生はそうした方でいらした。

私は外語二年時に、原因不明の高血圧と蛋白尿によって、入退院と検査そして関連した小さな手術を2回行っており、1969年12月にはほぼ1か月間、精密検査のために、世田谷にある国立大蔵病院に入院することになった。それまで入院と通院を行っていた病院で主治医の先生が、あなたも症状がなんに依るか不明では不安でしょう、もし精密検査を受けてみたいなら、紹介状を書くから受診してみますか、と私の今後を案じてくださり、先生が旧知の慶応大学病院の先生を紹介してくださった。主治医でいらした先生のこの処置に、私は今も深く感謝している。

こうして私は初めて慶応大学病院を受診し、紹介してくださった先生にお会いした。当日の診察では細かな病状を確認することはできないとのご判断で、先生はわざわざ休日に、静まり返った大学の医学部研究室で眼底撮影等のより細かな検査を行ってくださった。研究室の流しのブリキが錆びていたのが記憶に残っている。その日の結果を見て先生は、「精密な判断のためには、入院してさらに検査を受けた方がよいとおもう」と、伝えてくださった。私はすぐに「お願い致します」とお答えしたところ、先生は「慶応は混みあっているので、私が非常勤で行っている国立大蔵病院はどうだろうか」とお話しくださり、1968年12月初めに私は世田谷にあった国立大蔵病院に入院した。

絶対安静3日を含むほぼ1か月を、私は心臓から内臓全体への種々の精密検査を行ってで過ごした。すべての検査が終了した12月末に、先生はお正月は自宅がいいでしょうねと言ってくださり、私は12月27日か28日に自宅に戻った。年が明け、1969年1月に病院で精密検査の結果をお聞きした。「症状は確かに今も続いているが、それを引き起こす主要な原因は今のところ確認できない。従って、今後も定期的に通院しながら症状の経過を観察するのがよいとおもうが、現状では特段心配することはないとおもう、普通の生活をしていてよいでしょう」とおっしゃってくださった。不安を抱えながら過ごすのはきつかったので、このとき私は本当に安堵した。

その後定期検診は夏と冬の二回、数年後には春先に一回通院し、各種の検査を受け続けた。そして私が30歳になる1977年頃、先生は、「あなたはもうほぼ健康になった、これからは通院も検査も必要はない、薬も飲まなくてよい」とおっしゃってくださった。

先生は名医であった。ある年の通院時に、新しい薬を処方されたことがあったとき、先生は「この薬は副作用が出ることがある、もしなにか気づいたことがあったら、次回通院時に連絡してほしい」と、おっしゃった。月日を経て、次の通院時に「このような症状がありました」とお伝えすると、先生はその場ですぐ、「それではこの薬はやめましょう」と判断された。患者である私のことばに対して、先生はつねに簡潔にしかも力強く応対してくださった。

今でも私は、私の質問に対する先生の説明を詳細におぼえていることが一件ある。和光卒業を控えた早春、私の高校勤務が確定したとき先生にお尋ねした。「先生、私の体は高校勤務に耐えられるでしょうか」。そうするとこのとき先生は、手元のメモ用紙にゆるやかな下降カーブを書き、「田中君、人は二十歳を過ぎたら、その機能はみなだれでも緩やかに下降してゆくんだよ、だからそのカーブをいかに緩やかにするかが大切なんだ、君の体は少し血圧が高いという後遺症を残したかもしれないが、今ではもうほぼ正常に戻っている、だから経過観察は必要だが、安心して勤務しなさい」とはっきりと励ますようにおっしゃってくださった。

1969年1月初めの検査結果を受けて、私は外語一年時秋から考えていた他大学への転学を決めたが、中国語を中心とした専攻を一年から行うやや特殊な外語から、普通の文学部へ転学する道はそれほど広くはなかった。ある朝新聞を見ると、新設大学の状況を伝える記事が目に留まった。その中の一つに和光大学があった。人文学部があり日本文学を専攻できる、多分それだけを確認すると、私は可能ならばこの大学へ転学したいと心に決めていた。外語の場合もそうであったが、私はこうした選択のとき、実地見学をしたり、情報を集めたりすることはほとんど無かった。それが私の生き方であり、生涯そうした形で過ごしてきた。

和光大学はいかにも新しかった。しかし編入学後、雨が降ると樋で雨を受けきれなくて、雨水が溢れるような状況はまだ知らなかった。食堂のコンクリートの床が凸凹していて、100円ラーメンの汁が溢れそうになったことが幾度かあった。それでもこの大学には、ことばではとうてい表現できない、清新ななにかが満ちていた。私はそれをつねに肌で感ずることとなった。

丘の上の小さな大学は、その後、私にとって一つの奇蹟となった。





6.

1966 

T he first president  UMENE Satoru



6.

1966

The first president UMENE Satoru

1966年

初代学長 梅根悟

私は開学4年目の1969年に人文学部文学科三年に編入学したが、その直後から「小さな実験大学」ということばは耳にしていた。しかし、それがどのような内容を持つのか確認することなく、1971年3月に卒業した。

実験ということばが、私自身にとっても重要なものとおもうようになったのは、1980年代末以降、言語の普遍性Langauge universals を追究するようになってからだとおもう。私は1970年代末から言語の実在について考えるようになっていた。しかしその明瞭な筋道を教示してくださったのは、和光ののちの学長、千野栄一先生であった。1979年末から1980年代の専攻科・研究生の時代に、私は先生の「構造言語学」を受講し続けた。ある年の新学期などは、講義前に比較的前列にいた私に向かって、先生は「まだ聴くのかね」とおっしゃってから講義に移られた。


先生の構造言語学講義は、かみくだいた平易な表現でなされたが、その内実は、1920年代のプラハ言語学サークル Linguistic Circle of Prague がその中核に置かれていて、術語一語一語をとっても、常に歴史的な背景を持つ難解な内容を含んでいた。私がその中で生涯でもそうたびたびは訪れないであろう一篇の論文を教えられた。


プラハ言語学サークル Linguistic Circle of Prague の成員であった、セルゲイ・カルツェヴスキイ Sergej Karcevskij の「言語記号の非対称的二重性」Du dualisme asymmetrique du linguistique 1929 である。この中で Karcevskij は言語という実体の構造は二重になっていると主張した。言語はなぜ時代を超えて、常にその社会状況に的確に対応して続けることができたのか。そこに一つの仮説を提出した。数学的には予想 Conjecture と呼んでよいであろう。言語は社会の変化に応じて、それにふさわしい対応をおこなうことができた。言語は「固い部分」と「柔らかい部分」とからなり、「固い部分」によって、言語としての連続性を保ち、「柔らかい部分」によって柔軟に社会の変化に対応することができた、とする。言語が二重の構造を持つという予想 Conjecture はもちろん数学の予想と異なり、証明されていない。少なくとも証明されるべき体裁を整えていない。言語が実体を持つことも、実体が構造を持つことも、その構造が二重になっていることも、すべて Karcevskij の直観に基ずく。従って証明もできない。


しかし私は、千野先生の教示のもとで、この論文が持つ、言語に対する方向性とも呼ぶべきものの一つの強靭な思考に魅了された。1986年3月で研究生を終え、みずからの石南文庫に依拠しながら、Karcevskij の周辺を彷徨した。しかし、この予想では、数学的な 予想 Conjecture の体裁を整えていない。私は公理までとはいかないまでも、より少ない前提から、このConjecture が内包する豊かな言語探究の道筋に従って、主に数学の幾何学的方法によって、接近することを試みた。それが一つの形となったのは、2003年春からで、一篇の論文にまとめ、その冬には幸運にも、奈良で開催された国際シンポジウムで口頭発表を行うことができた。すでに56歳になっていた。


QUANTUM THEORY FOR LANGUAGE


従って私は、みずからの経験に基づき、実体あるいは変化というようなことばに対しては、きわめて敏感になっていった。


和光大学の「小さな実験大学」に戻ろう。簡約すれば、実験は目的に向かってなされる。実験はつねに実在するものに対して行われる。実在するものを持たない実験はあり得ない。それならば、「実験大学」においては実在する何に向かって実験を行うのか。そしてその実在をどのように目的に合致するように変化させ動かすことができるのか。


言語は変化するとよく言われる。それならば変化する実体が存在しなければならない。言語の実体とはなにか、それが私がかかえていた重要な主題の一つであった。


「実験大学」において、実験によってどのような変化が生ずるのか。どのような実在に対してどのような実験をおこなうのか。文学科に在籍していた1969年から1970年当時、私はそこまで考えたことは一度もなかった。




1)現況にふれながら考えることとする。『和光大学 2021年度 大学案内』を見ると、05頁下部に「大学は自由な研究と学習の共同体」と書かれている。これが実験をおこなう「実体」となるとおもわれる。この実体に対して、この頁の中心に大きく書かれている「異質力とはあなたに眠っているチカラ」という「方法」あるいは概念を用いて実体に対して実験が行われる、と考えるのが自然であろう。06頁最下部では「和光大学の実験は、今も変わらず続いています。」と結ばれている。

2)13頁から14頁では、「自由」ということばあるいは概念が、問いかけられる「実体」となっている。「私たちはほんとうに「自由」なのか?」「自由に生きるとはどういうことか?」

3)15頁から20頁では「自由」は「実体」が有する「方法」として用いられている。

「キャンパスを自由に飛び出して」

「自由に学べ!」

「講義バイキングという自由」

と続いている。

4)以上の1)から2)によると、「自由な研究と学習の共同体」という「実体」は、「自由」という「実体」の一属性が、不安定か、不明である現況が示唆されている。従って「実験」は、この不安定か不明な「実体」の現況を克服するためになされるとみなすのが自然であろう。

5)また3)からは、不安定か不明な「実体」の現況を克服するための「実験」の「方法」として、「自由」な行動が求められている。そしてこの「自由」な方法を駆使するための「チカラ」として「異質力」が「眠っている」と判断されている。

6)「自由」たるべき「実体」に対して、「自由」な「方法」で克服しようとする、「自由」という同一の語彙使用は、これからの目的である「自由」と現在における選択の「自由」とが混同しやすくなっており、やや不安定な印象を受ける。

7)「自由」という属性を有する共同体という「実体」に向かって、「自由」という属性を有する講座バイキング等の「方法」によって「実験」を行なうというように受け止めることができる。

8)しかし実体の中の自由という一属性と、方法の中の自由という一属性はその母集団とも呼ぶべき基盤が異なる。簡単な一例として、二つの母集団の成員数を一つの「次元」として考えてみよう。「次元」については、基本的な学術用語の説明を重視することとなった『岩波国語辞典』第6版から引用する。

「次元 変化するものの状態がn個の独立変数でとらえられる時、そのnをこの場合の次元と言う」

9)講座を「自由」に受講するという「方法」の次元は、ある講座を用意した一教員とその講座を選択した一学生からなり、その講座の受講者が他に19名いたとする。クラスの成員数は21であり、これらを変数としてみると21次元となる。これに対して、「自由」な研究と学習共同体という「実体」の成員数は、例えば学生数2000名教員数100名とすると、この「共同体」の成員数は2100、これらを変数としてみると、2100次元となる。二つの「自由」の次元はまったく異なっていることがわかる。

10)また「自由」という語の意味から、この二つの「自由」の内部構造が、異なっているとみることも可能であろう。すなわち、「実体」としての「自由」は、「個」を含むが「個」を超えるものを中心とするのに対し、「方法」としての「自由」は、「個」を超える中に位置するが「個」という中心による「選択」がなければ達成されない。

11)和光大学で今も続く「実験」は、この「個」によってなされる「自由」な「方向」によって、「集団」から形成される「自由」な共同体という「実体」を不断に形成させることができるだろうかという、方向をもって位置づけることができるであろう。

12) 異なった二つの「自由」は決して容易には結びつかないであろう。「方法」の「自由」は決して「実体」の「自由」ではない。一方の「自由」を得ることによって、他方の「自由」をも得ることにはならない。それを架橋させることは決して容易ではない。「実験」は絶え間なく続けることが必須となるとおもわれる。




ひるがえって、和光大学の初代学長であった梅根悟先生は、この大学をどのような場として構想しておられたであろうか。『和光大学 2021年度 大学案内』の06頁上部に掲載された「小さな実験大学」という部分は、先生が誠文堂新光社から刊行された『生活教育』1965年5月号の中の「教育断想 和光学園大学」の内容と類似しているが、この断想の末尾で先生は次のようにに述べられておられる。


「ただ学問と教育の好きな連中が集まって集団的に運営している大学、その意味でヨーロッパの中世大学がその始原において示したような、学者教師の集団(ウニヴェルシタス、スコラリウム)としての大学の理念を今日において再現したと言ってもいいような大学、それが和光の大学のあるべき姿ではないだろうか。和光学園大学を作ることについての相談をうけながら、私は、そんなことを考えている。」

以上の先生の論述は1965年であり、和光大学開学の前年であったが、先生はまた、大学の一つの大きな現実としての入学試験について、のちに和光の入試選抜方式として採用されることとなる「斜辺方式」に関して、『中央公論』1967年3月号の「小さな大学を創って一年」で以下のように書いておられる。

「斜辺主義で人材発掘

斜辺主義という言葉は湯川秀樹博士の提唱する入学試験の改善案にちなんで私が作った言葉で、目下和光で流行しだしているところである。(中略)湯川方式はまことに名案である。(中略)和光では今年度は湯川方式で選抜したわけではないけれども、今年入った第一期生をみると、どうやらその中には斜辺の長い学生が割合にたくさんいるらしい。」

さらに先生は1971年に明治図書から刊行された『ルソー「エミール」入門』においては、先生が五十年の長きにわたって研究された、ルソーの『エミール』の概要を紹介しながら、205頁から208頁にかけて、二つのエピソードを紹介しておられる。一つは、エミールが指物大工の家で非常勤の通勤職人として働く話、もう一つは倒れていた年取った農夫を助ける話である。先生はこの二つのエピソードについて以下のように叙述される。ここには、教育史とその実践に生涯をささげられた先生の軌跡が反映されているようにおもわれる。

「この二つのエピソードは、第三巻以来、労働と隣人愛をいわば社会的存在としての人間の二大資格として説いてきたルソーが、この作品のクライマックスとして構想したものでありましょうし、またその積りで読むべきでありましょう。」


梅根先生が1971年、和光大学開学6年目に書かれたこの本は、先生が大学卒業論文のテーマとなさった「教育思想史における自然概念及び合自然原理の発展」からの一つの結論としても読むことができるのではないかと、私には感じられる。すなわち、自然概念と合自然原理が最終的に赴くところがこの労働と隣人愛ではなかったのかとおもうのである。


先生が和光大学に託したものは、自然概念と合自然原理から労働と隣人愛という社会的存在としての人間の資格をいかにして形成するか、ということではなかったろうか。先生は「エミール」読解を続けた五十年の歳月の中で、それがいかに困難であるかを身をもって知ったがゆえに、それを成し遂げるためには、不断の実験が必須であるとおもわれたのではなかったろうか。それが242頁の「私は和光大学をやはり、ルソーの「エミール」の精神で運営してゆこうとしているのです。和光大学は大学レベルでの「新エミール」を試行しようとしていると申してよろしいと、私は考えているのです。」という述懐へと導かれるようにおもわれる。 


和光大学の新しい歩みにふれて付言する。

2021年3月8日朝日新聞朝刊の32面に、和光大学の「オープン・カレッジぱいでいあ」の広告が掲載されていた。

私はふと、千野栄一先生のことを憶い出した。先生は長く朝日カルチャー・センターでチェコ語を教えられた。向学心にあふれる一般の方々への学問的援助を先生は生涯保ち続けられた。


私は家族の理解と夜間への定時制勤務が可能であったために、昼間に和光において専攻科生および研究生を続けることができ、多くの出会いと支援とささやかではあったがみずからの学的成果を得ることができたが、特に時間的な制約のために、みずからの希望を十分には生かせない方々は多いとおもわれる。「ぱいでいあ」はこれまで、そうした人々に最先端の学問的成果を伝え、共に学び進む、絶好の機会をもたらしてきたであろうし、これからもさらにその必要度は高まってゆくであろう。並行して、Computer の応用が急激に進む時代はさらに拡大して続くであろう。和光大学がさらに新しい実験大学をめざす中で、こころざしを抱きながらも「その場でその時間に学べない」方々のために、 Web 上での遠隔講座等を含むより一層の新たな試みを続けられることを、切に希う。

たとえば必要とおもわれる以上の広範な資料を、教授側がWeb上に Upload しておき、学習者はその広範な資料の中から、自分に適した資料を選択し、思考し、その結果をふたたび資料によって点検・補正し、修整して、みずからの当面の結論を導き、それを教授者側に添付・送付するようなことは、現状でも可能な展開であろう。

Web上では、すでに多くの Charge Free (料金無料)な極めて有用な Tool が、多数提供されている。私自身の仕事もほとんどそれらを利用して行っている。現状では、日本語によるそれらへの Approach (接近)が必ずしも十全とは言えないので、そのためには、よく言われる Programming などの難しい方法ではなく、簡便な Web 上の英語による検索と Site 作成等の作業手順のための準備の講座をまず用意する必要があるかもしれない。

 Charge Free な自分にふさわしい Free Site を構築しておけば、みずからの Site と教授者の Site とを Time Free に、時間の制約なく接続して、みずからの Off Time、空き時間に勉強や研究を無理なく続けることができるであろう。問題はウイルスの存在であろうが、これも、量子暗号が急速に実用化の方向にあり、関連した暗号理論も進化しているので、通常の通信はより安全になされるであろう。私が言語の一つとして、Millennium の2000年頃に量子暗号の初歩を学んでいたとき、その実現は2020年頃となるであろうと言われていた。その予想はほぼ的中したと言える。

私が初めて Computer を操作したのは、1976年であった。新設された都立青梅東高校に転勤し、先進的な教育を考える教員の提言によって、小型の Computer が導入されたからであった。当時の私には、Computer の教育への援用は不可能とまでは言わないまでも、かなり難しいだろうというのが、実感だった。多くの教員も多分そう考えていたとおもう。確かに、試験採点の集計、平均点の算出等の数値処理は、格段に速く便利であった。しかし、生徒との対面授業に係わることが可能だとは、考えられなかった。しかし時代はその後急激に変わっていった。私自身は1986年に石南文庫を設立すると同時に、Sharp の X1を購入し、初歩的な Programming を含めて、いくつかの Data 処理に Computer を援用した。当時で1万円もした、小さな マウスが Computer 雑誌の広告に載っていたとき、確かにネズミに似ているが、何に使うかはまったく想像がつかなかった。基本的にIBM 系のマシンはすべてキーボードからの打ち込みだったからである。時代が急激に変わりつつあった。1999年に私は当時を回想した小文を書いている。


PAPA-WONDERFUL-27-COMPUTER


21世紀は確実に視覚言語の時代になると私は予想している。視覚言語は、高容量の情報を、ときに異言語の壁を越えて、 正確で迅速に伝達する。EMOJI 絵文字は、今や世界共通の言語の一つとなった。また LA TEX Symbol は今では楔形文字、エジプトの象形文字から現在使われている音符・音楽記号等に至る各種の符号までを、デジタル化しつつなおも進化発展を続けている。私はこの状況の言語的な背景を先年、いくつかの Paper および Essayとしてまとめた。 ここでは、日本語による Letter to Y. Toward Geometrization of Language 2018 と、英文による The Days of Ideogram Ideogram from hieroglyph to LATEX Symbol List 2018 を参考までに提示する。


LETTER TO Y.  TOWARD GEOMETRIZATION OF LANGUAGE

TH E DAYS OF IDEOGRAM IDEOGRAM FROM HIEROGLYPH TO LATEX SYMBOL LIST


かつて学んだ一学生として、和光大学のさらなる飛躍を常に願っている。




1967-1976



7.

1967 

Assumption to Wako



7.

1967

Assumption to Wako

1967年

和光大学への着任

華埜井先生はどのような経緯を経て、和光大学へ着任なさったのだろうか。先生が若き優秀な研究者であったことがその前提であろうが、新設ではあるが和光大学へ大学院博士課程修了と同時にフランス文学の専任講師として招聘されたことについて、私は今かすかな仮定を抱いている。それについては、和光大学初代学長梅根悟先生の略歴に触れることとなる。

昭和56年に白桃書房から刊行された和光大学経済学部による『マルサス・リカードとその時代』は「和光大学経済學部創立十五周年記念号」と「梅根悟博士追悼論文集」の副題を内扉に掲載している。この論集そのものは私にとっては当然難解で、十分な理解からは程遠いものがあるが、208頁から巻末にかけては、和光大学初代学長であった梅根悟先生に関する「梅根悟博士略歴および著作・論文目録」が収載されている。以下では「略歴・目録」と簡称する。私のこの論考で依拠する梅根先生の略歴・著作名・論文名については、すべてその内容から抽出したものであり、和光大学経済学部ならびに「略歴・目録」の作成者に深く感謝申し上げる。

梅根先生は、

明治36年9月、福岡県に生まれる。

大正8年4月、小倉師範学校入学。

大正12年4月、東京高等師範学校入学。「かたわら東京外国語選科(夜学)に入学し、フランス語を学ぶ。」

昭和5年4月、東京文理科大学教育学科入学。

昭和8年3月、東京文理科大学卒業。

昭和23年10月、「コア・カリキュラム連盟結成に尽力。副会長となる。」

昭和29年4月、「東京文理科大学より文学博士の学位を受ける(中世ドイツ都市における公教育制度の成立過程)。」

昭和37年4月、東京教育大学教育学部長。

昭和38年7月、東京教育大学学部長辞任。

昭和39年6月、「和光大学創設準備に着手し、「実験大学」の構想を練る。」

この略歴から、梅根先生は東京高師に入学するかたわら、外語の夜学にも入学しフランス語を学んでおられたことを知る。

先生語ご自身の著述については、先生は1971年5月に明治図書から『ルソー「エミール」入門』を上梓しておられる。


「私は大正八年に福岡県の小倉師範学校に入学しましたから、大正十年、三年生のころに教育史を習い、それでコメニウスだのルソーだのペスタロッチだのという、教育思想家の存在を知ったわけであります。また「エミール」のことを知ったわけであります。」

「私はそれから東京高等師範学校に入学しました。(大正十二年)」

「その頃は訳本で「エミール」全篇を読むことはできませんでした。そこで私は、エミールを読むためにはフランス語の勉強をしなければと思い、三年生になった四月から東京外国語学校の第二部(夜間部)フランス語科に入学することとし、それから二年間、そこに在学しました。だから私がフランス語の勉強をはじめたのは、「エミール」を読むためだったと言っても言いすぎではないのです。」

「昭和五年に私は東京文理科大学に入学しました」

「大学三年間の研究テーマとしては新教育運動の思想的、理論的源泉をはっきりさせる、ということに心をきめておりました。こうして選ばれたのが卒業論文のテーマ「近世教育思想史における自然概念及び合自然原理の発展」でありました。その中味は第一章がコメニウス、第二章がルソー、第三章がペスタロッチというわけでありました。」

「私は和光大学をやはり、ルソーの「エミール」の精神で運営してゆこうとしているのです。和光大学は大学レベルでの「新エミール」を試行しようとしているのだと申してよろしいと、私は考えているのです。」

「前後五十年の間、「エミール」をあたためてきました。そして私は、私の教育思想の育ての親はルソーの「エミール」であるとかたく信じております。」


以上の決意を、梅根先生は、1971年5月刊行の『ルソー「エミール」入門』で明確に述べておられる。

私がこの論述の中に、梅根先生と華埜井先生の信頼のきずなが見い出せるようにおもわれてなりません。先生の卒業論文のテーマ「近世教育思想史における自然概念及び合自然原理の発展」が華埜井先生の和光の『人文学部紀要 1966』に発表された論文「スタンダールと宗教」の「1.はじめに」での論述と深く和合するようにおもえるからである。以下で『紀要』の35頁から抽出し引用する。

「スタンダールは「百科全書派的精神に特別の信頼を持ち続けると共に、クレロー、ダランベール、ラグランジュの徒の如きが、物理的世界を当時了解せられていたような姿で表現するために用いた、あの美しく純粋な分析的構成法を模範として建設された一体系、明確に記され、論理的に組み合わされ得る精密な諸法則の、完成せる体系というものに人間の知識を還元しようとする、十八世紀後半の大願望をも恐らく失っていなかった。(3)」であろう」(3)ヴァレリー『ヴァリエテⅡ』, 113頁, 白水社刊

華埜井先生は、スタンダールが時代の中で生きる姿について、ヴァレリーを引用しながら簡潔に述べておられる。私には梅根先生と華埜井先生の近世・近代が合わせ鏡のように符合するようにおもわれるのである。

華埜井先生は東京教育大学で修士および博士課程を修了されている。フランス語に堪能でいらした梅根先生が何らかの形で、同大学でフランス文学を専攻されていた華埜井先生の存在を知り、その研究基盤に、あるいは梅根先生の若き日の「自然概念」「合自然原理」の研究におもいを致したこともあり得たかもしれない。そうしたことが部分的にでもあり得たならば、大学院修了直後の華埜井先生が、和光の仏文専任講師として招聘されたことは極めて自然におもわれてくるのである。

このような思索の結果、私は今では、華埜井先生の和光での論文は、あるいは梅根先生への一つの答礼も含んでいたかもしれないというおもいを禁じ得ない。華埜井先生は、梅根先生への感謝とみずからの研究と教授の新たな出発を重ねてお思いになりながら、論文「スタンダールと宗教」を若き和光大学に提示なさったのではなかったか。


8.

1967

Clean



8.

1967

Clean

1967年

清潔


華埜井香澄 (はなのい かずみ)先生はどのような先生でいらしたか。

華埜井先生は、

昭和14年1939年1月、愛知県東加茂郡に生まれる。

昭和36年1951年名古屋大学卒業。

昭和39年1954年東京教育大学大学院仏文専攻修士課程修了。

昭和42年1967年東京教育大学大学院仏文専攻博士課程修了。

昭和42年1967年4月和光大学仏文専任講師。

昭和46年1971年4月和光大学助教授。

昭和51年1976年4月26日に逝去され、和光大学より教授の称号を遺贈される。享年37歳。

先生のお名前は、『人文学部紀要 1 1966 和光大学 』裏表紙の表記では 「Hananoi Kasumi 」となっており、また編書である1972年に三修社から刊行された編著『悪魔のしっぽ -フランスのの昔話ー』の奥付では「華埜井香澄(はなのい  かすみ)」と記されているが、本論考では、実弟でいらっしゃる華埜井究氏のご教示に基づき、「かずみ」とし、英文の表記も「Kazumi」とする。

先生の生家は、真宗大谷派の寺院、愛知県に中世から所在する専光寺であり、先生は寺院を後継する専光寺住職第14世若院でいらしたが、のち学問の道へと進まれた。

私が先生をキャンパスで拝見した容姿はつねに端正であったが、私はフランス語初級を受講した、多くの受講者の一人にすぎず、先生と直接お話しすることはなかった。

先生の生家が寺院でいらしたことは、1960年代末の日本文学科の三、四年の学生の多分多くにとって周知であったとおもわれる。そのことを示す一つの要因は、初代文学科長でいらした近藤忠義先生が、自らの死去にあたっては華埜井先生に読経してもらうことになっているという話題が、少なくとも日本文学専修のゼミに参加していた学生が集う研究棟では周知になっていたからである。

私も編入学後、研究棟でまもなくそのことを仄聞し、近藤先生と華埜井先生との深い信頼関係をおもい図った。しかし、近藤先生が本当にそのようにおっしゃられたかどうかは、それ以上はわからないまま卒業に至った。

近藤先生の真意を確認できたのは、近藤先生が昭和51年1976年に逝去された翌年の1977年に、笠間書店から笠間叢書66である『日本古典の内と外』と題された先生の論考集が刊行されたからであった。この書は401頁の大書で、「編集者あとがき」を執筆された猪野健二先生はその冒頭で以下のように述べておられる。

「本書は故近藤忠義先生の戦後における学問上の業績のほぼ全体を網羅するものであり、その意味では戦前の「日本文学原論』とともに、先生の主著中の双璧と見るべきものである。」

この論考集の342頁に「後顧の憂い除く」という随想が収められている。その中で近藤先生は以下のように述べられている。

「長寿かどうかは別として、あとあまり時間が無いことは確かなので、数年前からそのつもりで、いろいろ計画を立ててはいる。たとえば、墓石は学生の石屋さんの娘さんに、読経は清潔な若い同僚に、それぞれお願いしてある」「朝日新聞」昭四六・四・一九

この文中の「清潔な若い同僚」が華埜井先生であった。近藤先生は「清潔」ということばで、華埜井先生の容姿を形容された。当時、華埜井先を身近で接した学生もきっと同様のことばで先生を敬していたのではないかとおもわれる。

華埜井先生の読経のお話しが学生の間に流布したのは、近藤先生がその学問とお人柄によって学生に深く敬愛されていたからだとおもう。その先生が若い華埜井先生を信頼している、その信頼関係が研究棟に集う学生の共感を呼んだのではなかったか。私が研究室でこの読経のお話を仄聞したのは編入学した1969年であり、近藤先生の随想には昭和46年1971年の記載があり、お二人の先生はその信頼関係を変わることなく継続なさっておられた。

近藤先生は兵庫県、華埜井先生は愛知県のお生まれで、日本近世文学とフランス近代文学のお二人は和光でどのようなお話をなさっていたのだろうか、今となってはもうお聞きする術はないが、今もときどきふとそうおもうことがある。

最後に、私にとっては近藤先生のおもいがけない一面を付記する。

平成30年2018年の夏の甲子園で、秋田県立金足農業高等学校が準優勝した。選手は勝ち進むたびに胸を張って校歌を歌い、一戦ごとに球場に感動を広げていき、私もその姿に感動した一人であった。そして私が注目したのはその校歌の作詞者が近藤忠義と表示されていたことだった。


私は大会終了後すぐに、金足農業高校へメールを送り、作詞者が和光大学の近藤先生であるかをお尋ねした。折り返し高校からご返信があり、「確かに和光大学の近藤先生です」、というご返事であった。「ただ作詞依頼等の詳細な経緯については、今となってはまったく不明です」、とのことであった。秋田県立金足農業高等学校の許諾をいただき、 以下に同校の Home Page に掲載されている校歌を転載するにあたり、同校のご配慮に感謝申し上げます。

これからも、近藤忠義先生の歌詞と岡野貞一先生の作曲による秋田県立金足農業高等学校の校歌は、悠久の大地を拓きゆく若人の姿を未来へと伝え続けるであろう、あの甲子園のさわやかな日々のように。 


 

 © 秋田県立金足農業高等学校 



9.

1969

If you be permitted to enter



9.

1969

If you be permitted to enter

1969年

もし君が合格したら

昭和44年1969年4月、私は和光大学人文学部文学科三年に無事編入学することができた。編入学応募書類を持って、多分2月のある日に和光を初めて訪れたときは、緊張していたのか、和光坂の付近は、当時はまだ小田急線との間に冬の水田が、細長く道に沿って広がっていたであろうに、その風景の記憶はまったく欠落している。ただ和光坂を上るところから、ああ、いい位置に建っている大学だなとおもったことをおぼえている。私は東京の西郊、狭山丘陵の麓で生まれ、育った。丘陵は親しいというより、私の体に沁み込んでいる。

大学の一室で、私は書類上の、特に取得科目と取得単位数が和光の編入学条件に合致するかどうかが気になっていた。外語は一年次から専門科目である中国語が突出して多く、私は日本文学専修を望んでいたが、それに類した単位は一般教養の「文学」以外まったく取得していなかった。担当してくださったのは、のちに職業教育等の分野で主導的な学績を示される山崎昌甫先生の若き日のお姿だった。

このとき面談してくださった山崎先生の温かさは、不安でいっぱいだった私の心をほんとうに優しく包んでくださった。私は先生に、「日本文学関係の専門科目はなにひとつ取得していませんので、文学科の場合、二年からの編入になるでしょうか」と事前に考えていたことをお伝えした。先生はこれに対して、「文学科の二年生は定員が一杯になっているので、今年度の編入学の募集は行なわないのです」とおっしゃった。「ただ三年は定員に空きがあるので募集します。もし応募するなら、三年になるとおもいます」と続けられて、私の持参した単位取得表を手に取って点検してくださった。私はそのとき、日本文学関係がまったく未取得で、一挙に三年へ編入することはほとんど不可能だろうと、そのときおもった。

しかし単位取得表を点検された先生のご返事に、私は本当に安堵した。先生は「単位取得の状況は和光と違いますが、総取得単位数は条件を満たしていますし、確かに和光は一年次から文学関係の専門科目の取得が入っていますが、あなたの場合は、中国語の専門科目の取得が多いので、それを読み返れば、和光二年修了時を満たすでしょう。」と私を安心させるように、穏やかに優しく説明してくださった。私がなぜ和光をめざしたのか等の個人的な状況には一切触れず、「受験資格は三年編入で大丈夫です」と励ますようにお話ししてくださった。なんという優しい先生なのだろうと感じたそのおもいは、半世紀を過ぎた今もまったく変わらず、むしろより強くなって私の心に残り続けている。

私が和光を卒業した1971年3月から、はるかのちの1990年代に、Internet による情報公開が通常となったとき、和光大学の Home Page に掲載されていた学生通信のバックナンバーによって、山崎先生が、和光大学設立準備時に法的なことも含む複雑な業務を準備職員の中心となって行っていたことを知った。そうした多忙の日々において一編入希望学生にかくも細やかで優しいお話ができる先生に、深い敬愛の念を抱き続けてきた。

私はこの年1969年に、和光以外の編入学の選択肢をまったく持っていなかった。今おもえば、もしだめだったらどうしたのだろうかとおもうが、この年1969年の正月に朝日新聞に新しい大学としてのいくつかの大学の一つとして和光が載っていたときに、どういう規模で、どんな先生がおられるのか等の条件を一切考えることなく、私は和光を選んでいた。


私の町に住む高校の大先輩で八十歳を超えられても研究を続けられている、日本近代史が専門で、のちに高校学校長になられた神山先生が、川崎庸之先生の著作集のことなどのことを、先生の御自宅で話題とされたとき、和光の川崎庸之先生と私との出会いを、「運命的だったね」、とおっしゃられたことがあった。私はそれまでそうしたことをまったくおもわずにいたが、そうか、運命的だったのかと今更ながらおもったが、和光への編入学も、やはり運命的だったのかもしれない。


老年になると、フランスの哲学者ガブリエル・マルセルがかつて述べたように「みずからの姿のすべてが遠い風景になったとき」、そうしたことがいくつかあったことに、あらためて気づくのであろうか。

和光についてはもう一つ、大きな転機があった。

教員勤務が八年目となった1978年、私は勤務二校目の都立青梅東高校の三年の担任として卒業生を送り出すと同時に、1979年4月には私も新しい方向をめざそうとおもうようになり、夜の定時制へ転勤し、昼間は修士課程等なんらかの新しい勉強を再開したい希望を織り込んで、この年に転勤願いを提出していた。しかし1979年2月になっても、定時制への転勤の見通しがなく、私は通常の全日制への転勤の準備を行ない、すでに一つの都立高校の面接を受けていた。その最終的な受諾の面接に行く当日、私が玄関で靴を履こうとしていたとき電話が鳴り、受話器を取ると、学校長から定時制転勤の空きができたので応募するかとの確認電話であった。私はその場で応諾し、府中市にある都立農業高校への面接に行くこととなり、そこへの転勤が数日後すみやかに決定した。もしこの日電話がなかったら、私は全日制への転勤となり、新しい昼間の勉学の希望は当面不可能となっていたであろう。

しかし1979年2月末頃のその時期は大学はすでに年度末に入っており、そのときからではもう大学での修士課程等への応募は難しくなっていた。ところが私が高校教員でかつ和光の卒業生であったために、当時私のところには毎年、和光の新しい大学案内が送られてきていた。それをあらためて開くと、専攻科への受験申し込みがまだ可能なようだった。そこには専攻科の受験申込用紙は入っていなかったので、私は普通の大学受験の申込書に、たしか専攻科の受験申込とはっきりと手書きして、和光に書類を送ったとおもう。もしだめだったら定時制には移れるのだから、また来年新しく方向を考えようとおもっていた。幸いにその申し込み用紙で、和光は私の専攻科受験を認めてくださり、1979年4月、試験を受けて、私は専攻科に入ることができた。

その頃の私は、もし修士課程に入るなら、現在までの高等学校国語科教員の履歴から、国語学あるいは国語史ならば応募が可能だろうかなどと、漠然の考えていた。そこからならば、のちに言語一般へ向かうことができるかもしれないなどと考えていたのだとおもう。しかし年度末の選択の中では最終的に和光が残り、私はふたたび、かつて学んだ人文学部で人文学専攻科生として受験に臨むこととなった。そのとき思い浮かんだのが、川崎庸之先生の仏教史を通して、学部在籍中は五山文学のことを少し調べただけで終わった日本仏教の歴史を通して、最低限でも古代日本の漢籍を少しは読めるようになるかもしれないと、短い時間の中で真剣にみずからの当面の研究対象を考えることとなった。しかし卒業後すでに八年を過ぎた中で、事前に川崎先生にご連絡を取ることはためらわれ、そうした連絡を一切行わないまま、私は試験に臨んだ。

教室で英語読解のテストがあり、その後口頭試問が別室で行われた。先生はお二人で、文学科で日本中近世が御専門の荒木繁先生ともうお一人はお名前を存じ上げない先生だった。荒木先生が中心となって試問され、最後に川崎先生にはご連絡していますか、と問われたとき、まだご連絡していません、とだけお答えした。通常はやはりそうすべきであったのかと、おもった。

幸いに無事合格した後、川崎先生にお電話でご連絡しご指導をお願いしたことが、その後 、専攻科生・研究生として七年間の長期にわたる先生のもとでの再勉強の始まりとなった。もしすみやかに定時制への転勤が決定していたら、あるいは私は合否を別として、まだ修士課程のなかった当時の和光ではなく、他大学への修士受験の方向をめざしていたかもしれない。しかし事実はこのように進んだ。それも一つの運命的なことであっただろうか。

高校二年の学年末の春近き中で、ルイ・エモンの『白き処女地』の読後を通して、稚拙ではあったが、宗教的な決定論と自由意志論の選択において、困難は続くとしても私は自由意志論の方に進むであろうという結論を出して、倫理社会の学年末レポートを提出したときから現在に至るまで、私の根本姿勢はそれほどの激変はなかったとおもう。

遠いむかし、父との会話の中で、父がふと、運命的なことはあるとおもうよと私に告げたとき、若い私は不満であったが、その後八十二歳で亡くなるまで、私のすべての行動に対して、父はつねに「おまえの好きなように生きなさい」と私を支援し続けてくれた。今は深い感謝をもって、さらには、運命的なこともあるかもしれないね、ということばを添えて、父に伝えたいおもいは尽きない。

1969年春の編入学に戻ろう。山崎先生の優しい励ましもあって、私は編入学試験を受けることとなった。ここで私は文学科の宮崎健三先生にお会いすることになった。

教室の筆記試験で英語読解があったことは記憶しているが、自由作文あるいは課題作文があったかどかうかはもうおぼえていない。これが済むと場所を移して、研究棟の宮崎健三先生の研究室に一人で伺ったとおもう。そこで面接試験を受けることとなった。この日の文学科への三年編入学試験は私一人であったようにおもう。研究棟は静まりかえっていた。

先生の研究室での試問の終わり近くで、宮崎先生は私に好きな詩人について尋ねられた。私はその内の一人に、東京都立青梅図書館で見て衝撃を受けた、21歳であった若き日の谷川俊太郎の詩集『二十億光年の孤独』を挙げたが、それ以外に誰を挙げたかは今はもうおぼえていない。もしかしたらその中の一人に、西脇順三郎を挙げたかもしれない。氏の『旅人かえらず』はそれまでの私の詩のイメージを大きく変えるとともに、詩の内容に小平など多摩地域の雰囲気が随所に感じられ、繰り返し読んでいた。萩原朔太郎や三好達治も好きだったが、その名を答えたかどうかは、おぼえていない。すると先生は最後に私に対してこう話された。「君の筆記試験がどうだったか知らないが、もし合格したら、私の家に来なさい。」

編入学試験合格後、まだ和光に登校する前の多分3月中に、私は宮崎先生の御自宅に伺った。どうしてそれが可能となったのか今も不思議だが、多分先生が面接試験のあと、電話番号を教えてくださったとしか考えられない。そうでなければ、先生の中野の御自宅の場所や、訪問日の決定などできなかったはずだ。

先生のお家は黒塗りの塀に囲まれて立派であり、先生の試験時の初印象がややいかめしい感じだったので、私はきっとおどおどしていたかもしれない。先生は私を座敷に招じてくださり、いろいろなお話をしてくださった。そのこまかな内容の一部しか今はおぼえていないが、その一つに、先生ご自身が現在取り組んでいらしゃる研究について話された。「今、伊良子清白について調べている」と。私も詩人のその名前だけは知っていたが、その詩を読んだことはまったくなかったので、お聴きするだけだった。先生は清白について、お話してくださったが、悲しいことに今はまったく憶い出せない。『大辞林』三省堂・1988年によれば、伊良子清白1877-1946は「幻想的神秘的かつ精妙な象徴詩人として「文庫」派の中心的存在であった。詩集「孔雀船」」と記載されている。編入学後、私は先生の「近現代詩」講読を受講したが、先生が日本の代表的な象徴詩人である蒲原有明1876-1952や薄田泣菫1887-1945を高く評価しておられたことを知ったが、伊良子清白について特別な言及はなさらなったとおもう。深く蔵しておられたのだろうか。

編入学後、私は先生が清廉でいつも慎重なご判断をなさり、教務部長をなさるほどでいらっしゃったのに、それゆえにどうして、「もし受かったら私の家に来なさい」とおっしゃたのだろうか。それがずっと不思議だった。家内とむかしの話をするとき、いつもそのことが出てきた。家内も、そんなことがあるのね、とそのたびに不思議がっていた。それにどうして、日本古典文学の素養等まったく持たなかった私に、明治時代の詩人伊良子清白を研究しておられるなどと伝えてくださったのだろうか。はるか後年になって、若年だった私自身を、青春に出会った一人の他者のように、かすかな遠景のようにみるようになってから、少しだけ先生の御気持が理解できるようになった。これは外語の教授でいらした、詩人・仏文研究者であった安東次男先生のお宅をアポイントなしで訪問したときも、先生は私をあたたかく迎えてくださったこととも通ずるとおもうが、私が非学で、才うすき若者であっても、それなりに学ぶことに真剣で、文学をあまり読んでいないようだが詩が好きな、こころざしだけはなんとか持っているらしい田舎の青年を、寛大に処遇してくださったのではなかったか、そんなふうにおもうようになった。

高校時代の親友だった金子は私に面と向かって、おまえそれでも物理をやるのか、と言い切ったが、私は本来の楽天をどこかに持ち続けたまま、多分大人になった。語学も好きだが、たいした実力もなく、数学にもあこがれたが、現代数学をかすめるだけで、大人になった。詩が好きそうだが、詩もあまり書けそうでもない。そんな人間であったことは確かだった。しかしそのどこかにいつも一条の真剣さがあったのではないか。他者としての私は、そんな貧しい青年であった。

初めて赴任した立川市に所在する都立北多摩高校で、美術部の生徒が、大部分の先生の似顔絵と足先までの姿を細密であるがどこかコミカルに描いて、二階の職員室近くの通路に展示したことがあった。30枚近くあったとおもう。美術の先生で、未熟な私をよく助けてくださった斎藤先生が、「田中さん、田中さん、おもしろいから、通路にきてごらんよ」と誘ってくださった。リンゴを落としている物理の先生、教卓を押したまま、廊下まで出て行ってしまう先生、梅干しのような酸っぱい顔をなさった先生等、多彩であった。ところが当然だがみんな足を地面につけている。その中で私はただ一人、スーパーマンのように空を飛んでいた。斎藤先生はひとりでおもしろがって「これが田中さんなんだな」とか言ってひやかした。そんな日々もあった。


 

東京都立北多摩高校校庭

サッカー部顧問の私

後年写真家となった担任クラス男子の撮影

1972年秋


だから外語の安東先生も、和光の宮崎先生も、紙人形のようにたよりない、しかしどこか憎めない私の背中を支えてくださったのではなかったか。俳句を教えてくださった佐伯先生もそうしてくださった。いまはただ感謝するばかりで、なにもお返しできなかった。

話を戻そう。宮崎先生は、お話が一段落すると、私をお家の二階に案内してくださった。広い二階のほぼ全面が先生の書庫となっていた。書棚が幾筋も並び、そのいずれにも書籍がびっしりと収まっていた。先生はその中から一冊の詩集を取り出して私に示してくださった。それはなんと、中原中也が自筆署名して宮崎先生に送った献呈本であった。

先生の御宅を辞去するとき、先生はご自身が書かれた古典文法の御本を私にくださった。そして、専門家になるように、と励ましのことばを添えてくださった。

私はこうして和光での勉学を続けることとなった。二年間はまたたくまに過ぎ、卒業間近となった1971年早春の2月頃、私は宮崎先生からお葉書をいただいた。内容はほぼ以下のようなものであった。「おめでとう、田中君の北多摩高校への着任が決まった。昨日校長から私のところに連絡があった。」というものであった。

翌日私は宮崎先生の研究室に伺い、お礼を述べた。先生はほほえみながら私に伝えてくださった。「北多摩の校長が私の大学の後輩で、私のところに田中君の照会の連絡があったので、推薦しておいたから、もう大丈夫だ」と。

私はこうして、宮崎先生の面接を受けて入学し、先生の推薦をもって大学を卒業することとなった。これもやはり、運命的なものであったのだろうか。

卒業後も私は友人二人とともに、年の初めに幾度か年始に伺った。ある年の年始のときは、通していただいたお座敷で先生が天井近くを指さして、「今年は久しぶりに一陽来復のお札をいただきに行ったので、早速南の方角に張ったよ」と楽しそうに話してくださった。教員になった酒井君と山本君がいつも一緒だった。この年始は、みなが結婚や子育てなどであわただしくなるころまで続いたとおもう。先生はいつも優しくおだやかに私たちを歓迎してくださった。

先生はまた、和光大学文学科日本文学専修の卒業生たちが発案し成立した、先生方と卒業者との同窓会兼研究会となった和光大学日本文学会の初代会長をお引き受けくださった。常任委員会が行われた中野サンプラザでの会議終了後、中野サンロードの喫茶店で、来会してくださった先生方と様々なお話できたのが私たち常任委員のたのしみでもあった。宮崎先生、池田先生、佐伯先生、杉山先生、武田先生等がご一緒のことが多く、まるで小さな同窓会のようであった。私たちはまだ二十代の終わり近くでみな若く、いまでは限りなく懐かしい。

以下で、宮崎健三先生の生涯と学績の一端に触れる。

先生は明治44年1911年に富山県のお生まれで、東京文理科大学国文学科を卒業後、東京教育大学附属高等学校教諭、東京教育大学教授を経て、1966年に新設の和光大学教授となられ、あわせて教務部長として、学務の重責をこなされた。

宮崎先生の国文学上の学績は、先生が40歳となられる昭和26年1951年に『日本文学概史』、翌昭和27年1952年に『日本文学要史』を、当時東京教育大学教授であった能勢朝次(のぜあさつぐ)先生との共著で博文堂出版から刊行されたことを嚆矢とするとおもわれる。私は『日本文学概史』は未見であるが、刊行年順から推察してこの書の簡約版が『日本文学要史』であったとおもわれる。

共著の執筆分担がどのようなものであったかは『日本文学要史』では記載がないので不明であるが、私の予断としては、少なくとも『日本文学要史』においては、宮崎先生がその多くを執筆なさったと推察する。その根拠は、大変幸いなことに、私が所持する『日本文学要史』は昭和31年1956年の十二版であるが、その書中にB6判ほどの博文堂出版の「急告 宮崎健三著 日本文学要史 解説と指導書」と題された折り込み広告が挟んであることに拠る。この広告では本書は宮崎先生の専著となっていることがわかるからである。またこの広告の末尾には「教師、学生は言うに及ばず、余暇をおしみ定時制に学ぶ学生にもその便宜を与えるものと確信する」と記されており、戦後日本の若々しい向学への息吹を感じさせている。

なお、宮崎先生の著作について付記したい。

ウィキペディア日本版の「宮崎健三」の項には、「共編著」の冒頭に、以下のように記載されている。


「 ■ 陳中和翁伝、1931 植民地帝国人物叢書 18(台湾編 18)ゆまに書房 2009.1」


この書は確かに2009年に、ゆまに書房から再刊されており、その奥付には「編輯兼發行人」として「宮崎健三」と記され、発行所の記載はないが、「印刷所」が「株式會社臺灣日日新報社」となっている。現在までのこの書出版に係わる関係者の精査によって、 この方は和光大学教授でいらした宮崎健三先生とは同姓同名の別人物であると考えられるので、和光大学の宮崎先生の著作としては本論考では記載しないことをご了承いただきたい。私の申し出に対し、ご多忙の中で精査にあたられた関係者に深く感謝申し上げる。 


宮崎先生は和光大学では、講読として「日本近現代詩」を、またゼミナールでは「万葉集」を中心として講じておられた。私は編入学した1969年の三年次において、講読の「日本近現代詩」を受講した。当時の未熟な私にも、先生の日本近現代詩に対する解読の精緻さはひしひしと伝わってきた。特に明治中葉から昭和初頭における日本の象徴詩の解読は詩句一字一字について解読がほどこされ、この講読を通して、初めて薄田泣菫、蒲原有明、伊良子清白等の象徴詩を精密に読むことを教えていただくことができた。先生はすでに『日本文学概史』『日本文学要史』において日本近代文学の脈絡を自家薬籠中のものとしておられたであろう。今『日本文学要史』を開くと、その115頁で以下のように簡潔にして十全とした「象徴詩」の位置を記述しておられる。

「象徴詩 西欧の象徴主義は自然主義のあとにおこっているが、日本では自然主義以前から詩壇へはいって来た。」

私が外語に入った1967年に愛読した上田敏の『海潮音』についての記述もすばらしい。

「「海潮音」は上田敏(明治七年ー大正五年)の訳詩集で、明治三十八年に出た。文壇に与えた影響は異常に大きいものであって、薄田泣菫・蒲原有明・北原白秋・三木露風たちは、すべてこの集から大きな感化を受けている。「海潮音」はヴェルレーヌ・ボードレール・ヴェルハーレン・マラルメら象徴詩人の作品の訳で、それはすでに一つの創作と言ってよいほどの名訳である。」

この全163頁の『日本文学要史』は、宮崎先生が書かれた名著と言ってよいのではないだろうか。記述の一文一文が、簡潔でかつ精密である。それを示すために、本文140頁の夏目漱石の記述を引用する。

「かれの小説がすべて知識階級の人々を主人公にしているのは、知識階級が日本の近代文明の矛盾を最もよく悩んでいると判断したからである。かれの作品で知識階級の人々がエゴイズムの種々なすがたを見せているのは、かれらが日本の近代文明の矛盾の重荷を最も多くになって、自分のエゴイズムに没頭する結果、不幸に陥ってゆくすがたを描こうとしたからである。ここに漱石によって発見された近代文明の最大の課題は、今日といえども本質的な変化を見せてはいないからである。」

簡潔にして精緻であり、これ以上の要約はありえないほどの行文である。私は先生生涯の畢生の書であることを疑わない。

先生は和光就任後の1969年から1987年までに『北濤』『鬼みち』『古典』『類語』『天狼』『望郷』と続く6冊の詩集を刊行なさり、同時に1982年には『現代詩の証言』と題する現代詩史を宝文堂出版から刊行された。先生は旧制高校時代に詩人として頭角を現わし、みずから昭和4年1929年、詩誌『北冠』の首唱者となられ、その発行所をご自宅おかれた。小説家、井上靖はこの『北冠』に七編の詩を寄せたことが、『現代詩の証言』21頁に記載されておられる。この書の巻頭の「詩の証言(一)井上靖の詩」は7頁から63頁におよび、宮崎先生はふたたび文学史家として、『日本文学概史』『日本文学要史』を継ぐ日本現代詩史を著述された。しかし先生の本質は詩人であろう。私はそれを確言する。先生の書かれた文学史は同時に散文詩であり、従って稀有の書となった。 

『現代詩の証言』142頁から144頁において、先生は金井恵美子という私のまったく知らない詩人について記述しておられる。その一詩全部と先生の評言の末尾を以下に記す。

「 金井恵美子

  わたしは行方不明

わたしは心せきながら

 わたしから出ていくだろう

わたしは草におおわれた道標を

 見落とすことがあるだろう

わたしは赤い実をもいで

 皮ごとたべるだろう

私は虫にさされた痛みを

 なめて治すだろう

わたしは川底の石ころを

 意味もなく覗いたりするだろう

わたしは種をまいて 芽が出て

 花が咲いても泣くだろう

わたしがわたしの幻を捨てたとき 

 わたしは行方不明になるだろう 」

「金井恵美子さんは昭和五十四年八月に四十三歳を一期として長逝した詩人である。」

「「辞世の歌」という分類に位置づけてみたとしてもどうにもならない。私はこの一篇の光りと重さにうたれた。」

「「種をまいて 芽が出て 花が咲」くのは、彼女がみずからまいた生の種の生の墓に咲いた花である。車椅子の一生が咲いた一輪の花は、つまり詩にほかならぬ。花は幻であった。彼女は生涯をついやして咲かせた幻の花をあとに行方不明となる。」

ここに二人の詩人の邂逅をみるのは私だけであろうか。

私は先生にお会いできて、幸せであった。




10.

1969

Crowd



10.

1969

Crowd

1969年

雑踏

私は文学科3年に編入学したときから、芭蕉あるいはそれに近いゼミがあれば参加させてもらいたいとおもっていた。近世文学では、文学科長であった近藤忠義先生の歌舞伎関係のゼミと、佐伯先生の芭蕉のゼミであった。

近藤先生から私は、日本文学史を受講することとした。講座ではグループ分けがおこなわれ、私は自分のグループでの発表を室町時代の五山文学を希望し、それがかなった。中世禅僧の残した五山文学の詩文は難解であり、また1960年代では完結すれば膨大な量となる玉村竹二先生の五山文学新集の編纂がまだ進行中であった。私はできたらその新しい成果を一部なりとも、確認してみたかったが、そのときは果たせなかった。また日本での漢文受容がいわゆる書き下し文によって行われてきたことに対し、私は中国詩文の一支脈とも解された五山文学を、現代漢語音で通して読み、その韻律を含めた日本の受容の形態を調べてみたいと、前からおもっていたからである。

しかし五山を読み始めると、予想以上の困難があった。まず、総覧的に読める選集の類が当時はほとんどなかった。次に私の現代漢語の水準では、中世禅僧の、多分に中国文献から移入したとおもわれる難解な漢語を現代漢語音で読み通しかつ理解する力量が極めて不十分であった。それは当然であった。後年、岩波書店から日本古典文学大系の新版が刊行されはじめ、その中に入矢義高先生の『五山文学』が1990年に刊行されて、わかったことであったが、五山の詩文には中国宋代の詩語、口語また方言等が微妙に交錯しており、入矢先生が生涯をかけて収集し続けやがて辞典とすべき学績を、先生はついに刊行することはなかった。

この入矢先生の『五山文学』に付された「月報 18 1990年7月 第48巻付録」で安良岡康作(やすらおか こうさく)先生が「中世文学における五山文学」において、五山文学研究の現況を以下のように書かれている。

「五山文学を、中世禅文芸全体の中から、五山派に属する禅僧の制作した漢詩文と規定したことは、『五山文学』『五山文学新集』(全八巻)『五山禅僧伝記集成』『日本の禅語録八 五山詩僧』『五山禅僧宗派図』等に一貫している、国史学者、玉村竹二氏の業績であって、将来のこの方面の研究の方向を定められたものと言ってよい。」

私は日本文学史の発表で、五山の概要をまさしく初歩的レベルで述べることしかできなかった。最も重要と当時おもっていた、宗教と文学の相克も葛藤も、ほとんどなにひとつ具体的な例証を挙げることなく終わった。しかし和光への編入学は、私にこれからの、ほとんど無限ともおもわれる、広大な学問の裾野を遠望させてくれた。それは教養課程の外語では際会できなかったことであった。

それまでなにひとつ調べることなく、1969年の正月に朝日新聞に載った小さな新しい大学の記事の中に「和光大学」というまったく未聞の大学名を見ただけで、私は直観的にこの大学への転学をおもい立った。半世紀を超えた今、それは大仰でなく、運命的な出会いであったと確信をもって言えるであろう。私には、この上ない無上の邂逅であった。

1971年2月、近藤先生は、日本文学科2期生で、教職に進んだ私を含む三名を先生の御自宅に招待してくださった。先生が研究をなさる和室であったとおもう。先生はいつものおだやかで静かで、いつもの若い人たちにほほえむような話し方で、私たちの新しい出立を祝してくださった。先生のお話の細部を思い出すことは困難だが、先生が三人に手ずからお茶を淹れてくださりながら、「私の名前は、忠と義だからね」とほほえみながら話しかけてくださったことが忘れられない。そして私に対しては、「田中君のレポートは細かいね」と批評してくださった。学年末のレポートで、私は『万葉集』の最後の大伴家持の歌について、思うところを書きしるした。家持の中の去り行く古代への挽歌を、なにか例証を挙げて書いたことまではおぼえているが、それ以上は今憶い出せない。私は単純だから、先生のこの批評を、学問的には極めて厳しい先生からいただいた、出立の励ましの優しいおことばとして、卒業してゆくことができた。

佐伯昭市先生と初めてお会いしたのは、土曜の特講「正岡子規」であった。土曜とあって、受講者は4月から少人数であったが、佐伯先生の講義は丁寧で重厚であった。私は外語の教養課程では味わえなかった、専門科目の魅力を初めて感じた。土曜ではあったが、私は多分一日も休むことなく受講した。初めての受講終了後、私は佐伯先生に、先生の芭蕉のゼミへ参加したい旨をお伝えした。そのとき私は、この日のお願いのための、にわか勉強で少しだけ読んだ『三冊子』を「さんさつしを少し読みました」と述べると、先生は「ああ、さんぞうしですね」としずかに応じてくださった。私はみずからの無知が恥ずかしかったが、先生は「いいですよ。どうぞ」とお答えしてくださった。こうして私は、この論考ではとても述べきれない、先生からのご好意を、在学中も卒業してからも、無尽蔵に近くいただくこととなった。その一端を、Influential 4 のMemorandum に記載した。

INFLUENTIAL 4

先生の土曜の講義は「子規」おひとつで、私も先生の特講を受講するだけであったので、講義のあと少しだけ、先生の研究室でお話ししていただくことができた。こんなことは外語では皆無であった。さまざまなお話を伺ったが、いちばん貴重であったのは、私自身が先生の影響で、まったく未知であった俳句を作ることの手ほどきを、先生みずからの個人レッスンで教えていただけたことであった。このようなことは編入学前、まったく予想しなかったしあわせなことであった。

あるとき先生は「切れ字」について教えてくださった。「霜の墓抱き起されしとき見たり」という石田波郷の名句について、先生は「この句は、霜の墓のところで切れて、ここでこの句が二分される」と話してくださった。私はここに俳句の真髄があることをかすかにではあるが感じ取ることができた。私はこうして、先生が主宰する句誌『檣頭』(しょうとう)への参加をお願いするようになり、きわめて未熟な句を投句することとなった。

卒業後、先生の御自宅を訪問し、門前で来意を告げると、奥様がお出になってくださった。私はふと門柱に掲げられた先生の以前の句誌『炎群』の標札に目をとどめると、奥様は「子供がいないから、あの人にとって、句誌は子供みたいなものなの」と話してくださった。奥様の優しさと先生への深いご理解が、今も奥様の門前のお姿とともに憶い出される。

和光にもようやく慣れ、素晴らしい出会いをいくつも経験し、日々の体調も良好となった初夏、私は久しぶりに懐かしい新宿に出た。外語のときはよく土曜のあと、新宿東口の紀伊国屋書店に寄ることがあった。この日も東口の階段を上がり、初夏の光のまぶしい路面に出たとき、私は言い知れない幸福感に満たされていた。そして自然にわきあがった想いの句が浮かんだ。数少ない私の句の最初期のもので未熟であることは承知しているが、半世紀前のこの句が、今もなお、私の最も好きな句となった。

光の海雑踏はすずしいあじさいの花




11. 

1969- 1970 

Russian, French, German and Korean language



11.

1969- 1970

Russian, French, German and Korean language

1969年―1970年

ロシア語、フランス語、ドイツ語 そして朝鮮語

1969年4月、私は無事和光大学人文学部文学科三年に編入学した。和光の二学年修了時までの外国語、前期一般教育科目の、外語からの和光への読替と振替については、編入学前に親身に相談に乗ってくださった山崎昌甫先生の編入学後の御尽力もあって、体育以外はすべて完了し、体育のみはすでにグループ学習を続けているので、永井先生の途中参入は困難とのご判断で、それに代わる幾度かのレポート提出を案内してくださった。和光一年時履修のプロゼミについては、外語の中国語専門科目を週8コマで履修習得しているので、その一部をもって振り替えてくださったと記憶している。この一連の処置に対して私は、新年度の多忙なときに山崎先生がなさってくださった、身に余るほどの御尽力に、今も心から感謝している。私は短い一篇の詩を、山崎先生への感謝を込めて、書き綴ったことがある。

AT THE LAWN TERRACE BEFORE LIBRARY

しかし私はそれほどまでにして、私という一学生のやや特殊な大学からの編入学のためにご尽力してくださった山崎先生に、卒業に際して、私はなにひとつの御礼も申し上げることなく卒業した。その悔いは今も深く残っている。私が先生にお礼を述べたいと痛切に感じ、先生の近況をGoogle で検索したとき、先生はすでにその数年前に逝去されていた。私という人間のありようがそこに凝縮されていた。私は、自分のことしか考えない、そうした生き方しか、してこなかった。


1971年3月の和光卒業に際しても、教職という進路は確定していたが、そして多くの方々に支えられてきたのに、私はみずからの生涯の目標を見極めることが、まったくできないでいた。

私は大学に学ぶために来た。しかしそこからさらに何かの新しい目的に向かって歩む、そのための準備や方途をまったく考えることがなかった。私はただ、いくつかの言語状況についてアジア諸語の一部から西欧諸語の一部に至り、その中で言語の本質を探究したいというような、亡羊とした思いを抱いているだけだった。

1970年の夏だったとおもう。私は乗換のために下車する当時の国鉄八王子駅北口のくまざわ書店で、一冊の厚い詩集と出会った。フランス装というのであろうか、柔らかい表紙で思潮社から刊行された新刊、清岡卓行著『清岡卓行詩集』だった。その場で読んだ一篇に私は心を奪われた。私が今なさねばならないことが、そこに、つらかったあの入院の日々をも含めた完璧な形で、現前していた。

購入したその詩集を私は今保持していないが、のちに購入した『清岡卓行全詩集』思潮社 1985年からその長詩「大学の庭で」の後半を引用する。

「そこで若し きみに

死への夢から生の建設へ向かう意思が可能ならば

そして若し きみに

なんらかの好ましいが学問がありうるならば

それこそは

きみの純潔を裏切ることが最も少なく

世界へのより豊かな愛をいつもかたどる

試みにほかならぬのではないだろうか?

なぜなら きみの純潔は

どのような憤怒の極北にあっても

きみ自身にとって美しいものだけは

どうしても拒むことができなかったからだ。

つまり

美しいものにおいて自己を実現すること

そのきびしく結晶されるかたちこそ

学問と呼ばれるわざくれに

きみの魂の血液を

惜しみなくめぐらせることではないのか?

その拠点からきみは さらに

美しいものすべてを眺めることができる。

それはきみの微かな不死だ!

きみは選ばなければならない

きみのたどるひとつのさびしい学問を。

なかば 偶然のように。

そして なにものかに 深く羞じるように。

(おそらく きみの見知らぬ

  この世の悲惨な現実に

  直観的に

  無意識に羞じらって。)

他のさまざまな可能性を捨てることは

いかにもさびしいことなのだ。

きみが読みふけった

あのアカシアと社交界サロンの町の

病床の作家が若い頃しるしたように

どのように大きい一輪の現実の花も

空想の花束にはおよばないかもしれない。

少なくとも 無為のためには!

しかし やがて

きみの恋人の懐かしい個別性の中にしか

人類の温い深みが無いように

きみの学問と創造の特殊性の中にしか

世界の美しい真実は

ありえないはずなのだ。」

和光での1970年の秋学期が始まると

旧図書館前の掲示板には、来春卒業する四年生のための掲示が少しずつ増えてきた。しかし私の心は空虚だった。清岡卓行の詩のスタンザが木霊していた。

「きみの恋人の懐かしい個別性の中にしか

人類の温い深みが無いように

きみの学問と創造の特殊性の中にしか

世界の美しい真実は

ありえないはずなのだ。」

外語で二年、和光で二年、学んできたはずなのに、私にはいかなる「学問」もなかった。その現実が身に染みた。外語でのひたすらな語学訓練、和光での自由で多彩な受講と先生方とのふれあい。その四年間の中で、「きみは選ばなければならない」はずだった。しかし私にはそれができなかった。掲示板の前のにぎやかさの中で、私の肩は沈んでいた。

なぜだったのか、今は少しそれがわかる。私は勤勉だった。それは認めよう。しかし私は凡庸だった。他者が私をどのように評価しようとも、私はみずからの凡庸さを痛いほど知っていた。高校時代に席を隣あった金子は、そのことを私の面前ではっきり言っていた、おまえが物理をやるのかと。のちの和光の研究生時代、千野栄一先生は、「構造言語学」の講義のあと私に言った。「そういうことはやめろ、それはWittgenstein などがやることだ、おれたちのやることではな」と。

凡庸な人間が天分のある人々にあこがれる、私はその一人だった。大人になっていく中で、人は多くを学び、さまざまな多様な価値を見い出し、そうしたあこがれを脱し、みずからに独自な生き方を習得する。しかし私はそのあこがれに固執した。急にはできない、しかしゆっくり時間をかければ私にもできることがあるかもしれない、そうおもっていた。そのためには多くの時間を必要とするかもしれない、そのことも自覚していたはずだった。

清岡卓行の詩句が身に染みた。

「きみは選ばなければならない

きみのたどるひとつのさびしい学問を。」

その「さびしさ」が秋学期の掲示板の前に立つ私の足元を

木の葉のように散っていた。

しかし私はあきらめなかった。私の中にある、楽天性がわずかに悲観性をうわまわっていた。言語学の講義の中で、語素が出てきたことがあった。その先生はおっしゃった。語末の変化、すなわち活用や曲用によって、こまかな文法的変化を具体化することができると。私はおもわず挙手して質問した。それでは語形変化のまったくない中国語の場合はどうなりますかと。先生のお答えは簡潔だった。「今は中国語を除外して考えます」。

広大な中国語圏、正確には漢語圏を、まったく除外した言語学。アルファベットで代表される西欧言語学では覆いきれない広大な言語世界が、少なくとも私の目の前に、すなわちこのアジアに広がっている。表音文字のため、文字学が深化しなかった西欧の言語学に対して、中国の言語学、「小学」は、紀元前の「詩経」の音韻学等検討を経て、中国の近代、清代には目くるめくようなめざましい深化を体現していた。段玉裁、王年孫、王引之、王国維、章柄麟等々、枚挙にいとまがない。ここにひとつの大きな基盤があることを、私ははっきりと認識していた。そこまでは行っていた。しかしその先へどう進むか。清代の「小学」を祖述するのは私には魅力がなかった。未知の世界へ、しかしどうやって。 

「きみは選ばなければならない

きみのたどるひとつのさびしい学問を。」

和光で私は決して無策であったわけではない。1969年編入学とともに、私は千野栄一先生のロシア語を受講し、単位を取得した。学年末試験は口頭試問で、先生が提起したロシア語の、語形変化を口頭で答えるものだった。翌年1970年には、ナタリー・ムラビヨワ先生のロシア語会話を受講し、単位を取得した。1970年四年生の受講届をB棟で提出したとき、職員の女性の方が、私のロシア語、フランス語、ドイツ語、朝鮮語の受講申請に対して、「言語学を専攻なさるのですか」と尋ねられたが、普通にはそう見られたかもしれない。

ロシア語はまったく未学習であったし、その文字がキリル文字であったため、多くの初心者がその文字が障害になったと述べているので、それは早く親しんだほうがよいとおもっていた。それに対してフランス語とドイツ語についてはその初歩は既習であったので、語彙を増やし講読に慣れるのが主目的であったため、結果的には単位取得までは至らなかった。1970年の秋学期が始まったドイツ語で、女性のおだやかな先生が、出席確認のときに、「田中さんは試験を受けませんでしたね」と尋ねられた。春学期、多分皆出席に近かったため、不審におもわれたのであった。私は申し訳なく、単位が目的ではありませんでしたので、すみません、とお答えした。今おもえば不遜で失礼なことであった。しかし先生はわかりましたとだけおっしゃってくださった。

私のアジアからの言語学習は、1960年代末の私はもう一つの夢を抱いていた。それはモンゴル語の学習へとつなげることだった。現在のモンゴル語の言語表記 system には伝統への回帰が見られるが、1960年代末のモンゴル語表記は旧ソ連の影響もあって、ロシアと同じキリル文字が採用されていた。キリル文字が読めれば、あとはモンゴル語の文法に集中できると単純におもっていたのであった。モンゴル語には日本語にも部分的にみられる母音調和等の、魅力的な言語事実があり、かつ、私の中では、日本から朝鮮半島へ、そして中国大陸に入り、モンゴルの高原を過ぎ、ロシアへと入ってゆく、いわば Silk Road 絹の道の、逆コースを知らず知らずのうちに選択していたことになる。

Silk Road の南道を行けば、チベット語からサンスクリット語への道が並行して存在した。それは当時顕著に意識していたことではなかったが、1979年に専攻科生になり、日本古代の仏教典籍で代表される漢語資料の豊富さに直面し、その初歩的な読解に多くの時間を割くようになり、Silk Road の言語的逆走の夢は実現しなくなったが、新たに、『大正新脩大蔵経』100余巻の広大な世界と出会い、私はこの初歩的な講読に、かなりの時間を割くようになった。特に魅力的であったのは、大乗仏教後期に高揚した、無著・世親等の精緻な仏教哲学の諸典籍群との遭遇であった。ワトソンとクリックの螺旋構造の遺伝子を彷彿させるような空間認識構造に出会うなど、今もなお『大正新脩大蔵経』は、私にとって無限ともおもわれる魅力を蔵し続けている。この道へ導いてくださったのはすべて、専攻科時代の恩師、川崎庸之先生によるものであり、先生は私の生涯の師となった。


川崎先生から教示されたことはほとんど無数であった。ある日先生との会話が法制史のことにふれたことがあった。私はふと法制史の泰斗、中田薫先生のことを尋ねた。「中田先生はどんなお方でしたか」。先生の御返事は即座で簡潔であった。「白皙、鶴のような人だった」。先生と小説のことをお話したことはほとんどなかったが、あるとき幸田露伴に及んだとき、先生は「こうだろばん」と呉音的に発音された。日本古代には通常であった呉音の優しい響きを先生は好んでおられたとおもう。先生から指導を受けなかったら、私は仏教や歴史の書籍について、ほとんど無知に等しかったとおもう。先生からの教示がなければ、日本古代漢文を網羅した柿村重松著『本朝文粋評釋』上下二巻、冨山房、大正十一年刊を私が知り得ただろうか。私だけでは矢吹慶輝の生涯をかけた大著『三階教之研究』岩波書店、昭和二年刊に遭遇することはあり得なかっただろう。この書によって、私は浄土教が中国を含め、いかに広大で幽遠な歴史を含んでいるかを垣間見た。さらに決定的な一冊がある。それは、川崎先生の東大時代の恩師、常盤大定著『佛性の研究』丙午出版社 1930、国書刊行会 1972再刊、である。私はこの書のインドから中国を経て日本に及ぶ仏性の精緻な論証の一部を読み、この学問世界は私には遠く、はるかに及ばないものであることを認識し、これ以後私は仏教の理論的側面から離れ、『大正新脩大蔵経』の一読者になることを決めた。

華埜井先生のフランス語は、ほとんど無準備の状態であった教員試験のために、夏休みの前に単位取得をあきらめることとした。最も早かった山梨県の高校教員の試験は、夏休み中の八月に迫っていた。私はそれまでなにひとつ準備らしいことをしてこなかったので、夏が近づく中で思い立ち、和光の図書館で多分7月は閉館近くまで、ほとんど連日、一冊の問題集を解き、必要な部分を暗記することに努めた。私の語学への受講態度は恥ずかしいが、散漫といえばその典型であった。今思い返せば、悔やむことばかりであった。華埜井先生のフランス語教授に臨まれた姿が、今の私には憶い起こせない。先生がフランス語のどのような点に焦点を当てて、初学の私たちを指導されたか、それも憶い出せない。以下は私が卒業したのちの昭和48年度1973年度の『講義要目』に寄せた、華埜井先生と林辰男先生の受講者へのコメントである。

「フランス語 初級 B② B⑦

この講座は文法ということになります。何もげっそりすることではありません。フランス語は実に論理的な、というよりむしろ堅牢な文法構造をもっています。往々誤解されるような甘ったるいものではありません。明瞭でないものはフランス語ではないといった名言もあります。うんざりするほどりくつで押してきます。だからかえって組みしやすい面もあるわけで、その気になれば数式を解くような面白みもあります。知的作業の基礎としてこれほどいいものもないでしょう。しかし、自発性が要求されます。といっても、必ずしもかた苦しいレッスンにするつもりはありません。」

この文章はお二人の先生がなさる講座の受講案内であるが、文全体の印象が、他の華埜井先生のフランス語講座の案内と似ているので、私には、多分先生がお書きになったのではないかとおもわれる。「論理的」「堅牢な文法構造」「りくつ」「数式を解くような面白み」「知的作業の基礎として」「自発性」、これらの語群が先生のフランス語への案内となっているようにおもわれる。特に「数式を解くような面白み」ということばは、もし先生のことばであるとすると、きわめて特徴的なものであろうか。以下の引用を参考にすると、さらに先生の姿が明確になってくるのではないだろうか。私が四年であった昭和45年度1970年度の『講義要目』に所載された、文学科専門科目・フランス文学の華埜井先生の講座案内である。私は受講したかった、しかし高度なゆえにあきらめた、私にとっては、先生畢生の講座のひとつではなかったか。

「フランス文学  華埜井香澄

『テスト氏』をめぐってヴァレリーの文学の方法を探る。たとえば、観念と事物とのあるいは言語と肉体感覚との関係をヴァレリーがどのように認識していったか、その過程を詳しく検討してみる、といった方法を試みる。極めて難解なフランス語であるが原則としてテキストは原文のものを用いる。翻訳が幾種類もあるからそれらを参考にすることができる」

と述べておられ、教科書として、Gallimard 版の Monsieur Teste を指定しておられる。この簡潔な受講案内は、すがすがしいほどにあざやかで毅然としている。先生のフランス文学に向かう姿が歴然として迫ってくる。多分ここに華埜井先生のフランス文学への若き熱いおもいがあったのではなかったか。

実弟でいらしゃる華埜井究氏からはお電話で、兄は私が高校生のときヴァレリーのことを語ってくれた、と伝えてくださった。そうでなければ、高校生の私がヴァレリーのことを知っているはずがありません、と遠い日々を懐かしむように話してくださった。先生の優しさとご兄弟の温かさが伝わってくる、学問の世界を超えた、私には忘れ難いお話となった。

華埜井先生は一年生へのプロゼミも担当しておられた。以下は昭和49年度1974年度の『講義要目』に記された受講案内である。

「プロゼミ Ⅰー8 『歎異抄』で読む 4単位  華埜井香澄

『歎異抄』は13世紀に書かれた浄土教の信の問題を扱った極めて特異な作品である、その味い深い文章によって優れた文学作品の古典ともなっているものである。

 授業では、この作品の購読を通じて「読む」ということはどういうことかをとくと考え、現代に生きる各々の「私」がどう関わるかをお互に発表し合うという形をとることにしたい。作品に用いられている仏教用語や親鸞特有の用語を正しく理解し、作品の滑らかなレトリックに乗って上滑りしないよう注意しよう。」

先生の講座題名が、「『歎異抄』を読む」ではなく、「『歎異抄』で読む」となっていることが特異的であろう。『歎異抄』を読むことによって、読むという行為そのものを学ぼうとしたいと願う先生の方向がうかがわれる。「レトリックに乗って上滑りしない」という文面から、先生の言語に対する厳しい姿勢が感じられる。

私が確認できた『講義要目』の最後の年度、昭和51年度1976年度の「フランス語 上級A・C 4単位」は以下のようになっている。先生はこの年の4月に逝去された。先生が残された最後の講義要目である。

「教科書ーJean Giraudoux;

La guerre de Troie si durapas lieu

(ジャン・ジロドウ;トロイ戦争は行われないだろう)」

私はこの作家の名前すら知らない。いま私の手元にある『岩波ーケンブリッジ 世界人名辞典』岩波書店・1997年によると、「ジロドゥー、(イボリット・)ジャン」では以下のように解説されている。

「(仏 1882-1944)作家、外交官. べラック生まれ. 外交任務につき、第2次世界大戦中は一時期フランス情報局長を務めた. 主に戯曲で知られている. そのほとんどがギリシャ神話や聖書の伝承に基づいた幻想的な作品で、現代生活への風刺がこめられている.「トロヤ戦争なかるべし」(1935)、「オンディーヌ」(1939)、「シャイヨーの狂女」(1945)などがあ.」

先生はジロドウの作品を通して、和光の学生にどのようなことを伝えようとなさったのか。その真意はもはや確認できない。ただこの解説中にある「伝承に基づいた幻想的な作品」ということばから、私は先生の編著書『悪魔のしっぽ』三修社 1972年の「この本を読まれる読者に」で「夢の世界に遊ぶような楽しさを味わってもらえると思います。」という文面とどこか相通ずるところがあるようにおもわれる。

華埜井先生の受講案内はこの年度で終わる。1976年1月に37歳となられた先生は、この年の4月28に胃癌で逝去された。この講義題目は先生が和光の学生に伝えた最後のメッセージとなった。

ロシア語はムラビヨワ先生の教授方法に魅了され、最後まで受講し単位取得まで行くことができた。しかし秋に先生が中心となって指導なさっていた、ロシア語祭で、私はロシアの詩朗読を先生から提案され、先生は美しいロシア文字を緑色のボールペンで書いて下さり、少しだけ暗唱の練習を行ったが、私にとってはかなりの長詩だったため、ロシア語祭のしばらく前に辞退を申し出て先生から了承された。語祭の当日は先生と一緒に会場となった教室に行って、受講者の健闘に拍手を送った。

私は少しでもムラビヨワ先生と本当の会話らしいことをしてみたくなり、多分秋であったとおもうが、新宿の紀伊国屋書店に行き、ロシア語会話の本を探した。1970年初めでは外国語会話のテキストは、英仏独語を除くと極めて少なかった。やっとTeach Yourself Series の一冊を探して購入した。早速その一部を家で暗記し、教室で先生に話しかけたことがあった。先生はびっくりしたような表情で、「ミーシャ、どこでおぼえたの?」と質問された。私が書店での経過をお伝えすると、先生は急に上手になった私の会話を了解して笑顔になられた。懐かしい憶い出である。

ミーシャというのは、私のロシア語会話での First Name であった。先生が一人一人に、好きな First Name をつけて いいですよ、とおっしゃったので、私はミハイルを選んだ。その略称がミーシャだった。

朝鮮語は、梶村秀樹 に教えていただいた。のちには朝鮮近代史のパイオニアとして、今では『広辞苑』にも以下のように記載されている。

「【梶村秀樹】朝鮮史研究者。東京生れ。東大卒。 神奈川大学教授。戦後日本の朝鮮史研究の中心的存在。著「朝鮮史の枠組と思想」ほか。(1935ー1989)」

先生は、私の和光在学中は、30代の若き先生であった。いつも肩の少し落ちた上着を着ておられた。朝鮮語は私にとっては中国語に次いで大切な言語であったので、秋になっても受講を続けたが、みなで五県受けた教員試験のために休むことが続き、事実上単位取得は困難となった。そんなある日、梶村先生からお葉書をいただいた。文面は「きみはずっと出席していたのに、急に来なくなったので、どうしたのかとおもっています」という内容であった。朝鮮語はごく少数の教室であった。私は先生のお気持に驚き、すぐにご返事を書いてお送りした。その中で、今もはっきり覚えている部分がある。「朝鮮語は私にとって、重要なものです。一時中断しても必ず学習を続けます」と私の気持をお伝えした。

のち先生は神奈川大学の教授となり、私が専攻科生・研究生の時代にそのことを知り、比較的和光から近かったので、一度お訪ねしようとおもっていた。そしてある日、先生の突然の訃報に接した。私は今も、先生との約束を果たしていない。私の朝鮮語は依然として未熟なままであり、十分な読解ができない。私はそれをいつか果たしたいと今もおもい続けている。

朝鮮語単位未取得で卒業したのち、再び和光に戻った1979年の専攻科生時代に、私は長璋吉先生の韓国語を受講し単位を取得した。依然として初級レベルではあったが、梶村先生との約束をほんの少しだけ果たすことができたとおもっている。梶村先生と長先生は、仲がよく、当時確か渋谷にあった語学塾で、お二人がずっと講師をなさっておられた。この塾は所在地は変わったが現在も続き、まるで走馬灯をみるかのように、1990年代までに梶村先生も長先生も50代で亡くなられた。お二人の先生の御遺志を継がれるかのように、長先生の奥様がずっとお元気で講師を続けられていらっしゃる。

長先生 ご夫妻は、韓国の延世大学でともに学ばれ、ご結婚後、奥様は日本に来られた。私が、東京都立川市立中央図書館の開館に際しての簡潔な宣言文プレートの中国語と朝鮮語の文面翻訳を依頼されたとき、私の朝鮮語の文章を見ていただきたく、一度ご自宅を訪問したとき、奥様は用件を終えたあとの私に、「私のたくあんはきっと日本の方のよりおいしいかもしれませんよ」、とお話ししてくださった。まだ二人の娘さんが学生でいらっしゃった。2019年に必要があってお電話したときもお元気で、講師も続けられ、私は先生の名著『ソウル遊学記ー私の朝鮮語小辞典』のことを、改めて奥様お伝えした。娘さんは二人とも結婚なされ、「いまはもう孫もいます」と、うれしそうに話してくださった。「私はこのご本を多くの方に推薦致しました」とご報告すると、奥様は、「あの本は良かったわね」と、遠い日々を回想するようにして喜んでくださった。この日は長先生の生前をしのんだ一日となった。

長先生の憶い出は尽きない。和光でのある日、その日の韓国語講座終了後、窓外はもう夕暮れがとなっていた。先生は学生の退出したあと窓辺により、韓国留学のことを私に話してくださった。なぜそうしたお話になったのか、その経緯は今はもう憶い出せない。先生は外語の中国語科を卒業後、韓国へ留学された。その日々は先生の『ソウル遊学記ー私の朝鮮語小辞典』北羊社 1978年、にくわしい。この日の先生との会話が、なぜ今もなお強く私の心に残るのか。それは長先生のお話を聴いたとき、「私も先生と同じ外語で二年間学びました」と、お伝えしたかったからであった。しかしそのことはその日どうしてもお伝えできなかった。なぜなのかはわからない。先生と私とは同じ外語と言っても、その重みがまったく違う、きっとそう感じていたのかもしれない。

私はすでに1979年のこの年32歳となり、専攻科で漢語資料を少しずつ読解しているだけだった。私の現実を知っている方が、そんなに多方面にわたってどうするのか、と心配してくださった。私がみずからの主題を本当に知ったのは、2002年、肺炎で入院していた日々においてであった。病床から毎日、窓外に青く連なる奥多摩の山々を見ている日々だった。私は55歳となっていた。

その翌年2003年になってから、私は初めてみずからの主題をまとめた三篇の論考を、3月から続けて書くことができた。そのうちの一篇を、私はその年の12月に奈良県立公会堂で行われたSilk Road に関する国際シンポジウムで、言語・文学部門い選ばれた4名の口頭発表者の一人して、Quantum Theory for Language 「言語の量子理論」という論題で発表することとなった。1967年の外語入学から36年が経っていた。Silk Road を言語的に逆走するという構想は、小さな一つの言語理論として、2003年56歳となってようやく結実したといえるのかもしれない。

この国際シンポジウムは、私に予期することのなかった贈り物を届けてくれることとなった。それはつづめて言えば、英語の常用ということだった。二日間に渡るすべての招待講演、部門講演、口頭発表、パネル展示等はすべて英語で行われた。それは国際シンポジウムである以上当然なことであったが、私に強いことばでいえば衝撃を与えたのは二日目の終わり近く、研究者の方々を中心に多くの人々がメイン会場に参集したとき、主題の性格から、洋の東西にわたり、特に中央アジアや中近東から参集したとおもわれる方々に間近に接し、まったく未知の母語を話される方々がおられる一方、より多くの方々が英語で滑らかに会話されている状況に接したとき、もはや汎世界での交流を行なおうとするとき、英語以外での精密な交流は多分困難であろうとはっきり認識したことであった。これは、どの言語が優秀であるかなどとはまったく異なったものである。少数の大言語の独占的な流通によって希少言語がを滅亡に瀕している状況を言語を学んできた以上知らないはずはないが、汎世界が理解し合う方法として現在取り得る有効な方途として、英語以上に、文法的に簡潔で、ギリシャ・ラテンからアジアに至る広大な言語からの借用語彙の豊富な獲得等によって他には見当たらない自由で闊達な言語となってきた英語に、比肩する言語は現在のところ見当たらないであろう。

英語史をひもとけば、ヨーロッパの一地域語に過ぎなかった英語が現在に至るまでのいわば格闘の歴史が刻まれた結果、初めて汎世界に使用される言語の位置を獲得してきたことがわかる。OED Oxford English Dictionary 完成までの苦難は今では映画にまでなっている。単語の初出年を可能な限り遡り、語源を遠くトルコ帝国にまで探る。そうした途方もない努力をOEDは絶え間なく行ってきて、それは今も続いている。世界からの援助も続いている。日本の英語学者、忍足欣四郎はOEDをくまなく点検し、100語以上にわたって語歴等の不備を発見し、それをOEDに伝えた。OEDはいまは世界の英語研究者の叡知の結晶と言ってもいいだろう。OED側もその都度彼らの労に報いていきた。英文学者、福原麟太郎の随筆によると、第二次大戦前、英国で買い揃えたOEDの補巻が戦後刊行されたとき、OED側は福原先生の日本の現住所を調べ、自宅に無料で郵送して寄こしたと、書かれていた。『詩心私語』文藝春秋、昭和48年1973年刊。

シンポジウムから帰った私は、日本語で書きかけていた論考を英語に書き直し、2003年から始めたWeb Site においてUpload する Paper と Essay のすべてを英語で行ってきた。幸いに数学系で書かれる論考に使用する語彙は極めて少なく、常用語は多分100語にも満たないであろう。常用語を超えた精密な表現は、すべて数式で表記される。私はここで、数式が汎世界語であることをあらためて知った。数少ない公理とそこから敷衍される定理の表記は、数式を理解すれば即座に全世界で理解可能なものであった。

以下は私の2003年から2007年に至る、Web上で公開した paper と Essay である。2007年以降は、公開する論考が多様となり、整理が複雑となったため、部分的に主題群を作り、その都度小さな整理を行ってきた。たとえば Theory がその一つである。Site も次第に複雑になってきたため、徐々に増加して現在に至っている。

SEKINAN LIBRARY FILE 2003-2007

SEKINAN LIBRARY THEORY

SEKINAN LIBRARY SITE



12.

1966-1977 

Paper, essay and two books of Hananoi Kazumi



12.

1966-1977

Paper, essay and two books of Hananoi Kazumi

1966年ー1977年

華埜井香澄先生の論文、随想そして二冊の本

華埜井先生の著述で私が現在確認しているのは、以下のものである。年代順に列挙する。

「スタンダールと宗教」『人文学部紀要 1 1966 和光大学』 35頁-50頁 1966年

『悪魔のしっぽ―フランスの昔話ー』編者 華埜井香澄・牧野文子 三修社 1972年3月1日 第1版

「仏語入門三つのタイプ」『和光大学通信 第18号』6頁 18975年4月20日発行

『新フランス語文法』著者 華埜井香澄・作田清・井上範夫・住谷在昶 駿河台出版社 1977年4月1日 初版

華埜井先生の和光大学への着任は1967年4月であり、本来ならば、論文「スタンダールと宗教」の『人文学部紀要 1 1966 和光大学』への掲載はあり得ないこととなるが、何らかの事情で、『人文学部紀要 1 1966 和光大学』の発行が1967年度以降になったため、掲載が可能となったとおもわれる。

はじめに、華埜井先生が和光大学でのフランス語教授において、どのようなおもいを抱いて臨まれていたかを示す「仏語入門三つのタイプ」についてみることとする。

先生は、必修となっている外国語学習の位置について以下のように述べておられる。

「私たちは、外国語を勉強することによって、日頃無意識に浸り切って生活している日本語というものをはっきりと自覚できるようになるのだと思います。」と簡潔にまとめておられるが、その学習に臨む学生を大きく三つのタイプに分類しておられる。

「意欲的である」第一のタイプ

「歩いたり走ったりするには、目的に向って足を交互に前に出さなければならないという基本をすっとばしてしまう」

「意欲的である」第二のタイプ

「足もとばかり気にして、自分が今どこを歩いているのか、どこに向っているのか一向に定かでない人」

この二つのタイプに対して先生は「一緒に勉強する私の方もいきおい力が入ります。」と述べられているが、この二つの評言からは、一歩一歩着実に進むほかに王道はないとする外国語学習の基本の徹底を学生に求めていることが感じられる。私自身は多分第一のタイプに属するとおもう。後述したいとおもうが、1977年に刊行された『新フランス語文法』は共著であるが、まさしくフランス語の基本である、動詞の語形変化に多くの課を割いている。

先生が述べられる第二のタイプは、私からはやや遠いもので推測となるが、語学の基盤となる文法に即して考えるとき、現在学習している文法が、フランス語文法全体の中で、どの位置を占めるかが不分明な学習者等を指すのではないかと推測する。

英語学習に例を取ろう。「現在完了」The present perfect という文法概念がある。直訳すれば「現在において完了している」という概念であるが、特にこの中の「完了」 perfect という概念を理解することは「意欲的である」学習者にとっても、かなり難しいのではないかとおもわれる。非理解のままであるとすれば、「自分が今どこを歩いているのか、どこに向っているのか一向に定かでない」状況におちいるであろう。基本的には、学習者自身がみずから調べ、不分明な点については、教授者に質問するということとなるとおもうが、問題となるのは、どこが不分明であるのかもわからない場合である。私が数学においていつも痛切に感じているところだが、教室においては、教授者である先生がおられるので、率直に自分の理解度を伝えて説明していただくことがよいとおもうが、それ以下の場合はどうなるのであろうか。後述する華埜井先生が分類された「第三のタイプ」となるのであろうか。

ちなみに、私がときどき参照するEnglish Grammar in Use THIRD EDITION, CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS, 2004 には別刷りの冊子が挿入されており、その冒頭の項目が Present perfect (I have done)であり、次の項目が Present perfect( I have done )and past simple ( I did ) となっている。この二つの概念の違いが多くの初学者にとって理解困難なことを示す一証左となるであろう。

説明は以下のようになっている。

The present perfect is a present tense. It always tells us about the situation now. ' Tom has lost his key.' =he doesn't have his key now.

The past simple tells us only about the past. If somebody says 'Tome lost his key' , this doesn't tell us whether he has the key now or not. It tells us only that he lost his key at some time in the past.


すなわち、現在完了という概念は、Present tense 現在時制であり、決してPast tense 過去時制ではないと明言する。この説明は簡潔であるが、非ヨーロッパ系の初学者には、tense 時制という概念がまたひとつ障害となるであろう。時制という概念はヨーロッパの言語においては、動詞の活用と密接に関係して必須の概念であるが、少なくともアジアの諸語使用者にとっては、必ずしも通用の概念ではない。上記の説明では、now と past とを斜字体にして強調している。

私がテレビでたまたま、イタリアの小さな村の小学校の国語の時間を見たとき、小学校二、三年生が、イタリア語の動詞活用を、一人一人が先生に向って朗誦している場面があった。しかも複雑な過去時制までの活用を続けて朗誦するのである。母語としても、そのように多くの努力を小学生低学年から行っているのである。外国語として学ぶ以上、さらなる困難が生じるのは避けられないであろう。 

しかし先生はこの「意欲的である」二つのタイプに対しては、「一緒に勉強する私の方もいきおい力が入ります。」と結ぶ。問題点が先生から見て、はっきりと確認できるからであるとおもわれる。

先生が憂慮されるのは、「無目的、無感動という」「第三のタイプ」である。

「外国語が必修だから止むを得ないという、無感動な殆んど諦めに近い気持が選択の前に横たわっている」

私もほんの少しではあるが、中国語と朝鮮語の初歩をかつて一般の社会人に教えたことがあるが、華埜井先生の感懐と似た経験をしたことがあった。中国語と朝鮮語とを比較したとき、先生が指摘された第三のタイプは、中国語の方により多くみらみられたようにおもわれた。現在は状況が異なってきているとおもうが、韓国でのオリンピックが開催される以前の、朝鮮語・韓国語の学習者は学習する言語そのものに対する、いわば熱いおもいが存在したようであった。これに対して中国語の学習者はその目的が多様に広がっていて、ただ漠然と申し込んだ方もおられた。華埜井先生が教授されたフランス語は、中国語よりさらに漠然と選択する学習者が存在したのではなかったとおもわれる。

従って先生は、「今日のような恵まれた時代になっても、独学というのは少数の例外的な人を除けば仲々困難なことであることには変りありません」として、「毎週決った時間に決った場所に同学の仲間たちが集って勉強するという制度は、実にまことに得難いチャンスなのだと知るべきではないでしょうか」と結んでおられる。

私はこの文中の「毎週決った時間に決った場所に同学の仲間たちが集って」の部分こそ、広く大学そのものの本質を述べたものであると実感している。華埜井先生が本質と現実のはざまで苦慮なさっておられたことを、今は痛切におもわずにはおれない。

「スタンダールと宗教」は私が読んだ先生の唯一の論文である。

論文は四章からなり、以下のようになっている。

1.はじめに

2.憎しみ

3.愛

むすび

「むすび」のあとに、各章ごとのReference が記載されている。 

「1.はじめに」に対して3か所

「2.憎しみ」に対して25か所

「3.愛」に対して29か所

「むすび」に対して4か所


以下において、本文の引用を「」で示しながら、各章を概観したいとおもう。私の浅い理解については寛恕を乞う。

1.はじめに

「スタンダールは、宗教の何たるかを考えることができる年令に達するはるか以前から、聖職者に対する深い嫌悪と憎悪の気持を植えつけられていた。」


「聖職者階級、特に当時その俗権をほしいままにしていたジェスイットに対する生涯に亙る反抗となった。」


「しかしながら、このことによってのみスタンダールの宗教観を断定して反宗教的とするのは早計である。」


「心情として捉えられた宗教感情に対しては、無感覚であるどころか、それに感動せざるを得ない極度に感じやすい魂を彼はもっていたのである。」


「スタンダールが、不合理なもの、超自然的なものへの止み難い嗜好を持っていたということも否定できない」


2.憎しみ

「スタンダールは、理神論者やヴォルテールのように、神が人間及び人間以外の一切のものの第一原理であるとは信じていない」


「神が存在するかどうかという問題は、スタンダールの如何なる作品にも提示されていない。同時代の作家たちの間で、形而上学的不安から完全に免れていたのは彼一人であったかもしれない。」


「彼の明晰さは彼の自我を彼自身の外部にある一切のものと混同しようという誘惑に対して決して身を委せはしない。」


「スタンダールの反強権思想は、宗教の領域における形式主義と狭量とによってしばしば呼び覚まされるのである」


「スタンダールの反強権思想の決定的で最も明瞭な現われは、世俗的なものの利益のために、精神的なものと世俗的なものとを結びつけることに対する断固たる拒否である。」


「スタンダールがジェスイットに対して最も強く非難したもの、それはジェスイットが王政復古下におけるフランスの支配者であり、軍隊をもち、帝国を形づくっていたという点であった。」


「感動的な力、誠実さ、無償の自己拘束に身を委せない一切のものを彼は唾棄する。逆に、感動的なものに全身を没入させる自然味を何よりも礼讃するのである。」


「彼が自分の行動の誠実さと自分の自然味の限界とを吟味しようとして自分自身の上に批評の目を向けるのは、彼の自然さという倫理がまさに開花しつつあるときである。」


3.愛

「「今日、サンタンドレ寺院に逃れてきたドミニカンの壁画と向い合っていた。昨日は、サント・パラクセードであった。」宗教的芸術あるいはイタリアの宗教のこうした絵画的な側面に対してスタンダールが示した愛の中には、確かにディレタンティスムがあったかもしれない。しかし、ローマ散策中に突然イタリアの宗教におけるキリスト教の精髄に心を打たれたスタンダールは、決して彼の先入観をここに持ちだしてきてはいない。」


「旅行者スタンダールは、たまたまゴチック建築の下を散歩していて、突然の衝動を実感し、新しい世界に自分が移行しつつあるのを感じるのである。」


以上のローマ散策を受けて、華埜井先生はスタンダールの『イタリア絵画史』から以下の部分を引用する。私、田中にはこの論文中で最も重要な引用の一つではないかと思う部分である。

「魂の偉大なる運動、および人間が事故を超越する幸福な瞬間を説明する機会を、殆ど常にキリスト教の主題が提供している。」


「キリスト教は常に人間を、即ち何らかの感動的な状況においてあなた方が興味をもつ存在を、あなた方に示している。」

華埜井先生はこの部分を受けて、フランス語の語彙に対する重要な指摘を行なっている。

「このキリスト教礼讃は、スタンダールがしばしば用いる崇高なという形容詞(sublime)を正確に定義する価値をもっている。」

sublime について、LE PETTIT Larousse UILLUSTRE, 2004 では次のように定義し、例文を載せている。

SUBLIME ADJ. (lat.sublimis, haut)1.D'une haute valeur morale, intellectuelle ou artistique ; noble. Sublime abnegation.

知的あるいは芸術的な、高い倫理的価値の一つ。崇高な。崇高な自己犠牲。


華埜井先生はスタンダールのキリスト教礼讃を、崇高という概念にふさわしいと評している。

先生のスタンダールの内面描写をさらに引用する。

「『イタリア年代記』の中では、アヴェ・マリアは単に倫理的価値であるのみならず、劇を支配する糸でもある。それは出発点であると同時に最後の保証でもあるのである。」

「宗教的感動は、従ってスタンダールにあっては創造的価値である。これによって彼は、行動における性格を、更にまた構成と文体における性格を徹底的に展開させることができるのである。」

「彼は、フランスの合理主義者のブルジョアになるより、ドン・キホーテか、、迷信的なイタリア人になった方がよいとさえ考えるのである。」

華埜井先生は、この「3.愛」の章において、スタンダールのイタリア滞在中における宗教的な反応を繰り返し、叙述する。

「魂の真のよろこびを見出し、芸術の傑作とイタリア人の風俗と共に生きたよろこびを、スタンダールは宗教に負うている。」

「イタリア人の信仰は単に内的情熱であるばかりでなく、絵画や遺跡の中で、キリスト教の崇高さを惹起するのである。」

「崇高、自然、超自然について彼の抱いていた概念は、敬虔なイリア人との関係において定義され、豊かにされるのである。」

この章は、スタンダールの、アウグスチヌスの広く流布したキリスト教の格言とイタリア人の誠実さと結ぶことばをもって閉じられる。

「スタンダールはよろこんでイタリア人の同朋であることを認める。なぜなら「彼らは必要とあればアウグスチヌスの Credo quia absurdum ( 不合理なるが故に我信ず)を何度も繰り返す程の誠実さをもって信じている。」からである。」

この章は、冒頭で華埜井先生が簡潔に述べられたことば「宗教的芸術あるいはイタリアの宗教のこうした絵画的な側面に対してスタンダールが示した愛」をスタンダールの『ローマ散策』を中心に確認し、次第に歴史的に遡り、中世のアウグスチヌスに至っている。

むすび

「憎しみ」と「愛」を経たスタンダールは、その結果をみずからの作品のうちにどのように昇華させたのであろうか。華埜井先生は作品の中核になにがあるかを叙述する。

「平穏な生活の中にあっては、彼ら(スタンダールのヒロインたちー田中注)は神聖なる掟を侵すこともなければ、その掟がどれ程の力をもっているかを考えてみる必要もない。しかし、彼らの無邪気な信心が、一旦神の恩寵の世界を知るや、神とのじかの対決という悲劇的な信仰が突然罪の意識を目覚めさせるのである。」

「彼らは、かっては自分自身の殻の中に閉じ籠っているようにおもわれたが、罪の意識がその殻を破った。彼らには、もはや人間は孤立してもいなければ神の前ではただの一人でもないように思われる。一人の人間の過ちはそれだけに終らず必ず他人に及ぶ。スタンダールの倫理は、人間世界を再構成してゆき、かっては傲慢とか、あるいは無邪気さの支配していた世界から人間を抜け出させるのである。」

華埜井先生は本論文の結語として以下のように述べる。

「スタンダールが愛し、称賛するもの、彼が描写し高揚させようと目指すもの、それは信仰をこのように劇的緊張の状態にまで導くことであったのである。」

私はしかし、先生がこの結語の前に述べた一文が、決定的な重みをもって、みずからの若き日々からの近代というものの本質を射ぬいた先生の慧眼に、目が覚めるようであった。あるいは、この先生のことばと出会うために、この論考にまで至ったのではないかとさえおもうのである。

「神の摂理のテーマは、自分自身と妥協しない、即ち自己との厳しい対決のテーマと不可分のものである。」

私の感懐をここでは簡潔に記す。私は青春の日々から、近代に惹かれ、それがどのようなものであるかを探し求めてきた。しかしそれは常に自分の外に探し求めるものであった。しかし華埜井先生はスタンダールの生涯を研究する中で、近代そのものの本質をも、これ以上ない簡潔な表現で、私のながい探究に応えてくださった。近代はみずからの内に存在していた。そしてそこには厳しい対決が不可分であった。私は青い鳥を探すかように、みずからの外を探していた。近代がいかに厳しい対決の上に成り立っていたかをまったく顧みることもなかった。しかもそこにはつねに神が介在していた。華埜井先生への感謝は深い。

以下では、華埜井先生の二冊の著書についてふれる。しかし二書とも、フランス語学・フランス文学の専書に属し、私の現在の能力を超えるものであり、従ってここでは私の乏しい経験に即して、若干のコメントを記すにととどめたいとおもう。

『悪魔のしっぽ―フランスの昔話ー』編者 華埜井香澄・牧野文子 三修社 1972年3月1日 第1版 1995年4月10日 第7版

『新フランス語文法』著者 華埜井香澄・作田清・井上範夫・住谷在昶 駿河台出版社 1977年4月1日 初版 1984年4月1日 三版

二書とも版を重ね、フランス語・フランス文学を学ぶ人々に益したことがうかがえる。

初めに『新フランス語文法』について記す。

この書は、「発音」のあとに「Lecon 1」から「Lecon 10」があり、Lecon 全体で44章からなっている。そのあとに「付録」として数詞および句読符号を列挙する。

「まえがき」によれば「基礎的な文法事項を、動詞を中心に10課にまとめてみました。」「年間20回余りの授業で無理なく学習し終えると思います。」とあるように、本書が大学でのフランス語初級の一年間の授業に合わせて作成されている。4名の著者よりなるので、華埜井先生がどの部分を担当されたかは不分明であるが、4名の合議によって編集されたものであり、当然華埜井先生の文法に対する考えがここに反映されているとみてよいであろう。

私がかつて愛用した朝倉季雄『朝倉初級フランス語』白水社1965年第1刷1985年2月25日第25刷、はその「まえがき」で「この本はフランス語をこれから勉強しはじめようとするかたのために編まれた独習書ですが」と述べられていてやや性格を異にするが、二書を比較すると、『新フランス語文法』の特徴が見えてくる。

『朝倉初級フランス語』は全100章であり、やや高度な条件法現在形が出てくるのが第89章であり、第100章までの計12章で接続法までを述べる。これに対して、華埜井先生等4名の『新フランス語文法』では全44章のうち、29章以下44章までの計16章で、直接法半過去から接続法までを詳述する。本文全体で45頁であることを考えると、初級用文法書としては、やや高度な内容と言えるかもしれない。しかしあるいはこれが現行の文法教科書の通例であるかもしれない。

『新フランス語文法』の本文は45頁であるが、そのあとに黄色刷りの「動詞活用表」が20頁付されており、全体としてフランス語学習においては動詞が最も重要であるというフランス語学の王道を、4名の著者によって確認し作成されたことがうかがえる。

ひとつだけ、私の関心を示そう。フランス語学習においてなぜ動詞の活用が最も重要なのか。

以下では、やや細かくなるが、スイスの言語学者Charles Bally シャルル・バイイの『一般言語学とフランス言語学』小林英夫訳、岩波書店 1970年8月31日 初版発行、を適宜参照する。

小林先生はこの大書を訳了するまでに、1957年から1970年までの13年間を要したことが、訳書の冒頭の「解説」に記されている。和光で中国思想史等を講じられた西順蔵先生は、若き日朝鮮の京城大学で小林先生とともに、学生を教えられた。西先生から、小林先生の面影を教えていただいたことが、今も懐かしくおもわれる。日本へ帰国するとき、西先生は小林先生とご一緒であったとうかがったことがある。

西順蔵先生からは私の勉強の基盤となる中国哲学等のご教示を受けたが、本論考とは別の分野であり割愛する。かつて中国古代思想史の講座においてほぼ半年にわたって講義された易経は忘れ難い。またゼミ生と一緒に幾度か旅した憶い出は尽きない。特に群馬県の霧積温泉への二度の旅が懐かしい。先生の奥様が作ってくださったパウンドケーキを先生が手ずから切って私たちにふるまってくださった。夕食後先生と二人で話した折り、私が当時少しずつ参照していた段玉裁の『説文解字注』について尋ねたとき、先生が即座に「あんな難しい本、読めるかいな」とおっしゃったことが記憶に残る。私は咄嗟に、先生と私の本に対する、レベルの遙かな懸隔をおもいやった。

西先生の1984年の没後、社会史の阿部謹也先生が書かれた『北の街にて』講談社 1995年を読み、小樽にいらした阿部先生と東京の西先生との間で100通を超える手紙のやり取りがあったことを知った。西先生が霧積で阿部先生のことを、遠くを想いみるようにして話されたことがしのばれる。余事であるが、私は『北の街にて』読了後、阿部先生に、西先生をしのぶ短い詩を添えてお手紙を差し上げた。先生は未知の私に丁重なご返事をくださり、その中で、あの霧積のころが懐かしいとお書きになっていた。私も今、両先生を霧積と重ねて同じ憶いにかられる。

そのころまた、川崎庸之先生とご一緒して旅した日々も懐かしい。


『西順蔵著作集』全3巻・別巻1巻が1995年から1996年に内山書店から刊行された。編著『原典中国近代思想史』全6冊、岩波書店 1976年ー1977年は、先生を慕う若き研究者たちと横浜の先生の御自宅で講読を続けた、当該主題の必須の文献である。


INFLUENTIAL 3


先生はまた、『岩波哲学小辞典』栗田賢三・古在由重 編 岩波書店 1979年、の中国関係の項目のすべてを執筆された。

大学からの下校時、先生とご一緒したとき、先生からじかに伺った。この辞典は小型であるが、哲学の基本概念を簡潔にしかも精密に定義して、固有名詞等には原綴りを添えている。また索引が整っていて、人名索引・事項索引・外国語人名索引・外国語事項索引・ロシア語索引の5種の索引がある。索引だけで、279頁から321頁の43頁を要している。


私は小型辞典の有用性は極めて高いとおもう一人である。かつて辞書をほとんど利用なさらないとおっしゃっていた川崎庸之先生が愛用しておられた一冊の小型辞典がある。山川出版社から昭和32年1957年に刊行された『日本史小辞典』である。先生はこの辞典を称して「玉手箱のようだね」とおしゃっていた。

常用ではないが、ときに必須となる小型辞典の数冊を列記する。小型辞典は一種不思議な存在であると、今もおもう。

限られた容量の中に、だれもが必要とするものを、どう選択してどう記述するか。

OXFORD New Greek Dictionary. Greek-English English-Greek. Oxford University Press. 2008

THE BANTUM NEW COLLAGE LATIN & ENGLISH DICTIONARY. Bantum Dell. 1966

The Concise Dictionary of ENGLISH ETYOLOGY. Wordsworth. 2007

Oxford English Mini Dictionary. Oxford University Press. 1981

Paperback Oxford English Dictionary. Oxford University Press. 2001

LONGMAN Handy Learner's DICTIONARY OF AMERICAN ENGLISH NEW Edition. Person Education. 2000

PETIT DICTIONNAIRE FRANCAIS. Librairie Larousse. 1990

The Oxford Quick Reference German Dictionary. Oxford University Press. 1998

OXFORD New Russian Dictionary. Russian-English English-Russian. Oxford University Press. 2008

西先生からは、著述に関する大切なことを教えていただいた。

1985年に三省堂から刊行された『熊野中国語大辞典』のことである。この辞典を編纂されたのは、西先生の一橋大学における同僚でいたした、熊野正平先生である。熊野先生は一橋において、中国語学を学生に教授されておられたが、先生の生涯の学績は、上記の辞典の編纂と刊行とであった。この辞典の編纂がいかに困難であり、さらにその刊行はさらに困難であった。しかしさまざまな障碍を超えて、先生の編纂着手以来30年を経て、この辞典は刊行され、多くの方々に先生の学績は受け継がれた。熊野先生が昭和46年1971年に書かれた「緒言」と1985年に三省堂によって書かれた「あとがきに代えて」を以下に引用して、先生が遭遇したその困難の一端をお伝えしたい。


緒言

「この辞典の編纂は昭和30年着手、爾来約15年を経てようやく出版の運びとなった。(中略)カードの総数は約20万枚、整理によって除いたものが約5万枚、従って編纂工作の対象となったのは約15万枚であった。」

「原稿カードをインフォーマントの中国人と共同して逐一検討するような愚直な方法は、かなり時間のかかる労作ではあったが、これは一度は誰かがやっておくのも異議無しとしないと考え、私は敢えて終始この方法を採った。(中略) 昭和46年 春 熊野正平 識」

あとがきに代えて

「本書は元来コンサイス・シリーズの一環として企画された。(中略)これをお諮りしたのは1954年(昭和29年)秋のことであった。」

「この時期は国の内外において転換の時期でもあり、(中略)ひいては小社の倒産(1974年)という現実もこれに追い打ちをかけることとなっていった。(中略)1973年に本企画は已むなく中止となった。」

「先生は黙し難い思いを胸底に秘められたまま遂に1882年(昭和57年)不帰の人となられた。(中略)まさに満84歳の御生涯であった。」

「善意と努力と協力が結晶し、昨年10月10日(中略)上梓されたのである。その淵源より数えてまさに一世代、30年を要した。(中略)1885年4月8日 株式会社 三省堂」


INFLUENTIAL2



以上が熊野先生の編纂なさった辞典刊行までに至る経緯である。学問が無数の人々によって継承されて行くことに、何人も襟を正すであろう。

ここに三省堂の許諾を得て、1985年11月3日の朝日新聞朝刊に、三省堂によってなされた本書の広告を再掲したい。簡潔にして精緻であり、本書成立の歴史を通観するにふさわしいとおもわれるからである。


 

朝日新聞 1985年11月3日 朝刊 

© 三省堂



バイイに戻る。フランス語学習においてなぜ動詞の活用が最も重要なのか。 バイイの結論は以下である。


「フランス語では動詞意義部は完全に語尾と文法的限定のうちにおぼれている」 

「動詞はすべての品詞のうちで意味的自立性のもっとも少量のものである」

簡約すると、動詞はその語幹だけでは特定した意味を表せない。どうしても語尾によって示さなくてはならない。その必要性があらゆる品詞のなかでもっとも大きいからである、ということであろう。

次いで、華埜井先生と牧野文子氏との共著である『悪魔のしっぽ―フランスの昔話ー』について記す。

この書の冒頭にある「この本を読まれる諸君へ」には「夢の世界に遊ぶような楽しさを味ってもらえる思います。」と述べられている。この簡潔なことばのうちには、華埜井先生の熱いおもいがしのばれるようにおもう。先生の実弟でいらっしゃる、華埜井究氏は、先生が帰省なさったとき、これらのフランスの昔話を究氏に語ってくれたという述懐を私に伝えてくださった。スタンダールの生涯を研究なさった先生が、なにかほっとなさって、フランス語・フランス文化の根底にある人々の姿をおもいやっておられたのではなかっただろうか、私はそんなふうにおもう。

この書には五篇の昔話が収められていて、そのあとに5頁の本文注釈 Notes が付けられている。

五篇の題名は以下のようである。

Le renard et le chat

Le Champ aux Sorciers

La queue du Diable

La Dame blanche

Wolf Dietrich

直訳すると

「狐と猫」

「魔法使いの野原」

「悪魔のしっぽ」

「白い婦人」

「狼ディートリッヒ」

となる。

「この本を読まれる諸君へ」の裏頁に、以下のようにこの書の出典が表記されている。

1952, 1953 by Fernand Nathen, Paris

Title de l'edition originale; Collection CONTES ET LEGENDES

publiee par Ferdinand Nathen, Paris


ここでは、本書の表題となっている「悪魔のしっぽ」についてふれる。この昔話の概要は以下のようである。



「昔々、Vesoul の近くのAuxonに、 Tienot という名の男がいました。彼が仕事を終えてお金をもらい、お酒を飲んで家へ帰る途中で男が倒れているのを見つけました。ひどく寒い日で、男はまるで切り株のように固く凍っていました。Tienot は男を肩に乗せて家に帰りました。

家に着くと、彼は男をオーブンに入れ扉を閉めました。

「神様、夫は死体を料理しようとしています!」と妻のBabette は尋ねました。

「彼は死んでなどいない、凍っているんだ」

好奇心旺盛な彼女は待ちきれずにオーブンを開けて、驚きの声を挙げました。

「これは何?」

「もちろん羊じゃない」

「馬鹿!これは子羊よ」

「子羊?おれになんてことを言うんだ」

「来て見て、このきれいな赤いしっぽを」

彼がオーブンに近づくと、疑う余地はありませんでした。人の腕位の長さで、赤と黒の光沢をもったふさふさした毛でした。

そのしっぽは振られ空を切り蛇のようにしなやかでした。

Tienot が考えこんでいると、Babette がふと思い付きました。

「Tienot, もしかして悪魔じゃない?」

「なんてこと言うんだ!」

「でもこれは真実よ」

Tienot は落ち着きを取り戻すと、不思議な突起物を思い切り引っ張りました。

「痛い、痛い!私を引き裂くんですか」

「それがどうした?」Tienot はあざ笑って、「おまえはもっときれいな子になるさ」

「痛い、痛い!私に手を触れないで、そうすればあなたの望むものを差し上げます」

「ばかな、おれの望むものをなんでもか?」

「そうです、あなたはお金持ちになります、もう働く必要はありません」

悪魔は人間が最も関心を持つことを持ち出して、一握りの金貨を投げました。

Tienot はおっぽを離しませんでしたが、Babette は怖がらずに金貨を集めました。

「おまえは金持ちだな、もっと見せてくれ」とTienot は言った。

するとオーブンからさらに金貨が出てきました。

Tienot は悪魔の曲がった手を見て、考え込みました。

「おまえは悪魔か?」

「その通りさ」

「なんでおまえは地獄にいないんだ?」

「私にはここですることが一杯あるのさ。あんたが居酒屋で一杯やるとき注いでやったし、あんたのコップが空らになったときは私が継ぎ足したのさ」

「それはありがとう。でもなぜおれの帰り道で凍り付いていたんだ?」

「私は暑いのが好きで、あんたの所のオーブンが好きなんだよ」

「それは良かった!どうかごゆっくり」

Tienot は時を置かず、斧を持ってきて。それで薪割台に悪魔のしっぽを釘で打ち付けました。

パン、パン、パン!

「痛い。痛い!」悪魔はうめき声をあげた。

「これで終わりさ」Tienot は笑った。

Tienot はこうして悪魔を捕まえたことを村人に知らせに行った。村人ははじめ信じなかったが、それが本当であることを知ると、みな彼を称え、その夜は皆で夜遅くまで飲み続けました。

悪魔が捕まると、村の男たちは争いを起こさず、女たちはおだやかになり、子供たちも、悪童でさえ、みな勉強好きになりました。

誇りと喜びを得たTienot はもはや悪魔に何も求めることなく、蓄えた財産を村人のすべてに、さらには自分が好きではなかった人々にも、その財産を分け与えました。

Tienot の名声は拡がり、4人の乞食僧に伝わり、彼らはAuxon に向かい、Tienot が村を出てから数時間後に到着しました。

妻のBabettetは、Tienot がまた貧しくなることを知っていました。そこで、みずからのために悪魔のしっぽを切り落とし、自分のところに残しました。「私はこのしっぽを Tienot よりも上手に使います」と4人の乞食僧に言いました。

悪魔は自由となって逃げてしまった。Babettet は乞食僧たちに言った。「どうかこのしっぽを使ってください」と。

僧たちはしっぽを引っ張っりましたが、何も得られませんでした。なにかが欠けていたのです。結局、この善良な乞食僧たちは無駄な努力をしただけでした。

ですから、まじめに仕事をしながらも、心の安らぎを得られずに生きる人たちのことを、悪魔のしっぽを引っ張っている人たちというのです。」


以上がその概要である。


本書の「この本を読まれる諸君へ」で、この昔話 La queue du Diable は、フランスの Franche-Comte 地方に伝えられたものであると述べておられる。

大阪大学出版会から刊行された『フランス児童文学のファンタジー』石澤小枝子・高岡厚子・竹田順子、2012年の「第1章 昔話 8 悪魔のしっぽ -何が悪魔に打ち勝ったかー 」では以下のように述べられている。

「「悪魔との契約」の話はに西ヨーロッパ、ポーランド、ウクライナ、ロシアにも広く分布しており、とり上げられている類話も多い。」(65頁)


私は日本の昔話も含めて、こうした伝承研究についてはその概要すらまったく未勉強であり、華埜井、牧野両先生の『悪魔のしっぽ―フランスの昔話ー』の内容については述べる素養もなく、本書をフランス語初級のテキストとして見たときの印象を述べるに留めたいとおもう。

「この本を読まれる諸君へ」では「いずれも現代標準語で書かれていますし、特に難しい表現も使われていませんから、初級文法を一通り終わった人には比較的簡単に読めて」と書かれており、末尾では「ここにでてくる条件法とか接続法の用法などで、もしわからないところがあったら、初級文法の時間をもう一度振り返ってみて下さい。」と文法的な指示が与えられている。

私のような初級レベルのみでとどまった学習者にとっては、単語は日常語が大半を占めるが、文法的にはかなり多彩であり、巻末の Notes も、難しい口語表現のようにおもわれた。あるいは、Original Edition が、1952-1953年ということも関係するかもしれない。

華埜井・牧野両先生の『悪魔のしっぽ―フランスの昔話ー』が三修社から刊行されたのは1972年で、私が所持するのは1995年第7版であるが、都立多摩図書館で確認すると、2001年で26版となっていることを確認した。私は出版の状況にうといが、大学講読用のテキストとしては、充分すぎる量が刊行されたとおもわれる。従って、その本来の目的に良く合致したテキストとおもわれるが、初級者の私自身にとっては、初級用としてはやや難しく感じられて、あらためて外国語習得の難しさを再確認することとなった。

和光大学・昭和48年度1973年度の講義要目によると、共著者の牧野文子先生は外国語講座において、「仏語 初級A①  A④  A ⑥ B④ B⑥  B③」の6口座を担当しておられた。その受講案内として以下のように書かれている。

「ここ数年、出席は学生の意志に任せてきたが、それは好ましくないことが分かった。やはり授業で着実に少しずつ学んでいくことが、成果をあげる こつ である。こんな事は、私自身にもわかっていたのだが、語学の予習が専門の科目の邪魔になってはという配慮は、かえって学生には不親切であったようだ。授業中は満遍なく当ることを覚悟しておいてもらいたい。難解な文法知識はさておき、やさしいことが正確にできるように、従来より読みを中心におくように心がけていくつもりなので、学生は必らず、予習をしてくること。」

華埜井先生は同年1973年度の「仏語 中級 C ①」の講義要目において、以下のように書かれている。

「初級の時間に一応学んだはずの基礎的文法知識を話用(活用の誤植とおもわれる)して、比較的易しいフランス語で書かれた教材を用いて、辞書をたよりにフランス語を読むことが楽しめるように訓練したいと思います。そのためには言うまでもなく予習と出席を欠かさないことが必要です。できれば日仏学院とかアテネ・フランセとかに通ってフランス人の話すフランス語に接するのもよいでしょう。簡単な会話ぐらいはできるようになって、一層おもしろくなると思います。」

両先生の受講案内からうかがえることは、出席は当然として、毎回の予習、着実に学ぶ姿勢、辞典の活用などが、大切であると学生に伝えているが、それが従来あまり学生に徹底していなかったことが推察される。この12章の冒頭で引用した華埜井先生の随想「仏語入門三つのタイプ」1975年において分類された「第三のタイプ」を繰り返し引用する。

「外国語が必修だから止むを得ないという、無感動な殆んど諦めにち近い気持が選択の前に横たわっている」

ここには、華埜井先生・牧野先生が直面しておられた、多分いつの時代においても変わらないであろう、外国語学習の困難さが横たわっていたであろう。私自身は語学学習における文法については、むしろ楽しいほうの一人であり、白水社から刊行されていたクセジュ文庫の『ロシア語文法』などは小説よりも楽しいくらいで何度も繰り返し読んだ記憶があるが、私が学んだどの言語の学習においても習得した語彙数の少なさには、今も引き続き悩み続けている。簡単な挨拶程度の会話は別として、どの言語においても、最低限7000から8000語ほどの語彙数の取得は必須であるとおもわれる。

ちなみに今回『悪魔のしっぽ―フランスの昔話ー』を読むにあたって、初級者である私は当然辞書を必要としたが、見出し語が約5000語である白水社の『パスポート初級仏和辞典』第3版、2005年では採録されていない語彙が多く、結局、白水社でその上級に当たる『Le Dico 現代フランス語辞典』1993年や三省堂の『クラウン仏和辞典』第5版 2001年を用いることとなった。採録語彙は前者が約3,4000語であり後者はその「はしがき」において採録語彙数を明示していないので、辞典の判型、総頁数等から類推して、推定ではあるが『Le Dico 現代フランス語辞典』と大きな差はないとおもわれる。

華埜井先生のフランス語教授の姿勢は、上で引用した「初級の時間に一応学んだはずの基礎的文法知識を話用(活用の誤植とおもわれる―田中注)して、比較的易しいフランス語で書かれた教材を用いて、辞書をたよりにフランス語を読むことが楽しめるように訓練したいと思います。」ということばに尽きているようにおもわれる。

華埜井先生はきっと辞書がお好きであったろうと、そんな単純なことを今になっておもう。先生に辞書のことをお尋ねしたら、先生からどんなお話が聴けただろうかと、おもう。フランス文学の世界は今も私にはまったく未知であるが、辞書のことならば、少しは会話になったかもしれないと、おもうことがある。

華埜井先生はその短い生涯において、文法と講読の二冊の著書を残された。そのいずれもの精華は仏語仏文学を愛し教室で真摯に学んだ和光の学生に受け継がれたであろう。





13.

1976

Two sadness



13.

1976

Two sadness

1976年

二つの悲しみ

1976年4月、私は5年勤務した都立北多摩高校から、新設された都立青梅東高校へ転勤した。まだ一年生だけの学校だったが、あわただしい日々が続いた。私は教務部で、北多摩でも行っていた新年度の学年時間割作成をまかされ、各教科の先生方の状況やクラスの一週間の各教科の時間配分が無理のないように心がけながら、3月末にやっと終わったばかりだった。入学式等の年度初めの予定がすべて終わり、担任としての仕事も一段落して、通常の学習となって少しほっとしているときだった。

今でもその日をよくおぼえている。天皇誕生日の前日の4月28日、その日の授業がすべて終わることだったとおもう。私に電話があり、受けると和光の友人からだった。その名前を今は失念したが、その友人から、和光大学文学科の初代学科長だった近藤忠義先生が危篤だという知らせであった。私は先生から毎年、お返事としての年賀状をいただいており、お元気だとばかりおもっていたので、茫然とした。先生は毎年、今年も立春前になんとか届けることができたと、先生らしい文面で、はがき一杯に書いて送ってくださった。こんなに丁寧にみなに書くのは大変だろうと、いつもおもっていた。

入院先は、小田急線東林間駅から徒歩の東芝林間病院ということを教えてもらい、事情を話して、その日は早めに学校を退出した。当時は自宅から高校まで自転車で通勤していたので時間がかかり、自宅から電車を乗り継ぎ新宿駅から小田急に乗って南林間駅に着いたのは、4月なのにもうあたりは夜で暗く、夜7時は過ぎていたとおもう。病院までの道を急いだ。

病院はもう静まり返っていた。先生の病室を教えてもらい、階上へ上がり、先生の病室を確認した。卒業生とおぼしき人が二、三人いたが、私の知らない人たちだった。時間がおそく私は友人には会えなかった。ふと右を振り向くと、そこにソファーがあり、のちに和光の学長となられた日本文学科の杉山康彦先生が、左手をソファーの上に置き、ゆったりと腰を下ろしていた。先生も私を認め、私は無言で挨拶した。

杉山先生とはこの数年しばしばお会いしていた。日本文学科卒業生たちの同窓会も兼ねた研究会、和光大学日本文学会を立ち上げるために、2期生が発議し、3期生以降の卒業生も次第に加わり、人文学部長でいらした古田拡先生と文学科長でいらした近藤忠義先生の最終講義が行われた1976年1月31日までには、その体裁はほぼ整っていたとおもわれる。会の今後について幾度も話し合ってくださった。

会則を最終的決定する設立総会を和光の一室で行った日、まだ一般の文学科日本文学専修の卒業生にとっては未知の会であったため、来校者はほとんどなく、杉山先生と常任委員中心のこじんまりした会となった。そこに一通の電報が届いていた。文学科長の近藤先生からであった。「和光大学日本文学科の設立を祝す」という文面であったとおもう。私はそのときの杉山先生のことばを今も記憶している。「近藤先生らしいな」、杉山先生は近藤先生への敬意をこめて、私たちにそう話された。

杉山先生は、私の卒業論文の口頭試問で副査として宮崎健三先生と同席され、テーブルの向こうから、私のまとまりのない論文に対していくつかの質問を行った。私の論文は、小説を通して日本の近代の一面を私小説等と対比しながら考察しようとしたものであったが、私の当時の力ではいかんともしがたく、今では論文の結論もおぼえていない程度のものだった。400字詰めの原稿用紙で250枚ほどの厚いものであったが、杉山先生は「引用の多い論文だな」とおっしゃったので、私はただ「すみません」とみずからの非を認めるしかできなかった。先生はそうした率直な物言いで、いつも明るく爽やかに学生一人一人に対してくださった。

病院での緊張した私を落ち着かせるかのように、先生は穏やかに話してくださった。「先生は今日は大丈夫だよ、明日も大丈夫だろう」、そう少し微笑まれるようにおっしゃて私を安心させてくださった。時間も遅く、ほかの先生ももうおられなかったが、杉山先生はお一人でもうしばらくは、病院にとどまる感じだった。

外に出ると、空はもう漆黒の夜となっていた。私は駅への道を歩きながら、なんとも言えないさびしさを一人感じていた。もしお亡くなりになれば、悲しみが襲うだろう。ただ、そのときは無性にさびしいおもいだけだった。

和光の二年間は私にとって、特に編入学した1969年は「復活」の日々だった。この題を持つトルストイの小説を私は未読であったが、「国語表現」のとき、古田拡先生からその内容を伝え聴くことができた。私の外語での二年間は学習と通院が相半ばした。自分なりによく学んだとはおもうが、二年目は入院や検査が続き、学ぶことよりも、回復することが私の中心となっていた。その疲れは知らぬ間に蓄積していた。勉学のおくれを気にしたことはほとんどなかった。すべてはそれ以前であった。外語を離れることは、まだ元気だった一年の秋にもう自分の中で決定していた。二年間の教養課程を終えたら、私はここを去るだろう。しかしどこへ。それにみずからの病気はどうなっていくのだろう。そうしたことが私の中で去来していた。私はやはり疲れていた。


和光へ編入学した春からの日々は、私にとって古田先生が教えてくださった「復活」の日々となっていった。特に古田先生の講義が胸にしみた。講義は様々な言語表現に及んだ。宮崎県に伝わる「刈り干し切りうた」があった。芭蕉の句「村古りて柿の木持たぬ家もなし」を教えてくださった。はるか後年、家内と秩父を旅したとき、列車から見るどの家にもみな柿の木があり、私は先生が教えてくださったこの句を憶い出していた。

昭和庚申春、1980年、同学年でともに教員となった酒井君と田辺君と私は、多分年始であったとおもわれるが、古田先生のご自宅を訪問し、それぞれの近況等をお伝えしたことがあった。先生はその日手元に置かれていた『老子』の文庫本を繰られて、私たち三人に別々の文を抜き出されて色紙に揮毫してくださった。私には「虚其心 実其腹」と書いてくださった。「其の心を虚しくし、其の腹を実にす」。色紙には「不充」と先生の号を揮毫なさっておられる。年号を「昭和庚申」と干支で記載されており、1980年であった。私はこの色紙を和室の壁に掲げ、私の生涯を先生の色紙とともに過ごすこととなった。 


 

 

古田拡先生揮毫 

色紙 


不充

 虚其心 実其腹

  昭和庚申春 


 1980年


吉川英治の「新平家物語」の最終場面で老夫婦が樹陰で憩う場面も教えてくださった。漱石の「野分」を講義してくださったあと、私はすぐに図書館に行き、漱石全集で、この短編を確認した。そうした先生から聴いた一語一語が私の心に響いた。こうした講義を私はいままで聴いたことがなかった。それは通常の学問とは違う。学問と人生を結ぶ叡知とも呼ぶべきものであったろう。私は和光に来てほんとうによかった、そうおもう日々が続いた。

しかし古田先生からは、幾度となくしかられた。それらはすべて私の非に起因するものであったが、通常は多分一過性のものとして、しかられることがなかったのだろう。しかし古田先生は違った。その場ですぐに指摘してくださった。そこには二十歳を過ぎたとはいえ、未熟そのものであった私への暖かなまなざしがあった。初めて叱られたときのことはまざまざとおぼえている。

多分編入学した1969年の初夏の頃だった。ようやく和光に慣れた私は古田先生からお借りした本を、研究室にお返しに行った。ドアを開け、先生に相対して、御本を返しながら借用のお礼を述べようとしたそのとき、突然の叱責であった。「本を返すのに、壁に寄りかかっているとはなにごとか」。先生は厳しく強い声で私の動作を叱った。私の右肩が確かに壁に触れていた。研究室のセンタ―にはゼミ用などのテーブルがあり、机間と壁はあまり広くなかった。しかし確かに私は壁に寄りかかっていた。私はただ、申し訳ありません、と謝ることしかできなかった。

先生の研究室を辞しながら、しかし私には不思議な感覚が残っていた。不謹慎かもしれないが、みずからの非についての反省ではなく、私の行為に対してそこまで強く叱責し、真剣に対峙してくださる、そういう貴重ななにかが、この大学には厳然として存在する、この大学はなんという大学であろう、これが和光なのか、和光が私の本当の空間になった、そのような感覚ではなかったかとおもう。

年を経た今はそのことについて、初代学長でいらした、梅根先生のことばが重なる。梅根先生が和光に思い描いた理想の大学像は、古田先生の一つの厳しいことばに厳然と具現されていた、私はそうおもう。梅根先生のことばをもう一度くりかえそう。誠文堂新光社発行の『生活教育』1965年5月号、「教育断想 和光学園大学」の末尾である。

「ただ学問と教育の好きな連中が集まって集団的に運営している大学、その意味でヨーロッパの中世大学がその始原において示したような、学者教師の集団(ウニヴェルシタス、スコラリウム)としての大学の理念を今日において再現したと言ってもいいような大学、それが和光の大学のあるべき姿ではないだろうか。和光学園大学を作ることについての相談をうけながら、私は、そんなことを考えている。」

研究棟はいつも、三年生を中心としたゼミ参加学生が各研究室に集っていた。1969年当時、各研究室の扉は開け放されていることが多かった。私が属した佐伯先生の研究室の前は宮崎健三先生の研究室だった。私もときどきお邪魔してそこで多くの新しい情報を得ることができた。和歌が好きで、のちの会話で彼が古今集の英訳を少しずつ進めていることも知った、宮崎先生の「万葉集ゼミ」に参加していた同学年の田辺君と親しくなったのも、こうした雰囲気の中でだった。

宮崎先生があるとき、お茶を飲むゼミ生に「そのお茶は100g1000円したんだよ」といかにもたのしそうに学生たちに話されていた。ゆっくり味わってくれよ、そんなおだやかな雰囲気が研究室にはいつもあった。そうしたアットホームな雰囲気がどこの研究室にもあった。佐伯先生は研究室で、ときどきゼミ生にアルコールランプのサイフォンでコーヒーを御馳走してくださった。それがたまらなくおいしかった。それらの一つ一つが、私の和光での復活の日々となった。

宮崎先生とある日二人だけで、お話したことがあった。いつだったか、なぜそうなったのか、今ではもう詳細を思い出せない。ただそのときの先生のことばは深く心に残っている。


先生は静かに言われた。「私は和光に来て初めてゆったりすることができた」そういう内容のことを伝えてくださった。それが和光であった。宮崎先生も佐伯先生もそして私も、ゼミ生の多くが、どこかおだやかな陽だまりにいるようなあたたかさに包まれていた。「復活」の日々は、決して私だけではなかったとおもう。

この新しい大学に集った若き学徒の一人一人が、私が感じたような、あるいはもっともっと多彩な日々と、つねに新しく出会っていたのではなかったか。3年から入った私には遂に未履修となった、一年時のプロゼミで、前期教養科目で、体育のグループ別のバレーボール競技で、あるいは夏の日のプールで、私よりはるかに大きな「奇蹟」を体験していたのではなかったか。私は今遠く振り返りながら、知り合った幾人かの姿を思い返しながら、真実そうおもう。

ある日研究室に飛び込んできた一人が叫ぶ、「今日のカレーには具が入っていたぞ!」そうなのだ、私も100円の素ラーメンを幾度食べたことだろう、あのガタガタしたテーブルで。脇では二人の男子学生が、向かいあって言っていた、ごはんに納豆だけをのせて、「これがいちばん体にいいんだよな」。和光のすばらしい日々よ、形を変えてもそれらが永遠ならんことを、切に祈る。

あの写真は今も掲載されることがあるのだろうか、若き杉山康彦先生が旗をかざして学生たちと和光坂を上ってくる、あの和光の若き日々を象徴する写真を。だれもが繰り返し見たであろう、杉山先生の腕高くひるがえる旗を。

それらを主導し、静かに見守り、文学科のすべてから敬愛された近藤忠義先生、和光が四ん度目の青春となった近藤先生が、今、和光から永遠に去ろうしている。もうあの優しい笑顔を見ることができなくなるかもしれない。私の復活を見守ってくださった先生、レポートを丁寧に読んでくださった先生、酒井君と田辺君と私の、新しい旅立ちを自宅で祝って下さった先生、卒業記念に三人に新刊の岩波新書『東京大空襲』を贈ってくださった先生、それらのすべてが今消えゆこうとしている。駅へ向かう漆黒の空に、かなしみを隠したさびしさが、あった。

1976年4月30日、先生は 逝去された。

近藤忠義先生は、華埜井先生の読経に遂に見送られることはなかった。

華埜井香澄先生は、1976年4月26日、近藤先生に先んじて、逝去なさっていた。

お二人がなさった約束を、和光大学に永遠に残して。



After


14.

1982

Coffee shop



14.

1982

Coffee shop

1982年

喫茶店

1979年、私は勤めていた全日制高校から夜間の定時制高校に転任し、和光大学人文学部人文学専攻科にふたたび入学し、文学科の川崎庸之先生のもとで仏教典籍を含む平安朝漢文学を学ぶこととなった。先生の勧めで、合わせて人間関係学科の西順蔵先生の中国思想史も受講し、東京外国語大学で現代漢語の初歩を学んだ日々からの一つの帰結をみずからに課すこととなった。

1971年3月に人文学部文学科を卒業したときに見い出せなかったみずからの主題を、32歳を目前に控えたこの年においても、私はまだ見い出せないでいた。ただ文学科在籍時に受講した中国文学の小野忍先生やロシア語の千野栄一先生にも再会できるだろうことで、私に新しい方向が見えてくるかもしれないというかすかな期待も持っていた。そして文学科当時はヴァレリーの講義を受ける力がなかった、華埜井先生のフランス語関係の講座も、もし可能ならば受講してみたいというおもいも抱いていた。

私は東京外国語大学で、詩人でフランス文学者であった安東次男先生の文学の講義を受講し、ご自宅へも伺ったことがあったが、フランス語そのものはほぼ完全に独学であり、初級だけであったが、教えてくださったのは、華埜井先生ただお一人であった。しかし単位の取得はできなかった。4年となった私は、将来の進路がみえないままに、当面可能であった教職に就くための講義がまだいくつかが残り、教員の採用試験も近づいていたため、秋学期からの語学の授業はきつく、3年に編入学後の2年間で卒業および教職のための講義を受講するだけで精一杯であった。

私が華埜井先生からいただいたのは、フランス語初級の教室で私にテキストの音読が回ってきてなんとか読み終えて授業が終わり、ゼミを受けていた俳諧史の佐伯昭市の研究室でゼミの友人と話していたとき、華埜井先生の研究室に参加していた友人が、息を切らすようにして研究室に入ってきて、私に「田中、おまえの発音を先生がほめていたよ」とまるで自分がほめられたかのように、嬉しそうに話してくれたことであった。私も本当に嬉しかった。高校時代から独学で学んできたフランス語を、フランス語の先生が認めてくださった。それは、先生が私にくださった、心優しい受講証明であった。

私は1980年に専攻科を修了し、同年4月から1986年3月まで人文学部の研究生として、引き続き川崎先生から平安朝漢文学のご指導を受け、私自身としても、平安朝の最澄、空海、徳一等の著述を少しずつ読み始めることとなった。専攻科・研究生時代に多くの先生方から賜わったあたたかなご指導は、まさしく数えきれない。

特に専攻科論文として提出した「平安朝漢文学の一考察 ー三教指帰についてー」に関して、中国文学科の小野忍先生が指摘してくださった、論文に対するあたたかくしかし厳しい批評は、多分生涯忘れることはないとおもう。それは私自身が論文を書き進めながら、大きな問題点として認識していたが、それを論文執筆中に表明すると、私の論文の根幹を再構成しないといけないことをみずから熟知していたからであった。論文提出の期限が迫っていた。しかし小野先生の慧眼は、論文一読後、それをすぐに読み取られた。

先生は、「田中君、研究室に来ないか。見せたいものがある」とおっしゃられて、研究室で先生ご自身が訳され、昭和14年1939年に東京文求堂から刊行されたベルンハルト・カールグレン著の『左傳真偽考』の初版本を私に貸与して下さった。「カールグレンの方法は一定程度有効だが、過信してはいけない」というのが、私への先生からの忠告であった。私は先生のおことばを、論文を書くときは、あくまで自分に忠実に書かねばならない、あるいはそうおっしゃられたかったのではなかったか、今ではそうおもっている。論文とは、結論のためにあるものではない、先生は私に人生そのものへの、指針をこめてそうおっしゃられたのではなかったか。

ONO SHINOBU AND BERNHARD KARLGREN

1969年、私が和光の3年に編入学したとき、人文学部長室の先生の前で、編入学の自筆署名をしたときから、また先生の研究室で、近代の中国文学と日本文学についての特講を受講したときから、すでに10年が過ぎていた。私が1971年3月に文学科を卒業し、都立北多摩高校で教員として四苦八苦していた夏、先生からお手紙をいただき、その中には卒業時の立食パーティーに参加していた私を、先生が写してくださった写真が同封されていた。「田中君が写っているので送ります」と書かれていたとおもう。私はその手紙と写真を、一人で悪戦苦闘している私への励ましと感じ、まだほんの少し前なのに、先生の懐かしさや優しさに、不覚にも涙が出そうになった。

川崎先生は私の専攻科論文について、「途中まではどうなるかとおもったが、なんとかまとめたね」と講評してくださった。先生は私にいつもそうした話し方をされた。平安時代の公卿の漢文の日記を少しずつ読み始めて、あるとき先生に、東京大学史料編纂所から刊行されていた『大日本古記録』の中の大書の一つであった、関白藤原忠実の全五巻『殿暦』に挑戦してみようとおもい、全巻をそろえて購入し、先生に「あの本(を読むこと)はどうでしょうか」と先生のお考えを伺うと、先生は微笑むような感じで「もう少し待ったほうがいいね」と一言だけおっしゃった。確かにこの本は歴史事象が際限なく多出し、漢文が少し読めるというだけではどうにもならないものであった。先生との会話で、最も恥ずかしかったことの一つだった。

先生の書籍の読み方で、おもわず顔面蒼白となるようなことが幾度もあった。先生はいつも静かであったから、こうした私の書き方を、しかたないか田中君は、とおっしゃるかもしれないが、一つだけお伝えしておきたい。

古文書講読の時間に空海の書簡の解読で、その中に漢文で使われる返り点「レ点」と同一の印が文面に付されていて、先生も「レ点と同じだね」と説明されたことがあった。講義後、研究室で先生にレ点の初出等について尋ねたとき、先生は「初出かどうかはわからないが、御堂関白記に出てくるね」とおっしゃったので、私は偶然にもその頃、藤原道長の日記である同書を毎日カバンに入れて持ち歩き少しずつ読むようにしていて、そのときも全三巻を持っていたので、先生に、「今関白記は三巻とも持っています」とお伝えすると、巻数は今は失念したが、先生がその巻の一つをおっしゃたので、カバンから出してお渡しすると、先生は頁を二、三枚めくり、「田中君、ほらここだよ」とレ点が打たれた道長の漢文の一節を見せてくれた。御堂関白記全三巻は総頁数で、全文句読点だけが打たれただけの、1000頁近くのものであり、私はその1頁を読むのにも必死で苦闘していた頃であった。その難解な書籍のたった一つの印が記され部分を先生は即座に指摘されたのであった。このときは私はみずからの非学などを超えて、まさしく顔面が蒼白になった。先生がお持ちになる、学問に対する凄絶な高みであった。

川崎先生と小野先生は本当に仲が良かった。川崎先生に、小野先生が私に、先生ご自身が訳されたカールグレンの『左傳真偽考』 を貸してくださったことをお伝えすると、先生はいつものほほえみをもって「小野さんは言語の達人だからね」とおっしゃった。小野先生は、1930年24歳でフロイド・デルの『アプトン・シンクレア評伝』を訳され、1938年には改造社からスヴァン・ヘディングの『馬仲英の逃亡』を翻訳されている。1979年に小沢書店から刊行された『道標 中国文学と私』においては、戦前の中国で満鉄調査部に勤務していたおり、ロシア人家族と知り合いになり、その娘さんにロシア語で学習を手助けされたことを述べておられる。

しかし先生の真骨頂は戦後の1948年、千田九一氏と始められた明代の小説『金瓶梅詞話』を、最初は千田久一先生とともに、最終的には先生お一人で1962年に完訳され、平凡社から中国古典文学大系として全3巻で刊行されたことに尽きるであろう。私はその原本を未読の状態で申し上げることは本来は控えるべきであろうが、中国明代の口語さらにはその時代の方言による難解極まるとされた本書を十数年にわたって精読し訳了されたことに敬服せずにはおれない。先生は晩年さらにその改定を考えておられたようで、言語との挌闘を私は目の当たりにするおもいであった。

小野忍先生によってなされた『金瓶梅詞話』訳了については、倉石武四郎先生の以下の評言があったことが、小野先生の最晩年の書である『道標 中国文学と私』小沢書店 1979年、の中に次のように記されている。

「 『金瓶梅』の作者が誰か文学史にとって難題であるように、その言語も難解を極めている。これではせっかくの記念碑も無字碑に等しい。その意味でこの翻訳はロゼッタストーンの解題にも似た意味を持つ。(倉石武四郎氏)」

1979年、私が和光の専攻科にもどった年、先生は元代の元曲および宋代の詞をゼミで取り上げられたことを、私は当年の講義要目で知った。ある日たまたま先生と帰りの電車でご一緒することがあり、先生に今年は難解な元曲と詞を選ばれたのですねとお尋ねすると、先生は、ああした難しいこともしておかないとね、とおっしゃった。私はそのことばを、和光の中国語科の若きゼミ員への先生からの貴重な贈り物として受け取ったが、後年、先生の東大での恩師、塩谷温先生が日本における詞の研究の先駆者であったことを知った。先生はその学統を和光の若きゼミ員たちに託したのだと、今の私は理解している。

この電車での先生との会話が、先生とお話しした最後となった。1980年秋、お元気であった先生は急逝された。青山斎場でなされた先生の葬儀では、川崎先生が葬儀委員長として、檀上中央に粛然として立たれていた。

1982年の秋に、東京大学出版会から『川崎庸之歴史著作選集』全三巻が刊行されることとなり、私もほんの少しだけその編集のお手伝いをさせてもらった。

今その選集の函に付された帯を抄出する。

「 川崎庸之歴史著作選集全3巻

四六版/各五〇〇頁/定価各三二〇〇円

七世紀から一二世紀に至る日本古代世界の営みを、古代人の哀感と生きざま、理想と現実の交錯のなかに見いだし。、多面的かつ立体的に描きあげた、珠玉の名篇の数々を全3巻に集成。

第1巻 記紀万葉の世界  解説・笹山晴生

第2巻 日本仏教の展開  解説・大隅和雄

第3巻 平安の文化と歴史 解説・網野善彦」

著作選集編集の最終期に、選集の概要を示すパンフレットが出来上がり、私にも知人等への配布のために幾部かが送られてきた。和光の先生方等にはすでに郵送されており、大学では親しい友人や親しい大学職員の方々にお渡ししたが、私は先生方のうち、日本中世文学の山本吉左右先生だけには直接お渡ししたいとおもい、先生の研究室に伺った。折よく先生はお一人で在室しておられ、私が「おかげさまで出来上がりましたので」とお伝えすると、先生は本当に嬉しそうに、「良かったね」とおっしゃってくださった。その微笑みが今も忘れられない。

パンフレットには三人の先生方の推薦文が掲載されていた。日本古代文学で特に古事記の研究で著名であった西郷信綱先生、日本中世法制史で優れた論考を著わされていた佐藤進一先生、そして立命館大学で日本古代文化史で多彩な論鋒を示されていた林屋辰三郎先生であった。

私の不勉強を示すこととなるが、山本先生は西郷信綱先生を中心とした研究会で長く研究を続けておられたことをのちに知った。従って西郷先生の推薦文およびその抜粋が川崎先生の著作選集第1巻の帯文となることは、ことのほか嬉しかったのではなかったかと、おもわれる。

山本先生から、私は文学科3年のときに平家物語の講読を受講したのみで、先生がその後展開された先鋭的な口頭文化の実証的研究については、まったく無知であった。山本先生のもう一人の師が廣末保先生であったことも、私はのちに知った。

法政大学国文学会から1990年に刊行された『日本文学誌要』第42巻に掲載された「<座談会>廣末保氏の問題意識をめぐって」において、山本先生は廣末保先生の著作に関連して、山本先生の生涯の主題の一つとなる説教について、廣末保先生の『漂泊の物語』の一節に触れて、以下のように発言されている。

「説教の徒というのは、物語という形式を不可欠の形式として持ち歩いている漂泊芸能民というのが、その「実体」だというのですね。ここでも「実体」という言葉の意味が一度解体されて、新たにその意味がつくられていく。そして、物語という形式と漂泊芸能民との関係性をとらえていく。その関係性の中にこそ、説教の徒の実体があるのだ、となってゆく。」

フィールドワークについて、山本先生は次のように語っている。

「廣末さんはフィールドワークはやらないのですよ。旅をするのですよ。そういう感じでした。旅行に関しては。(中略)なぜかといったら、われわれ自身の中に、昔から伝わってきた伝承的なものが即時的にあったわけですよ。だから近代主義をもう一度批判できるようなもう一つの核が他方にあった、という気がしますね、昔のことを言えばね。」

山本先生は、口頭文化については講演「もう一つの物語」の末尾で、次のように述べられている。

「口頭文化がまだいきいきと機能していた時代には、語りは、今日いうところの文芸でも芸能でもなく、過去の霊と密接にかかわりながら、過去を知ることのできるひとつの回路であった。そして、それらが語られる場も特有の意味をもっていた。中世の時間や空間は、今日のように均質ではなくて、それぞれが固有の意味をもっていたのである。」


川崎庸之先生の歴史著作選集全3巻が刊行されたあとの1982年の秋か冬近くであったとおもうが、ある日和光坂を上る手前で、私は坂を下りていらした山本先生と出会った。先生に挨拶をすると、先生は「田中君、少しお茶を飲んでいかないか」と私を誘ってくださった。そんなふうに下校前に突然和光の先生からお茶を誘われたりしたのは、多分初めてであったとおもう。今もあるかどうかわからないが、1982年にはまだ、和光大学が開学したころからあった喫茶店とも呼べないような小さなお店があった。坂を下りてくると右側で、2、3段の石段を上るとドアがあって中は2,3人でいっぱいとなる小さなやや暗いお店だった。先生が奥に坐られ、私が手前に坐った。

先生がなにを語られ、私がどのようにお答えしたか、今はもうなにひとつ憶い出すことができない。先生がなにか質問をなさったのでもない。向かい合って、私は、静かにコーヒーを飲まれる先生に相対していた。あるいは日々の日常に触れたお話だけであったのかもしれない。ただ先生の静かなたたずまいが今も私の内に残る。先生の安堵のひとときであったのかもしれない。研究生であった当時の私は、先生の講座をまったく受講していなかった。川崎先生の著作選集についてか、あるいは推薦文を書かれた西郷信綱先生のことが先生の内にあったのかもしれない。あるいは、田中君ご苦労さまということであったのかもしれない。

そのときの優しい先生の姿が今も忘れられない。私は1986年3月で研究生を辞し、そののち先生とお会いすることはもうなかった。先生は退官されてまもなく、2007年に逝去された。72歳であった。若き日の盟友、華埜井先生が1976年37歳で逝去されてから、31年が過ぎていた。


LETTER TO THE LIBRARY SHORT AUTOBIOGRAPHY BETWEEN 1969 AND 1986



15.

2003

Silk Road



15.

2003

Silk Road

2003年

絹の道

2002年の秋、私は肺炎となり、青梅市立総合病院に2週間ほど入院した。幸いに入院後の経過は順調で、1週間後には呼吸も体調もほぼ平常に戻ったが、体力の消耗があったのか主治医の先生は慎重で、退院まではもう1週間を必要とした。私は窓外に奥多摩の山々を見ながら、ようやく見いだした言語の主題について、まだ何も書き上げていないことを痛切に感じていた。退院したら、まず何よりもそのことを優先しなければならないとおもいながら、書かれるべき論文の片言や字句を繰り返し点検していた。

論考の骨子は、少しずつであったがまとまりつつあった。言語の本質とは何かを追求することが私の論考の主題であることに対しては揺るぎないものがあったが、言語そのものの深淵と広大を考える中で、私は今までの自己の集積を踏まえて、漢字を中心に置き、清代の精緻な言語学である小学を援用しながら、普遍的な文字論をめざし、そこからさらに言語そのものへと迫る方向を考えていた。

その結果、退院時までに、私は甲骨文として典型的な形態と意味を有するいくつかについて、それらの文字の中に時間が内包されていることを、王国維の論文等を参照しながら単語論としてまとめることを第一の論考とし、それを踏まえて、次に時間を内包する単語が連接することによって文が形成されることとなる統語論を第二の論考とする方向を考えた。しかしそれらを、言語哲学的な方向で進めるのではなく、あくまでも物理的な検証可能な方向で設定したいというのが、私の従来からの夢であった。高校時代から私の内に存在する理論物理学へのあこがれは、依然として私の思考の中核をなしていた。そして今はフランスのブルバキ集団 Nicolas Bourbaki が1960年代までに体系化した壮大な代数幾何の初歩を私は学んでいた。

和光での研究生時代、千野栄一先生から教えられたプラハ言語学サークル Linguistic Circle of Prague のセルゲイ・カルツェヴスキイ Sergej Karcevskij の「言語記号の非対称的二重性」Du dualisme asymmetrique du linguistique 1929 という論文が、私の中で去来し続けていた。例えて言うならば、私はこの高峰のはるか下方の裾野にベースキャンプを設営したばかりであった。

「言語記号の非対称的二重性」については、かつて短くまとめた文を書いたことがあるので、以下に再掲する。『冬へ』To Winter 2015 Chapter 16.

TO WINTER 2015

「対称性。それはかつて言語学のCと繰り返し話した内容だ。1920 年代のプラハ。雑誌 TCLP に載ったカルツェフスキイの論文、 「言語記号の非対称的二重性」。言語が保持し続けるところの、それによって言語が言語であり続けるところの、絶対的に矛盾する柔 構造と硬構造の共存。言語において二重に内在し続けるだろう永遠の矛盾。言語がかくも柔軟でかくも堅固でいられるのはなぜか、そ のほとんど絶対的に矛盾するかともおもわれる二重性をカルツェフスキイは提示した。Cがその最後の本の中でただ一人天才と称した 言語学者、セルゲイ・カルツェフスキイが残した白眉の論考。なぜこの共存が可能なのか、この二重性に対する整合的な理解は今もなお、たぶん提出されていない。」


この文でCと記されたのは、千野栄一先生であり、C の最後の本というのは、1994年に三省堂から刊行された先生の『言語学への開かれた扉』Janua linguarum reserata のことである。カルツェフスキイの論考は、言語学において難攻とされ、ほとんど手を付けられないでいた意味についてそのマクロな構造を簡潔に二分して示した画期的なものであった。

2003年に入り、私は上述した二つの方向をほぼ並行してまとめ始めたが、単語論と統語論の二つを繋ぐ言語の論理を構築できないまま、春を迎えた。この年も近年続けてきた新潟県湯沢での春スキーに、二人の子供が学校が春休みになったので出かけ、子供と家内はそれぞれの力に応じたスキーを楽しんだが、私は一人ホテルに残り、私の論考にどうしても必要であった、単語から統語への連結部分構築のための見えない論理を追うことに集中した。

結果的には、却って何も参考となる資料を持ってこなかったために、湯沢に到着した翌日、私はほとんど筆をおくことなく書き進め、単語論と統語論を結ぶ原理的な論理をまとめることができた。この文章は、走り書き的でありかつ未完であったために、二つの論考を書き終えた後も、Web 上に Upload することはなかったが、2015年、あらためて子細に読み直してみると、この文章の中に私の言語についてその後書き続けた主題のほとんどの萌芽を認めたため、あらためて短いまえがきを付し, Manuscript of Quantum Theory for Language 「言語の量子論のための草稿」と題して Upload することとした。このまえがきにおいて「恩師」として記されているのは、和光でゼミを受講した佐伯昭市先生のことである。

MANUSCRIPT OF QUANTUM THEORY FOR LANGUAGE

東京に戻ってからしばらくした四月ごろ、その頃時々見ていた国立情報学研究所のSite を開くと、研究所と文部省の共催で、Silk Road に関する国際シンポジウムが奈良で開催されることの予告とそこで発表する論文の募集が掲載されていた。私は湯沢で書いた草稿を元に二篇の論考を書き上げていたので、そのうちの統語論に関する論考を、応募論文として提出することを決め、国際シンポジウムであったため、論文は英文表記を原則とするとされていたので英語へ翻訳することとし、一部をより論理的に明瞭にするために添削し、5月の提出期限までに無事応募することができた。その論文はQuantum Theory for Language と題され、言語を物理的な量子とみなし、その結合によって文が形成されるというものであった。

QUANTUM THEORY FOR LANGUAGE

言語を量子として扱うということに、常識的な不安を感じながらも、その方向に私は未来的な展望を感覚的に確信していたので、ほとんどためらうことはなかった。幸いにこの論文はシンポジウムの言語文学部門の4編の口頭発表論文の一つに採用され、私はその年2003年の12月23日と24日 に奈良東大寺の向かって右奥にある奈良県立公会堂で行われたシンポジウムで 23日に発表することとなった。同部門の発表者は、北海道大学教授と東洋文庫員および企業の研究者と私の4名であった。

23日午後の口頭発表を終えるとさすがに安堵した。二日目の24日の午後、メイン会場となるホールに行くと各国の研究者が集い、さまざまな言語が話されていた。シンポジウムの主題からか、中央アジアから出席された方々が特に多いようであった。招待講演から始まり、部門別の講演があり、口頭発表、パネル発表、関連情報の掲示等が公会堂全体で行われていて、延べ参加数は400名近くと伝えられた。私にはこの会場そのものが、現代のSilk Road の終着のようにおもわれた。

私の論考の中心となる量子は物理学の概念であるが、数学から見ても非常に魅力的なものであったため、数学における群論に取り込み量子群とみなして定義することが、1980年代にグリンフェルト V. G. Grinfeld によって提唱された。

Hopf algebra and the quantum Yang-Baxter equation. 1985 がその嚆矢となる論文である。同年、日本の神保道夫も論文 A q-difference analogue of U(g)and the Yang-Baxter equation. 1985 を発表し、この二者によって、物理学と数学が架橋されることとなった。

量子を数学で厳密に用いることが可能となってきたことが私にも明瞭となってきたのは、さらに後年となる2000年代後半であった。私の量子に対する感覚的な方向はこうして完全に厳密な数学的定義によって確定されたものとして、使用することができるようになった。

私はこの量子をさらに幾何学的に変形し、物理学の熱量等を数学に導入したペレルマン Perelman 等の業績を援用して自然言語から信号、さらにその元となるエネルギー要素へと拡張させた言語表象とその応用へと進み、人間の神経を量子的に変形させて応用科学へと導こうとする、Quantum-Nerve Theory を2018年から2019年にその準備的考察をほぼ終了して、現在はその数学的構造を代数幾何的に進展させる方向に至っている。あわせて神経理論の骨格を作った1980年に35歳で逝去されたDavid Marr の著作 Vision、副題として「視覚の計算理論と脳内表現」等の重要な方向も学び続けたいとおもっている。

QUANTUM NERVE THEORY

2004年に戻ろう。

2004年1月に情報学研究所から、口頭発表論文等を冊子として刊行するので完成原稿を送られたし、とのメールがあり、私は口頭発表原稿をさらに添削して送付した。5月には論文等が掲載された厚い冊子が関係者に届けられた。従来の原稿と区別するために、冊子上の表題は、Quantum Theory for Language Synopsis とした。


1967年に外語に入学したとき、私はアジアの言語からヨーロッパの言語へ向かう大きな方向を考えていた。それから40年近くを経て、私が初めてみずからの主題をまとめた論文を掲載した冊子が日本から中央アジア、そして西欧へと送られることとなった。

Silk Road は、今も続いているのかもしれない。それが論文を書き上げた私の素朴なおもいだった。




16 .

2015 

Story To Winter

 

16.

2015

Story To Winter

2015年

物語 『冬へ』

2003年から書き続けてきたLanguage Universals 言語の普遍性に関するPaper 論考が、みずからの中で一段落したと感じた2012年冬、65歳となった私は、言語を公理と定理から導く、青春の日々から求め続けてきたものではあるが、ある点では非情な数学の世界そのものから一歩離れて、そこに生きる人間をあたたかく描いてみたいというおもいが強くなり、自伝的な要素を含んだ一つの青春の可能性を、ともに孤独ではあるが決して孤立してはいない二人として描いてみたくなった。


主人公の A も再会した I も、羽を痛めたヒヨドリも、みなある意味では作者そのものの分身であった。物語として完成しているかどうかは素人の私には判断できないが、私はこの物語を書きすすめるうちに、いつか、青春の日々にさまよう中での、救済とも呼ぶべきものを表現したいとおもうようになった。

人はみな生涯で、多くの人に出会い、おもいがけない支えを受け、不意の別れに接しながら、みずからの生の主題をいつかは見い出そうとする旅を続けてきたのだろう。私もまたその一人であった。

人は決して強いときばかりを続けることはできないだろう。だからそこでは、気づかないうちにどこかで救済とも呼ばれうる何かに出会うのではないだろうか。それは決して弱いからではなく、あるいは弱いから求めるのでもなく、生きることそのもののうちに、多分必然として、救済は見知らぬうちにもたらされるものとして、きっと存在していたのではなかったか。私はいつか自然にそんなふうにおもうようになっていた。

物語は、風に寒さをおもう秋の日々からはじまり、冬のおとずれを感じさせる二人の、光あふれる一日で終わる。

すべての人が、この日の二人であるかのようにと、私はねがう。

「二人に今、恩寵のように冬が来る。」

私はこの物語を、そう結んだ。


TO WINTER



17.

2018

Language



17.

2018

Language

2018年

言語

あるとき、人から、あなたはどうして言語のことを追い続けるのですかと尋ねられ、その場ではすぐにはうまく答えられなかったことがあった。しかしその後もそのことはやはり気になり、しばらく考えているうちに、その問いは、あなたは何を学んできたのですかという問いと、ほとんど重なっていることに気づいた。私はこれまで、言語を中心とした本当に狭いことしか学んでこなかったからである。

私の青春は、別の面では、近代とはなにかと問うことからはじまったようにおもわれる。私がそのとき、そのことを 問うことができたのは、中国とフランスという場があったからであった。中国にあっては、私にとっての近代とは、清朝の精緻極まる文字学であった。フランスの近代は、ランボーやヴェルレーヌやラフォルグに代表される象徴詩であった。

しかし二つとも私にとっては、言語という大きな壁があった。中国の場合は、文字学・音韻学を含む古代漢語、いわゆる経学の膨大な遺産との格闘があった。フランスの場合は、語学も勿論であったが、根源的に私にとっては、詩そのものがよくわからなかった。

たとえばイギリスの詩については、高校時代から少しづつ親しんできていたが、その弱強の韻律の美しさはいくら音読してみても、私には心地よいなどとは感じられなかった。のちにシェイクスピアの戯曲、「ヘンリー4世」の冒頭を読んでいたときに、はじめてイギリスの詩の韻律の美しさを感ずることができた。このときは本当にうれしかった。

それに比して、フランスの詩はその音韻律が開母音の日本の古来からの韻律と近かったために、音数律による詩の美しさは、高校時代にフランス語を学びはじめたときから、実感することができた。しかし韻律と象徴の相関というようなフランスの象徴詩の根幹にいたっては、当然ながら私のレベルをはるかに超えるものであった。これものちに、鈴木信太郎先生の『フランス詩法 上』に接したとき、先生が「後記」で著作の完成に1924年から1950年まで26年を要したことを知り、みずからの無知がかなしいほどにおもわれた。

従って私はもう十分にみずからの非学を感じながらも、言語への別の経路を模索する日々が続くこととなった。私がその中で得た結論は極めて単純なものであった。言語の探究がいずれにしても困難であるなら、言語の本質とはなにかという最も根源となる問いこそが私の学びの中心となるのではないかということが、和光での研究生時代の後半、千野栄一先生の『構造言語学』を受講する中でほとんど確信に近いものとなっていった。

ある日講義が終了したあと、私は千野先生とドアの前で話したことを昨日のようにおぼえている。多分研究生の終了が間近となった1985年の秋頃ではなかっただろうか。先生は私に「今何を考えているのか」と尋ねられた。私はそのころ、Godel およびその盟友であった竹内外史の集合論に依拠しながら、言語、正確には単語の意味の内部構造を集合論をもととした数学で記述したいという、ほとんど夢に近いようなことを考えていたので、それを素直に述べると、先生は本当に怒ったように、「それはWittgenstein のようなものがやることで、私たちがやることではない」と私に話された。そのことが忘れられない。

しかし私は、結局その夢を追い続けた。そして現在も多分その位置の延長にいる。先生がおっしゃったように、それはたしかに夢であった。しかしその夢を私に紡いでくださったのも先生であった。プラハ言語学サークルの存在とカルツェヴスキイの一篇の論文「言語記号の二重性」。先生がそれらを私に提示してくださらなかったら、現在の私は存在しない。

COFFEE SHOP NAMED CALIFORNIA

だから、どうして言語のことを追い続けてきたのかと問われると、言語がそこにあったから、と答えるしかない。山がそこにあるように。そんなことを書いて、私は問うた人 Y に, ある日メールで送った。その全文を、References  を除き、ほとんどの固有名詞を明瞭に表記して、以下に再掲する。


「 Letter to Y. Of Broad Language 4th Edition


Dear Y.,



1. 言語の定義から言語研究の方向決定へ


1.1

私は日本語の「研究」ということばはあまり使わないのですが、ここでは言語について考えることを簡単に言語研究ということばで示しますと、質問は、言語研究の目的 aim と言語研究の応用 application ということになるかと思います。

ここで言語とは何か、ということになりますと、一般的には、言語は、人間がその心の状態をかなり精密に伝達する一方法、というようなことになるかと思います。ここでは通常、人間が話し聞くことばが想定されています。いわゆる自然言語 natural language です。しかし私は、みずからの言語研究 research on language において、こうしたいわゆる言語の定義を行っていません。私の研究はもちろん、自然言語を含みますが、もっと広範囲なものです。しかも私の考えでは、言語を自然言語で定義しても、あいまいなものにしかならないと、思います。数学基礎論で超言語などが提唱される所以です。


1.2

私はですから、自らの研究を、言語学とは呼ばず、英語でも linguistics, philology などの用語を用いていません。これらの用語は、自然言語を中心にしているからです。私の場合、もっと広範囲となりますので、ただ、research on language などと書いています。この広い言語、私の用語ではBroad Languageとなりますが、これについては後述します。

それで、そうした未定義なままで、混乱などは起こらないかということですが、私の場合、書かれた内容で、私が言う言語の状況が(多分)わかりますので、それ以上の、あいまいな定義は用いないことにしています。用いるのは主に、数学ですから、その公理、定理などによって、築かれている世界が私が示す言語ということになります。数学はギリシャ以来、しばしば5000年の歴史などと書かれますが、長い歴史の中で、洗練されてきた結果を有しています。よく確率や統計の分野で、この結果は1億回検証したから、多分大丈夫だなどと使われますが、それでは1億1回目に検証したしたとき、不具合が出るかどうかは、保証されません。


1.3

数学は絶対的な保証がなければ成り立ちません。それが証明 proof ということになります。しかし「完全な」ということばは普通用いられません。Kruto Godel が「数学に内在する方法を用いて数学の完全性を証明することはできない」という不完全性定理 Incompleteness theorem を1928年に証明してしまっているからです。今では岩波文庫でその翻訳も出ていますが、私もその全容は今もよく理解はしていません。証明も幾種類かで読みましたが。外部から見ると不安のようにも見えますが、数学自身は、別にこうした定理があっても揺るぎません。


1.4

次にたとえば、言語において、私が距離ということばを使うとします。距離ということばそのものを、自然言語で厳密に定義することはかなり難しいでしょう。

言語空間などということばも使われたりしますが、空間を定義するのは、自然言語ではやはりかなり困難でしょう。

言語の変化などということばもよく使われますが、どこからどこへどのように変化するのか、変化するとしたらその実体はなにか、実体がなければ、その変化ということそのものが無意味になります。またそもそも変化とはなにかなどと考え始めると、もはや収拾が着かなくなります。Wittgenstein の有名な言葉に、「哲学は誤解の歴史だ」というのがありますが、言語の曖昧性の上に、砂上の楼閣のようなものを築いてきたようにも思えます。

基本的に言語を言語で定義しようとしても、困難が生じます。委細は省略しますが、特に1970年代以降、数学基礎論の分野で進展があります。2017年夏 に、竹内外史という数学基礎論の日本の Pioneer が死去しました。私も彼から多くを学びました。『数学セミナー』2018年2月号が彼を特集しています。私にはすごくおもしろかったです。

しかし私は哲学を否定しているわけではありません。逆に私の根幹は哲学から派生しているとも考えるからです。


1.5

このようなわけで、私は言語の Basic なものを、言語で記述することはしなくなりました。こう言うと簡単ですが、私の場合、ここにたどり着くのに、20代から40代までかかりました。

1970年代の終わり、多分1978年の夏休み(教員でしたから)31歳のとき、今も東京にありますが、東京言語研究所の研究応募論文に取り掛かったことがありました。別に賞を得たいとかということではなく、そういうことをきっかけに、自分の課題を確認したかったからです。内容は言語における文とは何か、ということで、現在考えていることの準備段階のようなものを自分なりにまとめようとしたわけです。方法は、数学の集合論と数学基礎論を用いようとしました。結論的には、書き始めるとすぐに自分の中の当時の集積では全く自分が目指すものが書けないことを納得し、この計画は放棄されました。ちなみに欧米では数学基礎論は数学の一部門よりも、論理学の一部門に位置づけられています。私もその方がよいと思います。


1.6

この時中止したのはなぜか。私の言語と数学に関する知見が少なく、能力も低いということは当然ですから、それ以外を挙げます。

#1数学の集合論を主に用いようとしたが、当時のその分野の数学の成果だけでは(多分)複雑な言語の状況を処理できない。

#2数学基礎論は論理の展開を追うものであって、言語そのものの根源に迫ることは(当時の成果では)できない。

#3言語全体は広大で、私の中で言語のどこに焦点を当てて論を進めるのかが、確定していない。

などがおもな中止の理由でした。


1.7

私は1979年32歳で大学に戻り、言語学の千野栄一と再会し(初めて会ったのは1969年、ロシア語の先生としてでした)、そこでおもに1920年代のプラハ言語学サークルの状況を詳しく教えてもらいました。その中でも Sergej Karcevskij の存在が圧倒的に私の中に入ってきました。千野が、最晩年の著書『言語学への開かれた扉』の中でただ一人天才と呼んだ彼は、言語の二重性を指摘しました。言語はやわらかく柔軟に外界のものを吸収するが、同時に強固で頑丈な構造を持っているというのです。この矛盾するような二重性の中に、言語の本質があるとしたのです。これは大きく言えば、意味論の一部をなすのですが、この意味という言語において最も重要なものを、当時の研究は、そして今もなお、難しすぎるとして、棚上げし、もっと簡単な音韻等の精緻な構築に向かいました。例えば1950年代以降の、アメリカ構造言語学などがその代表でしょう。それ以降の Chomsky の生成文法も意味はほぼ除外し、文法の構造を中心として探りました。こうした歴史進行の中ではやや一人、突出的であった Edward Sapir から、しかし私は多くを示唆されました。Drift という概念です。彼によって言語と運動、すなわち言語の時間的要素が浮かび上がるのです。これはのちに私の中で Perelman の存在と結びついていきます。

結局いつまで経っても、ロシア語は上達しませんでしたが、ロシア語へ愛着は今も深く、昨年久しぶりにロシア語文法の小冊子を読みました。むかし、白水社のクセジュ文庫にあった文法もよかったですが、今回のDover Publications の Brian Kemple の本は簡潔で重要部分は詳細であり素晴らしいものでした。著者はまたP.94で次のように述べているのが印象的でした。

"the definitions do not pretend to be complete, or to settle points of interpretation that grammarians have been disputing for the past several hundred years."


1.8

意味は言語の最も重要なものの一つであるにも関わらず、この100年余りの言語学において、常に除外されてきました。第二次世界大戦後、アメリカなどで一般意味論という分野が一時拡がりますが、これは言語が社会の中でどのような役割を果たすかというような、Macro なもので、やがて社会学や人類学の中に吸収されていきます。依然として意味そのものは未開拓の分野でした。私の場合、哲学的なものは、Wittgenstein の鋭い哲学批判(検証)をすでに踏まえていますので、これに Karcevskij が加わることによって、ほぼ準備が整ってきました。すでに対象は漢字および漢字を中心とした中国近代のきわめて厳密な言語学(小学)で進めることを考えていましたので、あとは書記方法としての数学の自分なりの洗練が課題となりました。


1.9

幸いに1980年代ごろから、数学が飛躍的に発展し、幅広い分野に応用される時代がやってきました。岩波書店はほほ30年近くをかけて、数学の叢書を、入門、基礎、発展という順に整備してきました。共立出版も伝統的に叢書を持っていましたので、やはり様々な数学の現代的な成果を出版し続けて、現在も進行中です。私は今、「数学の輝き」シリーズを愛読しています。

或る数学者が、対談の中で、「今はやっと数学が様々な分野の問題を記述する蓄積ができましたね」と話していることに象徴されますが、私が1970年代に中止したことを、今度は豊潤な数学の方法を自由に選びながら、自分の問題を表記できるようになりました。ここに哲学-Wittgenstein、対象-王国維などの小学、目的-Karcevskij、方法-Algebraic Geometry 代数幾何学,とすべてがそろいました。1980年代の中ごろです。


1.10   

1986年、大学の研究生を終え、教員をやめ、文庫をつくり、ほぼ言語研究に専念できることとなりました。周囲の理解があったことがもちろん一番大きかったのですが。私の所得は激減しましたが、中国語教授、歴史講座、仏教講座、日本語講師等々で、最低限の所得を確保しながら、現在に至ります。1985年にA 先生から K 大学への講師の話がありましたが、この時、私にとって大学は、限りなく感謝はしていますが、すでに私が進む main の field ではなくなっていました。


1.11

1986年以降、中国文献、仏教文献等を中心に読みながら、Karcevskij の方向を目指しましたが、2002年肺炎で青梅市立総合病院に入院したとき、偶然にも集中的に考えることができましたので、王国維の論文をもとに、言語、私の場合、漢字ですが、その中に内在する時間の問題をまとめたのが、On Time Property Inherent in Characters, 言語に内在する時間という性質について、というものでした。この時期に、Macro な観点から私の言語研究の方向を探ったのが、のちにManuscript of Quantum Theory for Language と題してuploadされたものです。ともに、2003年3月、長野県白馬にスキーに行ったホテルで、皆がスキーをしているときに一人で集中して最後のまとめをしました。懐かしいです。


1.12

話は飛びますが、仏教文献の奥深さを知ったのもこのころです。大正新脩大蔵経・日本仏教全書などで読み進めていましたが、インドにおける仏教終末期の文献は、特におもしろく、例えば、世界の螺旋構造などが紀元4,5世紀ごろまでに明瞭に示されています。DNAなどの現代生物学の状況と対比すると興味深いのですが、安易な類比は避けるべきでしょう。物理学から派生する分子生物学の黎明期に私は深い愛着を持っていますが。

日本では最澄・空海を中心に読みました。最澄は読みにくく、空海は読みやすいというのが印象です。私が敬愛する日本文学の近藤忠義先生は旧ソ連の学者から空海の『文鏡秘府論』の送付をお願いされ、約束を果たすのですが、近藤先生ご自身は未読だとエッセイで書いておられました。この本は同時代の類書がなく、唐代の音韻論として高く評価されていますが、現代の音韻論としても読み応えがあります。ただ句読が打たれていないと読みにくいでしょう。今は中国で良い刊本が出ています。私はその一冊を購入し、通読しました。近藤先生への遙かに遠いレポートであったかもしれません。


1.13

無著・世親の仏教論は大正新脩大蔵経で読みましたが、東洋における哲学の高峰として、信仰の有無を超えて、思わず襟を正させるものがあります。今も時間があれば繰り返し読みたいものです。大学に入った時からの、東洋から歩み始めようという私の信念はここに至って一つの実を結んだ気がします。

昨年2017年秋、東京国立博物館で、鎌倉時代の彫刻家、運慶のの特別展があり、久しぶりに無著と世親の彫像に再会しました。奈良の興福寺で見たのは、私の30代でした。そこではまた東大寺再建の勧進を行った重源の座像にも再会しました。この像の初見は京都国立博物館で、私が参観したとき、フロアには私以外誰もいませんでした。その時の高僧の座像はいかにも勧進を終えた安らかな老僧でありましたが、昨秋再会したときには、むしろ老師は私よりはるかに若々しい充実した気力を感じさせました。私の老いと年月の流れを感じました。

また鎌倉時代の東大寺の学僧、凝然の『三国仏法伝通縁起』を、かつて恩師であった川崎庸之先生から勧められ、友人二人とともに読み合わせしたころがなつかしく思い出されます。私はこうして漢文に親しむことができるようになりました。

中国近代の小学については今は省略します。



2.言語研究になぜそこまで魅力があるか、そこからの発展や応用があるのか


2.1

Baseには私の理論好きがあります。高校時代に最も惹かれたのは理論物理学です。私の場合、湯川秀樹の中間子発見の方向ではなく、朝永振一郎の超多時間理論の方でした。その全容はかなり難解ですが、微積分、微分方程式の知識があれば、何とかなります。私はのちに自分なりに整理して、言語の時間性についてまとめたものがあります。王国維とSapirに示唆されています。今考えれば、ですから、理論物理から言語への転換はかなりの必然性があったようにも思われます。この間にDirac という明晰な物理学者の存在に気付いたのは大きな収穫でした。このイギリス人のすばらしさについては先年ノーベル物理学賞を受賞し、亡くなられた南部陽一郎もエッセイの中で書いています。


2.2

この理論好きとともに、私は根源的なものを求める、哲学の方向も好きでした。高校時代には曖昧でしたが、のち1970年代に、私の20代後半、Wittgenstein の翻訳が次々に出て、それらを読む中で、哲学という遺産の根本的な検証を行った彼の方向を考慮する中で、哲学の曖昧性は避けるべきで、別の方向を求めるようになりました。その結果最も有効と思われたのが数学でした。数学は高校時代から好きで、3年のとき、物理の運動についてその解を求めようとしたとき、最も有効なのが微分方程式でしたが、高3の微積分のレベルでは解くことができず、これは大学以降になるなと思ったことが印象的でした。


2.3

20代は教員をしながら、少しずつ数学を勉強していました。このとき神田で、フランスの数学グループ、Bourbaki に出会います。これがその後の私の数学の方向を決定しました。Bourbaki は、その趣旨は誰でも、明瞭で簡潔な出発点から複雑な現代数学の頂点まで行けるというものでしたが、精密な代わりに膨大で、私はその存在を横目で眺めながら、細々と勉強を続けました。


2.4

1.7で述べたように、1986年から2003年までで、Wittgenstein, 王国維、Karcevskij、Algebraic Geometry とそろいましたので、やっと動き始めることができるようになりました。この研究の魅力は、a.まずどんなことをしても完成などないこと、要するに無限であることが最大です。私は有限のものにはあまり興味を持ちません。内容的には、b.言語は人間の大きな用具ですが、精緻であるとともにしばしば誤解をも生む厄介なものでもあります。嘘つきパラドックス Liar's paradox ,または自己言及 self-referenceなどもその一例でしょう。そうした状況は Wittgenstein が精細に述べています。しかも c.言語の意味は、ほぼ100年以上攻めることもあきらめられてきた、難攻不落の孤城です。

つまり、無限、精緻, 難攻不落と三つそろえば、未踏峰を目指す登山家とほとんど同じでしょう。誰かが言った、なぜ山に登るのか、そこに山があるからだ、というのは永遠の名言です。


2.5

私の立場は以上のようなものですが、そこから何か現実の社会における発展または応用があるかということについては、ふだんほとんど考えませんが、強いてあげれば現在一つのことが考えられます。

それは医学への応用です。別にそこまで私が行なう訳ではありませんが、その理論的な方向だけは数学的に可能だと現在の段階でも思っていますし、そのための準備も応用を主に目指しているわけではありませんが、現在進行中です。私のSite, Geometrization Language の中の右側の Preliminary(準備的)というジャンルがそれです。 Geometrization Language とは「幾何化された言語」というような意味です。


2.6

まず幾何化とは何かを、簡単に示すことが必要でしょう。1980年に Thurston が3次元閉多様体が8種類の幾何構造に分解されるという予想 conjecture を提出しました。1980年代前半に Hamilton がこの予想をある種の方程式として定式化させ、2002年から2003年にかけて Perelman が最終的に解決しました。さらに簡潔にすれば、3次元の図形は8種類に分類でき、その定式化も可能だ、というようなものです。


2.7

ここからは私の推論となります。医学の分野では、今は様々な図像解析 image analysis がなされ、病気の特定や病気の進行段階などを特定するのに用いられています。この解析の判断は、医師の目視に依るわけですが、画像が多様化し、その量も膨大になる中で、現在では統計的処理を施して分類し、いくつかの類型に分けて、細かな判断が行われるところまで来ているようです。もしこの統計的集積を幾何化によって分類することが可能となれば、その図像は数学的に定式化され、定式は自然言語に変換されることとなることによって、図像解析は精密であるとともに正確に共有されうるものとなるでしょう。


2.8

すでに述べていますが、私はそうした応用を目指して、言語研究を行っているわけではありません。2.4 で示したように、私は未踏峰へのあこがれを持ち続ける一人の登山家に過ぎません。高峰のはるか下方に小さな Base Camp を単独で作っただけです。こうした登山家は世界に無数いることでしょう。しかしこうしたすべての比較や逡巡は、碧空に聳える未踏峰を見たときにすべて消えるのです。そこに山があるからです。


2.9

当面の結論を急ぎましょう。2.6, 2.7 等で示した図像などを、私は言語の領域に組み入れて考えています。絵文字Emojiも入り、LATEXも入ります。私はこうした言語の領域を、自分では広い言語、Broad Language と呼んでいます。この中にはエジプトの象形文字 hieroglyph、中国古代の象形文字、すなわち甲骨文 Jaguwenも入ります。しかし私の field は一時期流行した記号論 semiotics ではありません。Semiotics は豊饒な広野だとは思いますが、その方法が明瞭ではありません。今は詳述を控えます。

こうして考えてくると、BC1400年以降の古代中国の甲骨文がいかに重要であるかが想像できるでしょう。漢字は古代からの象形を現在まで途絶えることなく発展的に継承してきた現存の文字体系であり、言語の重要な一分野となるものです。私はこの漢字を最初に研究の対象としました。


2.10

私の言語研究の発展も以上で大体見えてくるでしょうか。言語の意味は時間的変化を含めて幾何学的な図形として数学で明確に表記される。しかし私は別にこうした発展などほとんど考えたことはありません。私はただ次のBase Campを築くために、荷物をより少なくして歩き始めるだけです。高いところにのぼるには、荷物は少ない方がいいでしょう。わたしの荷物は、漢字と数学があれば十分です。酸欠を防ぐために、中国の小学と漢訳仏典、段玉裁・王国維・章炳麟や大正新脩大蔵経・日本大蔵経がときに必要でしょう。エネルギーの補填のために、1920年代のLinguistic Circle of Prague が依然として大きなよりどころとなります。未踏峰にどこまで近づくことができるかはわかりませんが。それはもう私が問うものではありません。

このエッセイは、記憶を中心に書きましたので、細かい年次などにもしかしたら、記憶違いがあるかもしれません。また質問の答えになっているかどうかも、よくわかりません。その点はどうかお許しください。

こんなことを記していましたら、むかし、京都の仏教学の先生がその著書で書かれていたことばを、憶い出しました。先生がチベットで夜、野外で焚火を囲みながら仏教談義をなさったとき、仏教僧らは記憶に基づいて、縷々と経文を声(しょう)するのに、先生は机上で文献をもとに研究しているために、それに素早く応ずることができなかったと述べておられました。それはまた両者の仏教に対する真摯な姿勢を示し、信仰と学問の奥深さに打たれました。

どうかお元気でお過ごしください。


Cordially,

5 February 2018

TANAKA Akio 」


LETTER TO Y. 



18.

2020 

Gift



18.

2020

Gift

2020年

贈り物

私は2019年秋に幾度目かの肺炎を患い、ほぼ安静の中で憶い起こすのは、なつかしい青春の日々のことが多かった。その中心であったのは、文学科、専攻科そして研究生として過ごした、1960年代末から1980年代の和光大学での日々であった。その中のお一人に、若き仏文学者でいらした華埜井香澄先生の姿があった。

2019年、思い立って私は、華埜井先生の実家にお電話し、実弟でいらっしゃる華埜井究氏から先生の若き晩年のことをお聞きすることができ、のちお手紙までいただいた。それらによって、私は華埜井先生の究氏に対する深い愛情を感ぜずにはおれなかった。先生への追憶が、優しい愛に包まれた姿として、浮かび上がってきた。

このささやかな論考でどこまで先生のことをお伝えできたか、私の理解と筆力ではこころもとない。また先生に内在したフランス文学の世界またそれを超えた文学そのものに対する世界を理解することは、私の現在の力では到底不可能であった。


ただ私は、先生が『人文学部紀要 1 1966年 和光大学』に提出された論文「スタンダールと宗教」において「3.愛」の章の末尾で、スタンダールの文章を引用した部分が深く心に残っている。

「スタンダールはよろこんでイタリア人の同朋であることを認める。なぜなら、「彼らは必要とあればアウグスチヌスの Credo quia absurdum (不合理なるが故に我信ず)を何度も繰返す程の誠実さをもって信じている(29)」からである。」(29)Les Promenades dans Rome, Le Divan, t. I. p. 98.


先生は「むすび」の章において、上述の部分を敷衍するように、スタンダールについて以下のように述べておられる。


「彼にとって最も重要な幸福の要素である感動的な瞬間をもたらすものは、夢想もしくは瞑想と、劇的緊張とであった。そしてこの両者の共通の源は、宗教的な崇高な感情なのである。」

「スタンダールの倫理は、人間世界を再構成してゆき、かっては傲慢とか、あるいは無邪気さの支配していた世界から人間を抜け出させるのである。神の摂理のテーマは、自分自身と妥協しない、即ち自己との厳しい対決のテーマと不可分のものである。」


私はここに、私自身が青春において、考え続けた近代というものの、ひとつの明確な帰結をみるおもいがするのであった。言い換えれば、私は、私が高校時代からあこがれたフランスの象徴詩、ランボー、ヴェルレーヌそしてラフォルグの、私の心奥深くに響く残響の根源を、華埜井香澄先生の論文において、私自身がやっと発見することができたと、半世紀を過ぎた今、人間に寄与する学問の崇高さへと私を導いてくださった亡き先生へ、深い感謝と敬愛の念を、はるかに遠くお伝えしたくおもう。

私が、近代、さらに限定するならばヨーロッパの近代に触発された日本の近代を理解したいと、青春の日々からおもい続けながら、これまでその核心についに触れられなかったことが、ここに華埜井先生が『和光大学人文学部紀要 1 1966年』に発表された論文「スタンダールと宗教」をあらためて可能な限り精読し、そこにみずからの青春の日々からの歩みを重ねる中で、特に私が1964年の秋から冬に読み、深い感動をおぼえた『白き処女地』の信仰の世界の意味を静思する中で、私の思考に決定的に欠落していたことを、今ははっきりと自覚することができるに至った。

簡潔に述べれば、私はこれまで近代を、私なりに理解できた哲学や文学、あるいはより広く芸術の世界で考えてきた。しかしその中では、信仰の世界がまったく欠落していた。それは特定の宗教や宗派あるいは信念というものではなく、人間世界を超越した存在、それとの敵対、確執、共感あるいは共存が、私の近代理解には、まったく欠落していたのであった。

さらに要約するならば、私にとって近代とは、文学と信仰とのまったき融合、アマルガムの世界であったことを、華埜井先生はスタンダールにおいて、この上なく明瞭に簡潔に述べておられる。上述した引用をさらにつづめてもう一度以下にしるしたい。

「彼にとって最も重要な幸福の要素である感動的な瞬間をもたらすものは、宗教的な崇高な感情なのである。」 

「神の摂理のテーマは、自分自身と妥協しない、即ち自己との厳しい対決のテーマと不可分のものである。」 

ここに、先生の若き日の学的追究の精華が込められている。 

近代は、自己との厳しい対決の中に不可分に存在している、と。

華埜井先生はこの論文に、先生みずからの青春のすべてを注ぎ、それを、新たな歩みをはじめた先生ご自身と若き和光大学に贈った。

それは今も、新たな歩みをはじめようとする若きあなたに、贈られている。

かつての私がそうであったように、21世紀を生きるあなたに。




Afterword

From a far way off thinking



Afterword

From a far way off thinking

後記

遠いおもいから

華埜井香澄先生に関するこのささやかな論考を、たとえ未熟でもできるならば書いてみたいと思い立ったのはすでに数年前からであったが、昨年2020年夏に、どうしても書いてみたいとおもうに至った大きな契機となったのは、序でも述べたように、実弟でいらっしゃる華埜井究氏のお話しとお手紙に接したことによる。ご兄弟でなければ表わすことができない先生の生涯の大切な事実が、氏の短いことばの一つ一つから、先生みずからが話されているかように私に伝わってきたからである。一昨年2019年に突然お電話したことに始まり、ご多忙の中で、お手紙をいただき、また執筆への励ましまでいただいたことに、重ねて深く感謝を申し述べます。

2018年に論考を書きはじめたいとおもいたち、先生に関する資料を調べ始めたとき、半世紀前の個人資料を調べることは予想を超えて困難であった。昨年ふたたび思い立ったとき、先生が死去されるまで勤められた和光大学の、教学支援室、附属図書館等の方々が私の要望をこまかに聴いて下さり、 本務に多忙な中で、私のために倉庫・書庫等の資料を確認し、送付してくださった。私はこのとき、この論考の作成は、もはや私一人のものではないことを深く自覚した。華埜井先生の事績は、個人的な追憶を超えて、和光大学の方々にも、またそこに学ぶ若き学生の方々にも、大学草創期の一つの明確な記録となるのではないかと感ずるようになったからである。丘の上の小さな実験大学が残した、草創期の先生方と学生、そしてそれらを支え援助した職員の方々すべての数知れない努力の蓄積は、学ぶことの尊さと、それを実現することがいかに困難であるかをすべての人に伝えるであろう。そしてそこからまたまったく新しい飛翔がなされるであろう。

また私個人の半世紀を振りかえるとき、早逝した先生は、私にとってどのようなものであったかとみずからに問う。書き続けるうちにひとつだけはっきりとしたことは、先生の姿が私の青春と折り重なるように存在していたということであった。一度も直接お話したことがなかった先生は、一面遠い存在であったことは確かだった。ただ八歳だけ年上の先生は、私にとって、当時はまったく未確定であった生涯の主題や研究、広くいえば学問全体に対する深いあこがれを、常に身近に具現しておられた存在として映っていたのでなかったか。

フランスの語学と文学、そしてその底に沈む信仰。私の20代を魅了し続けたヨーロッパの近代。書くことecriture の方法と言語そのものの未知。華埜井先生の存在は、そのいずれにも深く係わっていたように今はおもわれる。私自身がそのころ、何ものをも持たなかったがゆえに、先生の静かで端正な姿から、一つの確立を、私には多分、年を経ても決してそのようにはなれないことを感じながらも、以後深い追憶として、存し続けたのではなかったか。

古希を過ぎ、今夏6月で74歳となる私にとって、華埜井先生は変わることなく、つねに若く、端正であった。人はときに、一見間接的であるように思われながら、深い意味を帯びた追憶をもつことがあることを、この論考によって少しでも伝えることができるならば、1966年にフランス文化使節として来日し、幸運にもそのテレビ放送を視聴できたフランスの哲学者ガブリエル・マルセル Gabriel Marcel 1889-1973 が1961年にハーバード大学で行った講演「人間の尊厳」で、「本質的な問いは、自分の生涯が、見慣れた風景のように背後に展開され、しばしば模索したり、偶然に左右されたりした過去の道程を回想できるようになったときに、個人的な形で、一人称でのみ初めて提出されうるものだといえると思います。」と述べているように、私は私の提出した問いに、答えることができたのでしょうか。


東京

2021年3月20日 

田中章男




Reference



Reference

参考文献


本論考を作成するにあたり、

引用しまたは言及あるいは参考とした著作を、辞典、語学書および随想を中心として掲載したものであり、

必ずしも網羅的なものとはなっていないことを、了承されたい。

 

REFERENCE 


REFERENCE 2 



From author

Trees and stone steps



From author

Trees and stone steps

著者から

木立と石段


 

2016年6月 撮影 田中



Trees and st0ne steps

ーFor the youth on the hill―


Look.

Those trees and stone steps are

Inscribing all dreams, sadness

and not being sent thanks in your youth,

probably losing nothing more.

So you can now

surely start everywhere you hope,

how winding your road may be.

With smile.

 

<意訳>

木立と石段-丘の上の青春に-

ごらん

あの木立と石段は

あなたの青春のすべての夢と哀しみと

伝えられなかった無数の感謝を刻んでいる

たぶんそこには

過ぎてきた日々が

失われることなく残されている

だからあなたは

旅立つことができるだろう

道がどのように曲がりくねっていたとしても

ほほえみを持って 



T.A.

Tokyo

25 February 2021

 

 


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